海に浮かぶ鈴鳴り
たくさんの足音が反響する駅。一人の手拍子と、どちらが勝つのだろうと好奇心が湧く。その手を掴み、この場から連れ出した友人は、笑い声でそれをかき消した。
「愛海!?」
「ねぇ何やろうとしてたの?両手なんかあげちゃってさ」
そう言って先ほどの私と同じように、両手を肩ほどの高さに挙げ、拍手をする前の形にもっていった。
「なんかさ、人の歩く音がうるさくて」
「うるさい?」
「うん」
駅を行き交う人たちは、歩く速度も向かう先もバラバラなのに、そのリズムは一定に感じられた。私のように止まっている人は稀だった。統率された軍隊でもないのに、彼等の動きは決められた肯定の上で動かされているようで、乱したくなった。
「あのとき私がパーンと大きな音を立てたらみんなどんな顔をするのかなって?」
そう愛海に話すと、
「そんなこと考えてたの?春花ってやっぱり面白い!」
そう言って、また笑った。彼女が笑うと周りの音が消える。人の足音も他人のおしゃべりも、雑音が後ろへ遠ざかる。だから一緒にいたいんだ。まるで鈴のような彼女の笑い声が好きだ。
鈴鳴りがやむ頃、私たちは歩き出した。
「どこいく?」
愛海が聞いた。
「…静かなところ」
「うーん…それなら、海行こうよ!あそこなら誰もいないよ」
「え?」
静かなところ、誰もいないところに行きたかった。曖昧な私の言葉をちゃんと聞きとってくれた愛海は楽しそうだった。
「でも愛海…海は…」
「遠い?でも電車で30分ならすぐじゃない?」
「でも…」
「あっ私が溺れたことあるの気にしてくれてる?もう大丈夫だよ!怖くないって。ね、行こう!」
「…うん!」
帰り道を急ぐ人混みを掻き分けて私は改札を抜け、電車に乗った。海への方向はガランとしていて、すいていた。夕方に海に向かう人なんていない。
*
海から吹き上げる冷たい風を受け、私は瞑目していた。静かで波が押し寄せる音だけがする。轟音が耳を塞ぎ、私たち以外誰もいないと知らしめる。隣の愛海も同じように海の力を真っ直ぐ受けていた。長い髪は、たゆまずなびき、夕陽で赤く染まっていた。
彼女は海が好きだった。初めて会ったのも海だった。そこで、友人を介して仲良くなり、近所で同じ学校だと知ったときはお互い飛び上がるほど喜んだ。それからずっと何をするのも一緒で、悩みだって隠さず話した。高校もそのはずだった。
唐突に靴と靴下を脱いだ愛海は、スカートが濡れるのも構わず海の並み際に立ち、パシャパシャと遊びだした。私は少し離れたところから動かずにその様子を見ていた。水飛沫が上がるたび、陽に照らされた滴が煌めいて、私を惹きつける。
陽が沈んできて、顔が朧気になった頃、彼女が私を手招きした。近づくと、薄闇に反比例する晴れやかな顔がそこにあった。すっかりスカートも袖も濡れぼそっていて、水が髪にも飛んだのか湿っていた。
「びしょびしょじゃん」
笑って言った私に
「あなたの方が濡れてるわ」
そう愛海が言った。
呼吸が乱れ、うまく息ができない。短いリズムを繰り返し、泣き張らした目元を手で押さた。私の袖も濡れていく。けれど、涙は止まらなかった。
「どうして…」
どうして私の前に現れたの?
どうして笑っていられるの?
どうしていなくなってしまったの?
海の事故だった。その日、私は風邪を引いてしまって、彼女は他の友達と海へ遊びに行った。去年の夏のことだった。
私は信じたくなかった。でもここにいる愛海は今を生きる人ではない。真冬の海に、夏の制服の彼女はあのときから時が止まっていた。目と目が合い、日差しはもうないのに彼女は眩しそうに目を細めた。
「春花ごめんね」
もっと一緒にいたかった。だからこれからも。私は一歩海へと踏み出す。
「来ないで」
「私も愛海のところへ行きたい」
「ダメ」
「どうしてそういうこと言うの?愛海寂しいんでしょ?私も寂しい。一緒にいたい」
「違う、お別れを言いに来たの」
「嘘」
「あなたには帰るところがあるでしょ?」
「ないよ」
学校はつまらない。家族は私に無関心。私はずっと1人で、愛海が死んでから私の心も死んだよう冷たかった。何をしていても生きている実感がなかった。だから
「だから会えたんだと思う」
愛海は私の顔を見たまま黙った。
無言のまま見つめ合う。そして
「アハハッ」
高笑い。あの鈴のような声は鳴りを潜め、私の知らない顔で笑った。
「私は生きたかった」
絞り出すような声。笑っていたのにとても苦しそうだった。
「私の分まで生きてとは春花には言わない。だからってね、私と一緒にいたいから死のうとするなんてのはやめて。自意識過剰にもほどがあるわ。死ぬってのはね、そんなに綺麗なもんなんかじゃない!」
次第に声が大きくなる。
足元と袖口だけだった彼女はもはや全身が濡れていた。ひどく寒そうなのに、彼女の瞳は力強く、私を寄せ付けない意思が、はっきり読みとれた。
