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夕陽に向かって

作者: 雪村 庵

どうも。雪村庵です。

2作目になります。


こちらも、1年ほど前に書いていたものを投稿させていただいています。

知り合いからシナリオを頂き、それをわたしが作品にしたものです。

改めて、その節はありがとうございます。


今回も楽しんでいただければ、と思います。


それでは、どうぞ。

 これは、僕がまだ小さかった頃のお話。

 僕の母の実家は、山の中の集落だった。休みに入るたびに、僕たち家族は実家へ足を運んでいた。

 今日は『ほったて様』について話そうと思う。僕が学生の頃だから、もうずっと昔のことなんだけど……


 ある日の事だった。傘を持っていくのを忘れていた僕は、友達から傘を借りることもできずにずぶ濡れになりながら帰っていた。体温が奪われて震える体を必死にさすって温めながら、家への道をひたすらに走り続けた。

「坊、そこの坊。」

 突然、どこかから声がした。周りには誰もいないはずなのに、その声は「坊」を呼んでいる。

 もしかして、僕は聞いてはいけないものを聞いたのだろうか?

 聞こえていないふりをして、また駆けだそうとした。

「そこのお前じゃ。ずぶ濡れの。」

 思わずあたりを見渡しても、この辺りには僕しかいなかった。

 恐る恐るその声のする方へ向いてみたら、どう見ても貧乏そうなおじいさんが立っていた。服装に似合わぬ、真新しい傘をさして。

「お前、傘を忘れたのか。」

 見ればわかるだろう、と少しいらっとしたけど、黙って頷いた。このおじいさんは、いったい何がしたいんだろう。早く家へ帰りたかった僕は、もう行くから、と足を進行方向へ向けようとした。その時、「わしについて来い」とおじいさんからまた止められた。

「でも、母さんに『知らない人にはついて行っちゃダメ』って言われてるから行けないよ」

「なに、心配するな。どうせそのお母さんっていうのはこの地域に住んでいた大人なんだろう?『ほったて様のところに行っていた』と言っておけ。そうすれば問題はないはずじゃ」

 結局、僕はその言葉に何も言い返せなくなってしまった。無言の肯定と受け取ったのか、ほったて様は僕の方へ傘を差しだす。

「お前も入れ。これ以上濡れても困るじゃろう」

 その言葉に素直に従って、僕はほったて様と一緒に歩き始めた。

「ここ、どこ?」

 ほったて様が足を止めたのは、お世辞にも綺麗とは言えない掘っ立て小屋の前だった。

「決まっとるじゃろう、わしの家じゃ。さあ、文句は聞かんぞ。入った入った」

 強引なやり方だなあ、と幼いながらに思ったことを今でも覚えている。

 外見とは裏腹に、思っていたよりも掘っ立て小屋の中は綺麗だった。ほったて様は、ずぶ濡れだった僕にタオルとTシャツ、僕が履けそうなズボンを渡し、小屋の奥へと入っていった。

 僕が全身を拭いて着替え終わった頃、ほったて様はマグカップを二つ持って戻ってきた。渡されたカップを覗き込むと、野菜がたくさん入った美味しそうなスープが注がれていた。

「ねえ、僕、野菜食べられないんだけど……」

 僕の言葉にほったて様はこう答えた。

「なに、心配するな。お前が思ってるほど野菜の味なんてしない。わしの特製じゃ、このあたりじゃ割と人気なんじゃぞ?お前も騙されたと思って飲んでみろ」

 騙されたと思って。一応ほったて様を信用して、マグカップに口をつけ、雨で冷え切った体へ、そっと流し込んでみた。

 騙されなくても美味しかった。芯まで冷たくなった僕の体に、あたたかく、優しく染み込むほったて様の特製スープ。どうして僕は野菜が嫌いだったんだろう、と思えるほどに、美味しかった。

