9
「ティア、逃げるぞ!」
それは唐突だった。いつものように自室で眠っていると、突然リレイアンが入ってきて、そう叫んだ。ミレティアは混乱したまま、ひとまずペンダントを首にかけ、荷物がまとまっているバッグを持つ。
すぐにリレイアンに手を引かれ、例の部屋に向かうと、階下から騒がしい音がしてきた。とうとう見つかってしまった、とミレティアはようやく事態を理解した。
「止まれ!」
鋭い声と共に、『何か』が飛んできた。
「うっ」
前から聞こえてきたうめき声に、リレイアンを見ると腕からは血が流れている。すぐに手当てをしなければ、ミレティアはそう思ったが、リレイアンは決して足を止めなかった。
「魔法か、面倒な。
どうやら、叔母上は本気で我々をとらえに来ているようだ」
扉を開けながら、リレイアンはそうつぶやいた。ミレティアは、リレイアンから聞こえた魔法、という単語に驚いた。魔法を使うための、魔力を持っている人間がいると聞いたことはあったが、実際に会ったことはない。そのため、魔法とはあくまで話の中のものであり、遭遇することがあるとは思ってもいなかった。
唖然としているミレティアの手をひき、裏の家へと移っていく。同時に元の部屋に人が入ってきた気配がしたが、リレイアンが素早く壁をもとに戻すと、さっさと走り出す。
「ちっ、裏だ!
裏へまわれ。
お坊ちゃんはどうなってもいいが、お嬢様に傷をつけるなよ!」
そんな言葉が聞こえてきた。思わずミレティアがリレイアンの顔を見ると、血を流しすぎたのか、顔が真っ青だった。
一言も話さないまま、リレイアンとミレティアは近くに止まっていた馬車に乗り込む。すると、すぐに馬車が動き出した。
「大丈夫、この馬車は信頼できるものが御者をしているから。
いつ、叔母上がここを見つけるかわからなかったからね。
常に馬車を近くにとめていたんだ」
どうして、と目で問いかけたミレティアにリレイアンはそう答える。いまだ青ざめたままのリレイアンを、どうしたら助けることができるのか、ミレティアは焦っていた。
「兄様、血が、血が!
どうしたら良いですか?」
リレイアンはそんなミレティアの頭を優しくなでると大丈夫、とだけ言った。ミレティアの目からは涙がこぼれている。リレイアンがミレティアの涙を掬っていると、御者が焦りをはらんだ声で話しかけてきた。
「リレイアン様、このまま例の場所に向かってよろしいでしょうか?
それと、後ろから追手が来ています。
速度を上げますので、お気をつけください」
「ああ、あそこに向かってくれ」
リレイアンはそう答えると、ぐったりと背もたれにもたれかかった。
馬車が大きく揺れたのはすぐのことだった。馬が魔法で攻撃されたようで、暴れてしまったのだ。御者が何とか、馬を制御しようとするが、うまくいかない。
「おーい、聞こえますか、お嬢様!
今、おとなしく出てきて下さったら、これ以上は何もしません。
お坊ちゃんの手当てもしましょう。
ですが、もしまだ逃げようっていうんなら、こちらも容赦しませんよ?
カトレア様からはどんな手を使ってでも、連れて来いと言われていましてね。
お嬢様を傷つけないように、っていうのは、あくまで我々がサンタリア家の真のご当主様に敬意を払ってのことです。
そうですね、腕か足でも狙いますか」
追ってきた何者かがそう話しかけてきた。もともと、自分が王都から離れてもいいものか、悩んでいたミレティアにとって、その言葉は決心を固めるには十分な内容だった。
「兄様、私、サンタリア家に参りますわ。
今らならまだ、間に合います」
先ほどまでとは違う、ミレティアのまっすぐな意思に、リレイアンはだめだ、とつぶやいた。
「ティア、逃げてくれ、お願いだから。
サンタリア家に行くと、もう戻れなくなってしまう。
今、逃げなくてはいけないんだ、ティア」
リレイアンがこれほど弱気になるのを、見たことがあっただろうか。ミレティアはぼんやりとそんなことを考えていた。
この従兄妹はいつも頼りになる兄でいてくれた。母を失い、どうしたら良いかわからないミレィアに代わって、葬儀の準備を整えてくれたり、落ち込んでいるミレティアを優しく慰めてくれたりした。
フランシアが亡くなったのはミレティアが九歳、リレイアンが十五歳のことだった。生活するのに必要な基本的なことはそれまでにフランシアが教えてくれたが、二人暮らしの娘が母を失うには早すぎた。
それでも、リレイアンがいてくれたからこそ、こうして平穏に暮らすことができたと、ミレティアは感謝している。
「ごめんなさい。
今までありがとうございました」
「まっ、」
リレイアンの静止もきかず、止めることのできない涙を流しながら、ミレティアは速度が落ちている馬車から飛び降りた。すぐ後ろにいた追手が気づくと、手を差し伸べる。
ミレティアはためらくことなく、その手をとると、約束は守ってくださいね、と言った。追手はもちろん、と答えると素早く部下に指示をだした。
これでリレイアンは助かる、そう思った瞬間、ミレティアは意識を失った。