「春花、あなたはいっつもそう、私の後ろをついてきてばっかりで、自分から動こうとしたことなんてこれっぽっちもない!私が海に誘えば泳げないのに無理して海に入って溺れそうになったり、スカートを履けばお揃いで履いてくる。私が好きだと言えば、好き。嫌いといえば、嫌い。本当に楽でいいわよね考えなくていいんだから。本当に…めざわりだった、ウザかったよあんた」
「そんな…」
「あんたに会いに来たのはね、今までの恨みを言いたくて来たの。まさか本当に会えるとは思わなかったわ。あースッキリした。これでやっと心置きなく逝けるわ」
清々したと肩で息をつき、目をそらした。
私の涙はすでに乾いていた。ここにきて初めて寒いと思った。悪寒が足元から全身に上がってきて、頭の芯も冷える。
「そんなこと、ちっとも言ってくれなかったじゃない。なんで今?」
「死んだからよ」
「…うん…だからやり直させて、また一緒に遊ぼ」
「嫌よ」
「…そんなに私のことが嫌い?」
「…えぇ」
真っ直ぐ私を睨んで言った。震える声で。
沸々と怒りが湧く。
「酷い、愛海だって自分の好きなことたくさんしてきたじゃない!私だって嫌だって言ったことあるよ。だけど愛海、私が嫌だっていうと、すぐふて腐れたじゃない。だから機嫌とってたのよ」
「それって何様?私そんなつもりなかった」
「愛海がね、女王様みたいにみんなを引っ張っるくらい明るくて頭もよくて?可愛いのは仕方がないけどさ、愛海も楽しんでたよね?みんなが振り回されてるのを見るの。ほんと付き合わされる身にもなってほしいよ。今だって…。でもね、もういいの。私ちゃんと高校で友達できたから」
嘘だった。
一人の時間に慣れすぎて、クラスメイトとも打ち解けるつもりもなく、家族と仲良くするつもりもなかった。何もしなかった。何も行動してない。
こんなに罵詈雑言を言い合ってるのに、私は次第に心が穏やかになってくる。
「私ね、愛海がいなくなってどうやってものを考えてたのか分からなくなっちゃったんだよね。好きなものはいつも愛海と一緒だったから。でもこれって、自分が好きだったからじゃないんだよね。愛海と遊ぶのが楽しかったんだよ。でもそれが愛海の負担になってたなんてちっとも考えなかった。もういいよ。私愛海ともう遊ばない。あ、もう遊べないか」
彼女の顔を見るのが怖かった。だけど、このままじゃいけない。
何かの変化を人任せにしていた。
駅で人が迷いなく歩くさまを見て、イライラして、手を叩こうとしたり。でも結局両手は挙げたまま止まっていた。変化を受け入れることに勇気がなかった。
もういない彼女のせいにして、私は動けない振りをした。死んでからも愛海のせいにするなんて、なんてあさましい。
「私はもうあなたがいなくてもやっていけるよ。愛海がいなくても大丈夫、たぶん」
「アハハッなんでそこで『たぶん』を付けるかなぁ」
鈴が鳴った。いつもの音にホッとして顔を上げると、今度は笑い声とは裏腹に、愛海は泣いていた。流れるままにそれは海へと吸い込まれる。愛海の足の境目も滲んでいた。溶けるように、吸い込まれるように彼女の姿は薄くなっていく。
彼女が望むものはもう叶わない。私は何もできなくて、ただ嫌みと見栄を張って、彼女を突き放すことしかできない。生きてるってなんて無力なんだろう。
「ねぇ、なんで別れなきゃいけないのに、この海に誘ったの?」
消えゆく彼女はぼうっとした顔になった。もはや時間はない。けれど私は待った。
輪郭がなんとか見えるところまできたとき、遠くを見るような目をして、口元に微笑みを浮かべ、彼女は言った。
「私が終わった場所で、あなたに始まって欲しかったから」
そして手を振り
「春花、いってらっしゃい」
朝送り出すような軽い声で、愛海は最期の言葉を贈った。
「うん、愛海…さようなら」
溶けて消えたところを波がさらう。
鈴鳴りが止んだ、誰もいない先に手を振り返す。
私も笑っていた。
最期の言葉を交わせることは、なんて幸せなんだろう。
くしゃみをした。
「寒い!」
生きてるって苦しくて辛いことばかりだ。
パーンッ!
と海から手を叩く音が聞こえた気がした。
私ができなかったことをいとも簡単に、楽しそうにやるであろう愛海に、今度は私が叩き返す。
パーン!
深黒の海に吸い込まれて反響音はかえってこなかった。
信じるしかない。二人の絆は消えたりしない。消させない。
私はダッシュする。海とは反対へ。
もう空は夜だ。まだ電車間に合うかな?
息を弾ませ、耳に風をうけ、腕を振る。
さらに足に力を入れる。
私は、小さな星に向かって、走った。
~ おわり ~
読了ありがとうございました。
再生の物語。東日本大震災から8年。それに向けて捧げられたら、と思い未熟ではありますが創作しました。ご冥福をお祈りいたします。そしてこれからの復興と再生を応援しております。