「どうじゃ、美味しいじゃろう?坊は野菜が嫌いだと言ったな。その割にはよく飲んだな」

 坊、偉いな、と言いながらほったて様はにっこり笑った。僕の緊張をほぐしてくれる、人懐こい笑顔だった。

「坊、これ持って帰れ。返さんでいい。礼もいらん」

 そう言ってほったて様は、さっきまで自分が使っていた傘を僕の手に握らせた。それから、僕が着ていたびしょびしょの服も。

 掘っ立て小屋から僕の家までは、思っていたよりも近かった。家へ着いた僕は、母さんに、

「ほったて様……に会った」

 と伝えた。母さんは、

「ああ、ほったて様ね。あの人、私がここにいた時からいるけどちっとも変わらないわね。いったい何歳なのかしら」

と予想外の反応を見せたので、今度またその話を聞いてみよう、と思いながら、濡れた服を洗濯物のかごへ投げ込んだ。

 それからというもの、実家へ帰るたびに僕はほったて様のところへ行くようになっていた。そうして気づいたのだけれど、ほったて様はこのあたり一帯の子供たちにはよく知られているおじいさんらしい。

「純哉、ほったて様のところ行こうぜ」

「おう、行こうぜ!ちょっと待ってて、母さんに話してくる」

 母さんに「ほったて様のところに行ってくる」とだけ伝え、帰ってくるといつも一緒に遊んでいる涼くんと一緒に掘っ立て小屋へと向かった。

「にしても、なんでほったて様のところへ行くの?」

 疑問に思っていたことを聞くと、

「特に意味はないけど……なんとなく、かな」

と、明るい笑顔で涼くんは答えた。

 掘っ立て小屋までの道を歩きながら、僕らはいつものようにいろんな話をした。お互いの学校の事、最近地元であったこと、友達のこと。

ここには書きつくせない程いろんな話をして、僕らは掘っ立て小屋に到着した。

「ほったて様、僕です。涼です」

 当たり前かもしれないが、この掘っ立て小屋にはベルがない。家の主を呼ぶには、こうして大声をあげて呼ぶしかないのだ。

 なんじゃ、と中からすぐに声が返ってくる。そして開いた戸から、ほったて様が顔を出し、

「お、涼か。坊までおるじゃないか。まあ、入れ入れ」

と、僕たちを中へ通してくれた。

 ほったて様、僕お腹が空いた、とわがままを言う涼くんに「何言ってるの」と言って止めようとした。すると、

「わかった、ちょっと待ってろよ。わしが食べ物を持ってきてやる」

と、いつかの雨の日のように言って、ほったて様は小屋の奥へと入っていった。

 待たせたな、と出てきたほったて様の手元を見て、僕は反応に困った。今までに見たことないほどに豪華な食事が、彼の手にはあった。軽食じゃない。それは食事だった。

 嬉しそうな顔をして、涼くんが一言。

「いただきます!」

 困惑する僕を横目に、ぱくぱくと食事を始める涼くん。どうしようかと迷っている僕に、ほったて様が一言。

「坊も食え、お前も腹空かしとるんじゃないのか?」

 たしかにお腹は空いている。それに、隣で涼くんが美味しそうに料理を頬張っているのを見て食べたくならないわけがない。僕も、勇気を出して、たった一言。

「……いただきます」


 それから時間が経ち、気づけば空は赤くなり、太陽が山の端へと顔を隠そうとしていた。僕と涼くんは、何時間か前に歩いた道をまた二人で歩いていた。

「じゃあ、気を付けて帰れよ。涼と、坊、また二人で来たらええわ」

 『坊』という呼び名に少し不満があった僕は、思い切って彼にその些細な不満をぶつけてみた。

「僕、『坊』じゃなくて『純哉』です。ちゃんと、僕にも、名前、あります」

 僕の些細な反抗にも、彼は嫌な顔一つせずに答えた。

「そうか、純哉か、いい名前じゃ。わかった。涼、『純哉』、また来るんじゃぞ」

 僕とほったて様の会話だった。やっと、ほったて様に名前を呼んでもらえた。それだけのことが、なぜかはわからないけど、とても嬉しかった。

「そういえば、涼くん、聞きたいことがあるんだけどさ」

「うん、何?」

「ほったて様って、いったい何者なんだろうね。僕らみたいな地域の子供にあんな豪華なご飯ご馳走したりさ。僕、雨の日に初めてほったて様に会ったんだけど、その時は掘っ立て小屋まで連れて行ってくれて、着替えの服と傘をくれて、温かいスープまでくれたんだ」

