魔の森での出会い
先程までいた鮮血熊の姿はなく、目の前には大きくそびえ立つ土の塔と、後ろから優しく語り掛けてくる祖父。
その結果が示すのはつまり、そういう事だ。
「少し目を瞑っておれ。‥‥‥なに、すぐ終わる」
カイウスは言いつけ通りにゆっくりと瞳を閉じる。
ただ、瞳を閉じていても聞こえてくるものはある。
か細い何かの断末魔が、意図せず彼の耳に入って来るのだ。
「わおッ、君の祖父はなかなか過激な人だね?」
「ほっほっほっ、リッキー殿には及びますまい。‥‥‥さて、もうよいぞ?」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥うっ」
捻じ曲げられた土の塔。
その表面には赤い染みが今も少しずつ滲んでいる。
その光景から、かの鮮血熊の行く末はいやがおうにも察しが付く。
「殺したのですか?」
よくよく考えればこの問いはおかしかっただろう。
しかし、この状況が木村竜太としての本心を何のフィルターも通さず外へと出してしまう。
そう、彼はまだまだ異世界に来たことを甘く見ていたのだ。
「そうだのぅ。殺さねばお主は死んでいたからのぅ。さすがに孫を見殺しにはできんよ」
ここは地球の、比較的平和で豊かだった日本ではない。
殺さなければ殺される。
それが暮らしと共に存在している世界なのだ。
それこそがこの世界の日常なのだ。
だからこそ彼は運が良い。
カイウスがここまで、危険という危険はなく、温かに豊かに過ごせたのは、ひとえに目の前の祖父の、そして家族達のお陰なのだから。
「うんうん、今度の君の孫はとても優しそうな子だ。ヘルウルフの幼生体を守るために怒り狂った鮮血熊の前に立ちはだかる何て、こんな小さい子ができることじゃあないよ」
「本当に焦りましたからのう。まさか五歳にもならぬ子があの熊の前に出れるとは…‥‥この頃のワシなら腰抜かしてますわい」
「ははははっ、そんな君の姿はちょっと想像できないねぇ、ぷくっ、ははははッ」
「そこまで面白くはないと思うんじゃが‥‥‥」
「グル…ルㇽゥゥゥゥゥ‥‥‥」
祖父らは、先ほどの事など何でもないかのように穏やかに話し始めた。
話し始めたのだが、そもそものカイウスの目的は熊を殺すことではなかった。
カイウスの目的は、今も彼の背後で傷だらけで横たわる、今にも死にそうな魔物を救うためだ。
彼は今、その目的を果たすために傷だらけの魔物の前に座り込む。
それは決してこの世界の住人がしないこと。
それを試みたら最後、その行為はこの世界の一般的に死を意味する。
「‥‥‥お前は、生きたいのか?」
「…‥‥‥‥‥‥‥‥」
そんな状況でも、彼は問うた。
今にも輝きを失いそうなその魔物の瞳に、お前は生きたいのか、と。
本当はこの時、木村竜太としての本心はそんな問いはいいから早く助けろよ、と叫んでいた。
目の前の命を助けろ、と連呼もしていた。
しかし、カイウスはそうはしなかった。
カイウスには助ける前の魔物の瞳から確かな知性と感情を感じ取った。
それは、目の前の存在が選択することができるということ。
生か死か。
助ける前は絶望で、あきらめの感情しか映らなかったその瞳。
今は何が映るのか、この問いかけで答えが出るとカイウスは確信していた。
そんな自らの瞳と魔物の瞳が今度は意図して合い、お互いの心意を量り始める。
「‥‥‥ガァゥ」
「分かった、任せろ」
魔物が何を思ったのか、カイウスには正直わからなかった。
カイウスは理解したのではなく、魔物の瞳を見て感じたのだ。
最初目が合った時の死にそうな、絶望的な、生をあきらめた、輝きのない瞳はそこにはなかった。
