恋といふもの
今までの長い人生で、私は一度も『恋愛』というものをしたことがなかった。……いや、一度だけ恋をしそうになったことはあるけれど、それも『恋愛』に至る前に諦めてしまった、初恋と呼ぶことさえ拙い感情。前世でも恋愛小説や少女漫画を読んだことはあったけれど、そこ描かれていた出来事はどうも遠いような気がしていて。だから。
「……どうすれば、いいのかなぁ」
自分以外に誰もいない寮の部屋。ベッドの上で仰向けになりながらつぶやいたその言葉は、誰かに届くこともなく空中に消えていく。
ごろりと寝返りを打つ。
ゲームの通りにはいかなくても、冒険者として過ごした今までの経験を活かしていけば、高嶺の花にはなれると思っていた。実際、私は転生者だ。普通とは違う量の魔力を持っていて、だからきっと、彼らにとって恋愛の土台には乗らないだろうと。どこか遠い存在だと思われて、恋をすることも、されることもないだろうと、そう楽観視していたのだ。
現実は、そうは上手くいってくれなかった。
顔を赤くしながら目を逸らしていた、彼のことを思い出す。なんで好意を持たれてしまったのかを想像することもできないけれど、私はその感情に応えることができないのだ。どんなに好かれていようとも、私は同じ感情を返すことができない。乙女ゲームがとか、ハッピーエンドがどうとかではなくて。私は、トニ様を裏切りたくなかった。……それが、彼のその感情を疎かにすることと同意義だと気付いているから、ただ彼に、申し訳が立たなくて堪らないのだ。
(私のせいで誰かが傷つくのが嫌なだけ、なんだけどなぁ)
まさに、あちらを立てればこちらが立たずという状況。どんなに両立したくても、どちらかを取るしかできないのだから、恋愛というものは本当に面倒臭い。そういうものとは無縁の生活を続けていた時の方が、ずっと気楽だった。
そもそも、彼が私に好意を寄せること自体が何かの間違いなのではないか。それならば、気付かない振りを徹底して、ほとぼりが冷めるのを待つのが得策なのかもしれない。だなんて、現実から逃避する方向へと思考が向かっていく。そんな良くない感情を打ち消すように、再度寝返りを打つ。
コンコン。
何度かの寝返りの後に、扉がノックされる音が聞こえた。入学してまだ数週間の私の交友関係は浅い。トニ様か、レベッカ様か、もしくはその両方か。誰かに会いたい気分ではなかったけれど、彼女たちを無視するわけにもいかないので、のそりと起き上がって玄関に向かう。寝返りでぐちゃぐちゃになっていた髪を手櫛で整えてから、扉を開けた。
「やっほ! ……なぁに? 辛気臭い顔しちゃってさ」
扉の向こうで、笑顔のレベッカ様が片手を上げる。その後ろに、トニ様が申し訳なさそうな顔でこちらを伺っているのが見えた。
─◆─
「で? それを、シェリー様は自分のせいだって思ってるわけね?」
「……はい」
ずずっと紅茶を啜るレベッカ様に、小さくなりながら頷く。そんな私に対して、レベッカ様が呆れたと言わんばかりの溜息をつく。彼女曰く、目の前で擦れ違いがおきそうになっていたのをどうしても見ていられなくて、トニ様を引っ張ってここまで連れてきたらしい。
実のところ、トニ様とどう接していいかわからなかった私にとっては、とてもありがたい話だった。身分の差なんて感じないその行動力に脱帽するしかなくて、ちょっと強引な部分も含めて、そういうところが彼女の魅力でもあるのだと思う。
しばらく静寂が続く。なんとなく、重い空気が漂っているような気がする。ますます居心地が悪くなった私は、誤魔化すように紅茶に口をつける。好きだったはずの茶葉から淹れたそれは、いつもと違って全然美味しく感じられなかった。
「……あの! シェリー様は、全然、これっぽっちも、悪くないです!」
そんな空気を打ち消したのは、トニ様のその言葉だった。立ち上がって、ずずいと顔を近づけるトニ様に、間近で見ても可愛い以外の感想が出てこなくて、パトリック様って見る目がないんだなぁなんて見当違いのことを考えて、そこからまた「なんで私なんだろう」なんて思考の海に沈んでいく。
トニ様が私の手を取って、そこに己の手を重ねるように包み込む。現実世界に、引き戻される。
「確かに。……好きな人が、ずっと好きだった人が、別の人を好きになるって、辛いです。悲しいです。……悔しい、です」
「トニ様……」
「なんで、わたしじゃないんだろうって。 ……ずっと好きだったのはわたしなのに、って。思わないって言ったら、嘘になっちゃいます」
返す言葉も思い浮かばなくて、そのまま静かに耳を傾ける。その想いは他人が計れるようなものではないけれど、確かに本物だということは、判る。……だから、苦しいし、悔しいし、遣り切れない。
「でもね。……恋って、楽しいんです」
私の手を包んだまま、その手を胸に寄せながら、トニ様が微笑む。
「例えば、一日の始まりに顔を見て、好きだって認識をして。 ふとした瞬間に、その横顔を素敵だなって眺めてみる。 目が合ったら、恥ずかしくって逸らしちゃったり。 会話した日の夜には、変なことを話してなかったかなって不安になって、枕に顔を埋めるの。 ……世界が変わることって、あるんです」
私には想像もできないけれど、確かに、目の前のトニ様は嬉しそうで、楽しそうで。彼女から恋をすることに対する後悔なんて微塵も感じられなくて、ただ、少しだけ羨ましいと感じてしまう。
「パトリックは、きっと恋をしたことがなかったんです。 ……こんなに素敵な世界だから、わたしは、シェリー様にお礼を言わないと」
ゆっくりと、涙を流しながら話すトニ様の言葉に、いろいろな想いが込み上げる。なんで彼女は、ここまでの想いを抱えることができるのだろうか。恋というよりも、愛に近い感情。きっと、彼女は何よりも彼の幸せを祈っている。だからこそ、トニ様はこの言葉を口にすることができた。
「シェリー様、パトリックに恋を教えてくれてありがとう。 ……どうか、彼の気持ちを否定しないであげてください」
包まれていた手が開放される。そのまま指で彼女の涙を掬い、困ったような笑顔を浮かべる。目の前の彼女が綺麗で、可愛くて、愛おしくて。……ああ、本当に、彼は見る目がないなぁなんて考えて。それでも、彼女が言うことならば。
「善処は、します。……けど、きっと想いには応えられないと思います」
「ふふ、それでいいんです。 だってシェリー様、『なんで私なんか』って考えていたでしょう?」
図星を突かれて、思わず言葉が詰まった。だって、私には好かれる要素がない。どこの馬の骨ともわからない平民出の娘が、得体の知れない力を持ってる、だなんて。敬遠されこそすれ、お近付きになりたいなんて誰が思うのだろうか。何かの勘違いなんじゃないかという線だって、まだ捨てきれていないのだ。
「わたしの想いも本物ですけど、彼の想いだって本物です。……シェリー様は、彼が想ったシェリー様を否定しないであげてくれれば、いいんです」
そうにっこり笑って締めくくるトニ様の横で、レベッカ様がウインクして見せる。ほら、大丈夫だったでしょう、なんて言いたげなその表情に、改めて降参の意を示す。
これから先、どうなるのかはまったく、これっぽっちも想像できないけれど、トニ様の想いも、パトリック様の想いも、疎かにすることのないように。私は、私が感じるまま過ごすことができればいいのかな、と、漠然とながらに思うことは出来たのだった。