 僕の言葉に、涼くんはこう答えた。

「僕ね、一回ほったて様に聞いたことがあるんだ。『ほったて様っていったい何者なの?』って。そのときね、ほったて様は『内緒じゃ』って答えたんだ」

 笑顔で涼くんの質問に答えるほったて様が目に浮かぶ。

 内緒、か。ほったて様らしくていいな、と思う半面、知りたかったな、と残念に思う僕もそこにはいた。

 僕が「そっか」と返事をしたきり、その話は終わってしまった。涼くんがいつものように他愛無い話を始めたので、僕もいつものようにその話に乗った。

 田舎の細い道を、歩いた。二人で、帰るべき家へ向かって。

「おい、純哉、ちょっと後ろ見ろよ」

 気づいたら後ろのほうにいた涼くんの声に、僕は振り向いた。そして、言葉を失った。

 僕たちの目の前に迫るような夕日が、そこにはあった。紅く染まった景色の中、僕たちは顔を見合わせた。

「純哉、お前顔赤いぞ」

「何言ってるの、涼くんも真っ赤だよ」

 一瞬の静寂。すぐに周りに響き渡る、笑い声。

 僕たちは、それっきりほったて様が何者なのか、という質問のことを忘れていた。


 それから何年が経ったんだろう。中学生になった僕は、変わらず実家に帰るたびに涼くんと遊び、ほったて様のところにも足繁く通っていた。ほったて様は初めて僕が出会った頃から全く変わっていなかった。一方、僕と涼くんは身長が伸び、声が低くなって、顔つきも少しきりっとして、小学生の頃のあどけなさは自分たちが見てもわかるほどに消えていた。

 そしてほったて様は相も変わらず羽振りがいい。どこからそんなお金が出ているの、と聞きたくなるほどに。僕らはほったて様のところに行っては何か食べさせてもらっていた気がする。それも、豪華な食事を。美味しかったことは言うまでもないけれど、あの掘っ立て小屋で食べるものは何でも、ただ美味しいだけではなかった。どこか懐かしさを感じるような、そんな味わいがあった。

 そして、人生で初めて『受験生』と呼ばれる中学3年生になった。僕も涼くんも絶望的に勉強ができないので、公立の高校へ進学するために、自然と遊びに行くことは少なくなった。

 それでも、時々ではあったものの、ほったて様のところへ行くことだけは二人とも欠かさなかった。あの掘っ立て小屋で勉強する日もあれば、行くなり二人で寝てしまったこともあった。受験勉強で溜まったストレスを、ほったて様に聞いてもらったこともあった。ほったて様はそんな僕らに「頑張れ」と言うわけでもなく、「もっとやれるじゃろう」と言うわけでもなく、ただ「今のお前らなら受かるぞ」とだけ言っていた。お世辞にも頭がいいとは言えない僕らは、学校でも家でも最近通い始めた塾でもそんなことは言われなかった。でも、僕らの事をまっすぐに応援してくれる『ほったて様』という存在は、ストレスに晒され、何度も挫折しかけた僕らをいつも見えないところで支えてくれた。

そのおかげか、僕も涼くんも、晴れて二人で「一緒に通おうな」と言っていた第一志望の公立高校に受かった。学校の先生も、塾の先生も、親でさえも受かると思っていなかった、普通科の高校だった。

