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月の日

作者: 和上奏

「お疲れ様です。」

「お疲れ様。」


私は小さくお辞儀をしながらビルを出た。

マフラーを巻いていても肌に刺さる冷気に思わず、はぁ、と息を吐く。

口から出た白い煙はあっという間に消えた。

日没はとうに過ぎ、辺りはどっぷりと暗くなっていた。


「(帰ろう。)」


ビルの玄関前から道路に出ようとした時、路面が濡れていることに気づいた。

どうやら気づかない間に雨がかなり降っていたらしい。

まさかまだ降っているのではなかろうか。

私は自転車でそのビルを訪れたため雨が降っていたら帰れない。

しかしぱっと道路に出てみたが冷たい水がかかることはなかった。

空を見上げると雲が晴れていて少しだけ欠けた月が金色に輝いていた。


「(なんだ。)」


雨が降っていないことに安心した私は駐輪場へと歩き出した。


雨が降っていたことと雲がないことで、肌が出ている場所全てに冷気がチクチクと刺さる。

周囲に明かりも少ないためより一層寒く感じる。

しかし私の心は少しだけ晴れやかだった。

寒くなると星が綺麗に見える。

よく聞く話だ。

残念ながら星はよく見えないが、月がはっきりと見えることが私の気分を少しだけ、少しだけ高揚させた。


視線を少し上に向けると空が見える。

ずっと遠くの方に雨雲と思われる、白い、厚い座布団みたいな雲が横一面に広がっていた。

まるで砂浜のようだった。

その雲は辺りの雲を全て引き連れて向こうへ向こうへと流れていたらしい。

そのためか月の周りにだけ雲がなくなっていた。

月が風を生み出して吹き飛ばしたかのように。


少し経ってまた空を見上げると、薄い雲が月の周りにも漂っていた。

月は雲も明るく照らし、まるで太陽のような光が雲に映し出されていた。

月は黄色いのに周りは虹色。

初めて見る月の様子に私は心が躍った。

昨日は満月だったので、一日経って欠けてしまった月ではあったが、昨日以上の輝きがその月にはあると思った。

この景色を写真に収められたらいいのに。

何度そう思ったことか。

収められるカメラがないことを残念に感じずにはいられなかった。


自転車に乗って空を何度も見る。

走っている間も雲が何度も月を隠しては消え、隠しては消えていった。

ふと、今この瞬間を見ている人はどのくらいいるだろうか、そんな考えが頭に浮かんだ。

近くにいる人は皆少し下を向いて足早に歩いている。

もしかして、私しか見ていないのではないだろうか。

そう思った時、少しだけ私が特別になった気がした。

私だけがこの瞬間を独り占めしているような気さえした。

日本全国を見ればこの日の空を見ている人も他にいるだろう。

だがこの場所で、足を止めて、空を、月をただ見ている人は他にいるだろうか。


私は街灯が無い道に自転車を停めて、性能が悪いカメラであるケータイを取り出した。

この綺麗な瞬間は撮れないかもしれない。

けれどその瞬間を見たという記憶の一片として残すことは出来る。

私は月に、雲にピントを合わせて何度もシャッターを切った。

アングルを変えて、撮る方向を変えて、建物も入れてみて。

少しだけ残念だったのは撮れる範囲が思いのほか狭かったことだ。

月が明るく周囲を照らしているその景色に、魅力を感じるのはごく当たり前のことだった。

ただ、そのことにどの程度の魅力を感じるかは人それぞれだという話だ。


何枚か写真を撮った後、満足した私は自転車に乗って走り出した。


「(良い月が撮れた。)」


だんだん街灯が増えて明るくなるにつれて、月の光がわかりにくくなっていく。

少しだけそのことを寂しく思いつつも、私の心は変わらず晴れやかだった。

まるで偶々四つ葉のクローバーを見つけた時のような、そんな気持ちがあった。


誰かにこのことを話したいと思うが、話したくないとも思う。

きっと話したところで誰も理解は出来ないだろう。

月が綺麗だった、へぇ。

それで終わってしまう話だ。

その感動はその時遭遇した本人にしかわからないし、どのくらい感動を感じるかも人それぞれだからだ。

けれど、自分が感じた喜びくらいは周囲に広めてみても良いかもしれない。


少しだけ口角を上げながら、そんなことを考えつつ、私はペダルを踏み込む足に力を入れた。


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