05 帰還
2018/12/24 この話まで見直しました。
消毒液の臭いが鼻に付く。
心地よい風が頬をくすぐる。
その感触がクラリッサの意識に覚醒を促す。
瞼を開くと白い天井が目に映った。
――ここは?
頭を右側に動かすと、彼女の状態を確認するための装置が置かれているのが目に留まる。
その内容が健康なのか、正常なのか、はたまた異常を示しているのかなんて、彼女には解らない。ただ、青いモニターであることが、安堵の気持ちを与えた。モニターが赤くないことで、少なからず瀕死ではなさそうだと感じたからだ。
心を少しばかり軽くした彼女が、紫の髪を揺らして頭を反対側に向けると、ガラスの向こうに青々とした空が目に映る。
清々しい空の見える窓。それが少しだけ開けられているのは、空気を入れ替えるためだろうか。
その理由は解らない。ただ、そこから入り込んだ心地よい風が、彼女の目覚まし役を担ったのは間違いないだろう。
「あら、目が覚めたのね」
そっけない女性の声がクラリッサの耳に届く。
それと同時に、クラリッサは身体を強張らせるが、ゆっくりと視線を右側へと向ける。
そこには、長身を白衣で包んだ金髪の女性が立っていた。
年の頃は三十半ばであり、女として熟成され始める頃合いだ。
その証拠に、十代や二十代では見られない落ち着きがあるのだが、さっぱりとしたショートカットがさらに落ち着いた雰囲気を感じさせる。
「リカルラ博士……私、戻ってきたんですね」
軍医であり、サイキック研究の権威であるリカルラ博士の姿を目にして、クラリッサは自分が生まれ育った世界に戻ったことを知る。そして、大きく息を吐き出した。無事に戻ってこれたことに安堵したのだ。
「どう? 気分は悪くない?」
リカルラが見せる素っ気ない表情は、とても心配しているようには見えない。いや、彼女の興味は別のところにあるのだ。
それ故か、一応という感じで容態を尋ねた。
ただ、クラリッサは気にすることなく頷きた。
そう、彼女が知るリカルラは、そもそもがこういう女なのだ。
「ええ、特に……」
「ねえ、どうしてあの子を連れて来たの?」
クラリッサの答えなんてどうでも良かったかのか、リカルラは即座に自分の興味に矛先を向けた。
その言葉を聞いた瞬間、クラリッサの心臓が飛び跳ねる。
そう、この世界に戻った経緯を思い出したのだ。
――彼を連れてくるはずではなかったのに……
クラリッサとしては、どうしても気になって話がしたかっただけであり、拓哉をこの世界に連れてきたのは、緊急避難とはいえ、まるっきりのイレギュラーだった。
突然の緊急事態に遭遇して、あのままではクラリッサは問題ないとしても、拓哉は無事では済まなかっただろう。
そう考えた彼女は、慌てて強制帰還を発動してしまったのだ。
「……」
彼女はリカルラを満足させる答えを持っていない。それ故に、黙り込んでしまう。
リカルラは黙り込む彼女を目にして何を思ったのか、溜息を一つ吐くと、壁に設置されたインターホンを鳴らした。
すると、向こう側から声が聞こえてくる。
『どうされましたか?』
「リカルラです。301号室だけど、クラリッサが目を覚ましたわ。校長に連絡してちょうだい」
『分りました』
インターホンの応答を確認すると、リカルラは簡単に用件を終わらせる。
その途端、クラリッサの表情が強張った。
校長である叔父に合わせる顔がなくて動揺しているのだ。
思いっきり啖呵を切ったはずが、なんの収穫もなく帰ってきてしまったからだ。
――どうしよう。どんな顔で叔父様と会えばいいの……全く関係のない男を連れて帰ってしまって……あっ、彼は?