 そのことを、ほったて様にも報告しに行った。二人で、お揃いの真新しい高校の制服に身を包んで。

 ほったて様は「やっぱり受かったのか」と言わんばかりの表情で僕たちを見つめていた。

「よくやったな。偉い、偉いぞ」

 手放しに褒められて少し照れるような、誇らしいような気持ちにさせられた。

「お前たちならやってくれると思っとったわ。高校生活、楽しめよ」

 そのあとに、こう付け加えるのも忘れなかった。

「彼女やら作るのは自由じゃが、たまにでもいいからわしも構いに来いよ。お前らの彼女を見るのを楽しみにしとるわ」

 その時に、ほったて様は僕らにお守りをくれた。これ何、と僕らが聞いても「何か困ったことがあったらそれを頼りにしろ」としか言わなかった。

 それから僕らは、たくさん遊び、時に勉強……とまでは言わないが、それなりの高校生活を送っていた。友達にも恵まれ、あいにく長くは続かなかったが彼女もできた。もちろん、あの時の言葉通り、ほったて様のところへ行くのも欠かさなかった。

 高校生活は充実していた、と言い切れるかと聞かれると答えはおそらく「NO」だった。もちろん、楽しかったことの方が多いと思う。でも、何か足りない気がしていた。それは、今も高校生だった頃も一緒だと思う。

 どうしてなのか、僕にもわからない。ただ、原因を挙げるなら、進学を諦めるか、無理してでも大学に進むか、と決めなければならなかったあの頃が、大きく関わっていると思う。


「なあ、純哉、」

 高校2年生のある日、普段あまり喋らない父が僕に話しかけてきた。父の口調から、これから話されることが決して僕にとっていいことではないことは確かだった。

「実はな、」

「父さんの会社、倒産したみたいなんだ」


 その瞬間、父の声が耳元でループし始めた。

 ぐらぐらと回る意識の中で、聞いてしまったその言葉は容赦なく僕を突き刺す。会社が倒産、ってなんだ。どういうことなんだ。いったいうちはどうなるんだ。など……

 考えても答えの出ないことを、自分に投げても仕方なかった。しばらくの沈黙を切り裂いたのは、母だった。

「純哉、進学、したいんだよね」

 黙って頷く。

「あと、1年あれば、どうにかなるかしら」

 それはわからない。

「生活のやりくりで精いっぱいでね、十分に貯金できてなかったの。純哉の進学の事考えたら、そろそろきちんとしなきゃなって思ってたの。その時に、ねえ……」

 要するに、お前を進学させられるほどに十分なお金はない、諦めてくれ、ということだろうか。言葉を失う僕に、今度は父さんが話す。

「こうなってしまったのは父さんの責任だ。お前に進学を諦めさせるようなことはしない。約束する」

 今までに見たことがないほどに弱り切った姿で、父は話を続ける。

「俺のせいで母さんにも純哉にも迷惑かけてしまった。本当にごめん」

 そう言うなり、深々と頭を下げる父。きっと、会社の倒産が決まってからこんな仕事ばかりこなしていたんだろう。そう思わざるを得ないほどに、その背中は疲れ切っていた。

「別にさ、」

 父さんの顔を上げさせたのは僕の声だった。

「会社の倒産なんて一人の社員のせいだけじゃないでしょ。それを『父さんが悪い』だなんて言わなくていいと思う。それよりさ、ちゃんとこの先のこと考えようよ」

 自分でも驚くほど前向きな言葉だった。でも、不思議と悪い気分はしない。喉の奥に引っかかっていた何かが、自然と取れていった気がした。

 そうだな、そうね、と父と母が同時に声を出したのが、なんでもないことなのにおかしかった。笑い始めた僕に続いて、二人もそっと笑みをこぼした。気づいてはいなかったが、そういえば最近二人が笑っているところを見ていなかった気がする。久しぶりに、僕たち家族みんなで笑っていた。

 とは言ったものの、やっぱり進学は厳しいだろ。と、ストローをくわえた僕は言う。

 昨日の話を涼くんにしたら「とりあえず行くぞ」とされるがままに僕は高校の近くのファストフード店に連れてこられた。

 僕の家の状況10秒前に話したよね?と聞くと「今日は俺の奢りだから気にすんな」と華麗にかわされた。

 まあなー、と涼くんは僕の声に答える。僕らももう高校生。大学進学の経済的な問題なんて高校で嫌というほど聞かされている。涼くんもストローをくわえながら話す。

「でもさ、今の時代奨学金とかいろいろあるじゃん?ちゃんと探せば進学する方法なんていくらでも見つかると思うんだけどな」

 まあそうなんだけどさ、と僕は自分の進路希望調査のプリントを見返した。第一志望以外はすべて私立大学。今のうちの状態では、どう足掻いても経済的な無理がある。いっそ進学諦めるか、と思いながらそっとプリントをファイルにしまった。今は家の事を忘れて友達と話していたい。その思いが勝った。