そこにあったのは確かな輝きを持った綺麗でまっすぐな瞳。
その瞳は自分が知っている瞳ではなかった、けれど知らなかったからこそ、彼にはその瞳の意味が分かった。
「おじい様」
「ワシが治癒を使えんのは知っておろう? だから、その魔物はワシには救えないのう」
「僕も無理だよ? 救えないことはないけど、この森じゃこんなこと日常だよ。いちいち救ってちゃあ切りがないからね」
「グルルㇽ‥‥‥」
「大丈夫大丈夫、約束は絶対に守る。絶対だ」
どうやら、この二人は流れに流されることはないらしい。
祖父はともかく、乗りの軽そうな妖精から断られたのは少し意外だった。
それも、軽い口調のわりに雰囲気は明確な拒絶だ。
では解決策がない、と言えばそうではない。
「確か、おじい様は転移を使えますよね? それでお父様のもとに送ってくれはしませんか?」
「ふむ……よかろう。挨拶も終わったのだし、あまり長居しても迷惑になるからのう」
「えぇ~~、もう帰っちゃうのかい? むぅ、僕としては全然暇なんだけど‥‥‥」
「お願いします! かなり危ない状態なので急いで帰りましょう!!」
祖父は空間魔法の適性を持っている。
この場合の解決策としてはそれでいいのだ。
治せる人はいなくても治せる人のいる場所に運べば、それで解決である。
「分かった分かった、そう急かすな。…では、リッキー殿。お邪魔いたしました」
「はいはい、じゃあねー。あ~あ、また暇になっちゃうよ」
祖父は妖精に丁寧にお辞儀をして別れの挨拶を済ませると、転移の魔法を発動させる準備に入る。
カイウスはその間も、死の黒狼を持ち上げ、祖父の近くに運び、止血などのできる限りのことをする。
「リッキー様、お世話になりました」
「またね~。絶対にまた来るんだよ?」
「はい、是非来させていただきます。今度は自分の力だけで」
「ははははっ、そうかいそうかい、大人も顔負けの発言だね。よっし、もしこれたら僕ちゃん君にご褒美を上げるよ」
「ほっほっほっ、あまり煽らないでくだされ、子供には厳しすぎますぞ」
「君が鍛えればいい、この子はきっとそれを望んでるはずだよ? ね?」
妖精のその発言に彼は満面の笑みで答え、祖父は若干苦笑い気味である。
「ホッホッホッ、それはそれは‥‥‥おっと、魔力が溜まりましたな、では失礼します」
「うん、また」
妖精の発言が終わると同時に転移が発動する。
今まで見えていた森の景色が一変し、見覚えのある光景に変わる。
そこは彼が住む屋敷のちょうど正面。
カイウスは、転移が終わると同時にある一室へと向けて駆け出す。
門番やメイドの叫び声が聞こえてくるが、今の彼には気にしていられない。
そうして目的の一室の前に着くと、ドアを蹴破らんばかりに開けて目的の人物に遭遇する。
「カイウスよ、その手に抱いてるのは何だい? どこで拾って来たんだい?」
「と、父さん大変です!! この子魔の森で倒れてたんです!! 早く父さんの魔法で治療してあげてください!!」
カイウスの目的地は屋敷の執務室。
そして、目的の人物は彼の父、ルヒテル=ノムストルであった。
突然やって来た息子に父は慌てなかった。
最初は穏やかな笑みでもって息子を出迎え、その腕に抱える何かを見て困惑の表情を浮かべた。
この時点で叫び散らさないだけでも父は称賛に値する。
しかし、息子の突然の要求に父は何かの限界を超えたのだろう、
息子の後ろに控える自らの義父に応援を求めるような、あきらめた表情を向けた。
「父さん!!この子を救ってください!!」
そんな父の思いなど欠片も察していないかのように、屋敷には息子の叫び声が良く響いたという。
熊さんはホントは強いんです。
おじいさんが強すぎるだけなのです。