 じゃあなー、と僕に手を振りながら反対方向へ自転車を進める涼くんを見送りながら、僕も帰路へついた。片手には進路情報のサイトが開かれたスマホを持って。

 その夜、机の棚を開けた僕の目に飛び込んできたのは、いつかほったて様にもらった『お守り』だった。それを見た瞬間、僕の心にある考えが浮かんだ。

 ――ほったて様なら、助けてくれるのかな。

 ――もしも、この中に何か入っていたなら。

 馬鹿なことを考えている、と自分でも思った。それでも、期待せずにはいられなかった。

 ずっと助けてくれた、ほったて様がくれたものだから。

 意を決して、お守りを開けてみた。そこには、小さな紙切れが入っていた。

 その紙を、恐る恐る開いてみる。期待と、緊張と、不安が入り混じってもやもやした気持ちで、そこに書かれた文字を読んでみる。

『期待したか?これを開いたくらいで助かると思ったのか。』

 期待したか。きたいしたか。鉛筆で書かれたお世辞にも綺麗とは言えない字で、そう書いてあった。ああ、やっぱり期待するだけ無駄だったか。心では思っていながら、なぜか意味も分からず涙と笑いが止まらなかった。

 裏切られた。期待しなければよかった。どうして開けてしまったのか。どうして。どうしてなんだ。なんで僕は、なんで僕には――

「あっは、ははっ、あははははははははははははははははは…………」

 笑っていた。でも、泣いていた。気が狂ったように、ずっと。自室の床に伏せ、ずっと、ずっと。疲れて意識を失ったように寝てしまうまで、ずっと。息もできなくなりそうになるほど、泣き笑いを続けていた。次の日の僕の顔が見るに堪えないひどいものだったことは、言うまでもない。

 彼は、わかっていたのか。僕が、いつかお金に困ることを。そしてその時、このお守りの事を思い出すということまで。

 ほったて様に聞きたいこと、話したいことは山ほどあった。だけど、勉強に追われ、学校と家の往復を繰り返す毎日で、わざわざ行く時間が取れなかった。

 そんな時だった。

 ほったて様が、最近まったく見かけられていないと耳にしたのは。


 さすがに心配になって、無理やり時間を作ってほったて様のところに行った。もちろん、涼くんも一緒に。

 ねえいるんでしょ、出てきてよ、と声をかけても反応はない。最悪のパターンを考えながら、僕らは小屋の中へ入っていった。

 小屋の中には誰もいなかった。家主の代わりに、クモの巣に引っかかった食べられかけの小さな蝶が僕らを迎えた。

 どこを探しても見つからない。どこにいるのかもわからない。それに、今まで気づいていなかったが、電気がついていない小屋の中は、僕らの知っている場所とは思えないほどに真っ暗だった。まだ見ていない場所は、寝室だけだった。その寝室とみられる場所には、しっかりと区切りがあった。ここからでは中が見えない。

 でも、見ないと何もわからない。僕と涼くんは、最後の場所となるその部屋の仕切りをそっと開けた。


 そこに見えたのは、布団で眠るおじいさんだった。

 それがほったて様と気づくのに、少し時間が必要だった。最後に会った時よりもその顔にはしわが深く刻まれ、表情は決して穏やかではなかった。僕たちは、その場に立ち尽くしていた。

「なあ、ほったて様、」

 涼くんが呼びかける。が、もちろん反応はない。

「寝たふりしてるんだろ?起きろよ、起きてくれよ、」

 金縛りにあったように動けていない涼くんの代わりに、僕がしゃがみこんでそっと首に手を当ててみる。


「なんで、ねえ……なんで、冷たいの」


 ヒトの温度ではなかった。温かくも、柔らかくもない、大きなタンパク質の塊があるだけだった。これは人ではない。ほったて様じゃないんだ。ほったて様はまだ生きてる、ここに横たわっている冷たいものは僕の知らない誰かなんだ。そう信じたいのに、僕は何度もその名前を叫んでいた。

「ほったて様、起きてるんだろ、目覚ませよ!」

 涼くんが、僕よりも少し遅れて大声を上げた。僕と同じように、彼の身に起きていることを信じられていなかった。僕ら二人は、ずいぶんと長いこと叫んでいた。ほったて様の命が消えているということに対してなのか、早く見つけられなかったことに対してなのか、僕らの中に渦巻く後悔からなのかもわからない。でも、叫び続けていた。

 

 それから程なくして、彼の葬儀は静かに執り行われた。生きていた時のほったて様の雰囲気とは正反対で、薄暗く、湿っぽい葬儀だった。僕らは知らなかったのだけど、ほったて様は『夕陽さん』と言う名前だったらしい。

そして、ほったて様には家族がいたようだった。喪主は、弟を名乗るほったて様よりずいぶんと若そうな男の人だった。

「本当に、死んだんだな」

 涼くんの言葉に黙って頷く。実感は湧いていなかった。だからか、涙の一滴も出ないのだ。僕は案外冷たい人間なのかもなあ、なんて思った。二人とも、黙ったままで沈んでいく太陽をただ見つめていた。それは、ほったて様の心のように燃えているように見えた。

「純哉くん、って子はどこにいるのかな。君、知ってる?」

ほったて様の弟さんに、そう言って声をかけられた。僕です、と答えると、彼は寂しげながらも人懐こい笑顔を浮かべた。その笑い方は、驚くほどほったて様に似ていた。

「これ、あの小屋から出てきたんだ。『純哉へ』なんて書いてるけど、僕には誰だかわからないから探すの苦労したんだ。見つかってよかった」と話す弟さん―朝陽さんは話してくれた。

 朝陽さんに許可をもらって、受け取った封筒を開けてみる。中に入っていたのは、便箋だった。一文字も読み飛ばさないように、じっくりと読んでいった。

 そんな僕の様子を、朝陽さんはじっと見つめていた。『純哉へ』と書き出された手紙を、僕は読んでいく。

 ほったて様の声で、読まれているような気がした。


 これを読んでるということは、たぶんわしはもう死んだんだと思う。最近忙しかったんだろう、涼もお前も会いに来なくなってて少しばかり寂しかった。老人を寂しがらせるとはお前らもまだまだ子供じゃな。もっと成長した姿が見たかった。

 わしの命がいつまで続くかわからないのは、ずっと知っていた。それがあったから、子供たちに尽くすことで後悔と無駄なく金を使おう。そう思った。それがお前らに伝わっていたのかはわからんが、こんな老いぼれに子供のころから青春の大事な時間まで使ってくれてありがとう。態度には出してなかったけども、すごくすごく嬉しかった。なにせ、こんな年になるまで遊びに来てくれてたのはお前らだけだったからな。

 さて、話は変わるが純哉の家が大変でお前が金を欲していること、進学を諦めようとしていることは純也の母さんから聞いていた。いろんな話を聞かせてもらったが、わしの言いたいことは主に一つじゃ。

 純哉、進学は諦めるんじゃない。せっかく必死で頑張って高校入ったんじゃ、途中で諦めるなどわしが許さん。親が許してもな。

 金の事は心配するな。お前には親がいるし、このほったて様がいる。うちの資産はもうお前のものじゃ。自由に使え。税とか細かいことは朝陽に頼め。純哉の目の前におるはずじゃからな。

 最後になったが、今まで本当にありがとう。わしは涼と純哉に会えてよかったと思ってる。純哉にとってもそうならいいと、心から思う。

 

 幸せになれよ。


 最後まで、文章の上でも、ほったて様はほったて様だった。便箋の上には涙が落ち、紙を濡らしていった。

 ティッシュを差し出してくれたのは朝陽さんだった。僕はそれを受け取り、静かに目に当てて涙を拭く。こんな涙は、生まれてはじめて流した気がした。

 今まで身近な人を死によって失ったことがなかった僕に、ほったて様の死はあまりに大きかった。息苦しくなるような悲しみに、言いようのない虚無感が襲う。比喩でもなんでもなく、僕の心にはぽっかりと穴が開いていた。

 僕が手紙を読み終わるのを、朝陽さんはずっと待ってくれていた。泣き疲れてじっとしていた僕が、再び動けるようになるまで。

「僕も、まさか彼がこんな若い男の子を知ってて、こんなこと思ってたなんて知らなかったんだ。でも、君を見つけられてよかった。君には感謝してるよ」

 朝陽さんは何度もそう口にする。そんな彼に、僕は、

「僕の方こそ、ほったて様に会えていろんなことを知ることができたし、たくさんの思い出をもらえました。感謝すべきなのは僕の方なんです」

 ありがとうございました、と朝陽さんに頭を下げる。顔あげてよ、と言う朝陽さんの方を向くと、彼は僕にこう伝えた。

「実はね、夕陽さんの学生時代の雰囲気は君によく似てたんだ。彼は自分の学生時代に悔いを残してた、ってよく自分で話してたから、」

 もしかしたら、夕陽さんは自分の過ごしたかった時間を君に過ごさせようとしていたのかもね。

 朝陽さんのその言葉は、どんな偉い人の言葉よりも胸に深く重くのしかかった。僕は、ただ何度も頷くしかできなかった。さっき止まったはずの涙は、気づいたらまた流れ出していた。


 僕は、彼の過ごしたかった学生時代を過ごせているのだろうか。僕の姿は、彼に何かを与えることができていたのだろうか。今となっては誰にもわからないその質問を、さっき知った彼の名前と、僕の知っている彼の生き方のように美しく赤い夕焼けを眺めながら、ずっと考えていた。

 帰ってから、僕は涼くんに電話をかけた。本当はチャットでもよかったのかもしれない。でも、なんだかそれじゃ物足りなかった。彼の声と、ちゃんと生きている彼と話がしたい。純粋に、そう思った。

『そうか、あの人そんなこと考えてたんだな』「そうみたいだよ」『俺たちにはわかんなかったけど、ほったて様にとって俺たちがそういう存在だったなら俺は行き続けてよかったと思うよ』「僕もそう思う。ほったて様が僕らに残してくれたものがあるように、ほったて様の中にも何か残ってくれたに違いないはずなんだ。それは彼が死んでもどこかに残り続けて、いつかまた僕らのところに帰ってくると思うんだよね」

 お前いいこと言うな、と電話の向こうで話す涼くんの声は少しこもっていた。その少し後で、鼻をすすりあげる音が聞こえた。

 こうして、僕らの最後の掘っ立て小屋への訪問の一連のできごとは終わっていった。



 ……こういう出来事だったんだ。結構前の話なんだけど、未だに僕はあのときのことを考えたりする。何回も、夢に出てきたりもした。

 たぶん、僕は彼のことを死ぬまで忘れないと思う。と言うか、死んでも忘れられないんじゃないかな。ほったて様、それくらいパワーのある人だったんだよね。それでいて優しかったし、僕の知ってるほったて様は最期までずっと強い人だった。僕らは、そんなほったて様の姿をたくさんの人に伝えたいと思ってる。「こんな大人になろうよ、僕も君も」って思いを込めて。

 

 僕は最後の文字を打ち終わると、データを印刷機へ送った。

 印刷された文章の最初のページの上に新しい紙を乗せ、今考えたばかりの、一番しっくりきたタイトルを殴り書きして、まとめてホッチキスで留めて編集さんの机に置いておいた。






 『夕陽に向かって』




最後までお読みいただき、ありがとうございます。

今回の作品はどうだったでしょうか。


感想等教えていただけるとありがたいです。よろしくお願いします。


次の作品から、新しく書いた作品を投稿していこうかと考えています。


またお会いできますように。


それでは。


雪村 庵

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