穴があったら入りたい気分となっていた。しかし、その原因となっている彼のことを思い出した。
なんとも薄情ではあるが、彼女自身、未だに整理ができていないのだろう
ただ、今更ながらにあの時のことを思い起こす。あの危機的状況下において、冷静な判断をくだし、即座にクラリッサを抱えて退避しようとした拓哉のことを思い浮かべた。
あの時、狼狽える彼女とは異なり、冷静な判断をくだした拓哉に驚愕した。
そんな彼を無理やりこの世界に連れてきてしまった。
慌てて周囲に視線を向けるが、この部屋に拓哉の姿はない。
「リカルラ博士。彼は、彼はどうしてますか?」
リカルラは嘆息すると、面倒くさそうに答える。
「今は薬で眠ってるわ。ただ、あなたが何を考えて彼を連れて来たのかが疑問で仕方ないの。だって、彼の測定を行ったのだけど、サイキック能力を示す値がゼロなのよ。ゼロ。どういうことか分かる? どうして連れて来たの?」
「そ、それは……」
――あぅ……やっぱり私が腕に付けていた携帯端末の情報は間違ってなかった……
クラリッサが口籠っていると、リカルラは再び溜息を吐いてから口を開いた。
「まあいいわ。どうせ直ぐに校長が来るでしょ。その時に聞かせてもらうことにしましょう」
彼女がそう口にした途端だった。
廊下の方から、けたたましい音が鳴り響く。
「す、すまん。今は急いでいて――」
「いくら校長でも、病棟で走らないでください!」
「す、すまん……」
廊下から物がばら撒かれる甲高い音と、聞き慣れた声が届いた。
続けて、校長であり、クラリッサの叔父である、キャリックと看護師の遣り取りが聞えてくる。
カールバンはかなり焦っているのだろう。カートを押す看護婦とぶつかったようだ。
ただ、それ以上にクラリッサの方が焦っていたりする。
――どうしよう。どうしよう。な、なんて言えばいいの……
動揺するクラリッサを他所に、廊下から聞こえてきた音で全てを察したリカルラが、こめかみに手を当てて溜息を吐いている。
ただ、クラリッサの動揺も、リカルラの呆れも、直ぐに掻き消される。
「クラレ! だ、大丈夫か! 何ともないか? ワシが誰か解るか! なあ! どうだ? もしかして口が利けなくなったのか!?」
「校長!いい加減に落ち着いてください。そんなに捲し立てられたら、誰で話せませんよ」
弾丸のように捲し立てるキャリックを、肩を竦めたリカルラが押し止める。
慌てるキャリックが口にした『クラレ』だが、クラリッサの愛称であり、両親を亡くした現在では、それを口にするのはキャリックだけとなっている。
「す、すまぬ。だが、クラレに何かあったら、ワシはあいつに詫びる言葉がない」
リカルラに叱責されて、一気に落ち込むキャリックの言葉を聞いて、クラリッサは一緒になって滅入ってしまう。
そんな叔父と姪の姿を見たリカルラは、呆れて果ててしまったのだろう。
腰に当てていた両手を打ち鳴らし、大きな声を張り上げた。
「はいはい! 鬱な時間は終わりよ。私も忙しいんだから。さっさと済ませましょう」
リカルラがフォローすると、キャリックが一気に浮上する。
「そうだ。結果はどうだった? いや、結果などどうでも良いのだ。クラレさえ無事なら」
キャリックの言葉は、クラリッサの心を一気に軽くする。
同時に、キャリックの愛情を深く感じて、クラリッサは胸を熱くする。
「ごめんなさい。偉そうな事ばかり言ったのに……」
何から話せば良いか解らず、思わず行き成り謝ってしまう。
「良いんだ。何があったんだ?」
クラリッサの動揺を感じ取り、キャリックが優しく尋ねた。
その優しさに甘えることで、事の起こりから帰り着くまでの話を手短に伝えることができた。
「では、連れてきた少年にサイキック能力はないのだな?」
キャリックが真剣な表情をリカルラに向ける。彼女は黙ったまま頷く。
それを確認したキャリックは嘆息するが、リカルラに疑問を投掛けた。
「その少年だけがクラレを認識できたというのは、どういうことだろうか。それに、装置の設定では、サイキック値の高い者が居る場所へ転送されるはずなのではないか?」
「分りません。でも、少し気になることがあるのは確かです」
首を横に振ったリカルラが、少し考える仕草をしかたかと思うと、訝しげな表情で答えた。
彼女の態度が気になったのか、キャリックが問いを重ねる。
「何が気になるのだ?」
「大きくは二つあります。一つは、彼のこの世界における順応数値が異常に高いこと。というのも、彼にこの世界の言葉を理解してもらうために、語学習得プログラムを実行したのですが、恐ろしい速度で完了してしまいました」
「それは頭が良くて、理解力があるということかな?」
キャリックは顎鬚を撫でながら自分の考えを口にするが、彼女は首を横に振る。
「いえ、そういった次元ではありません。人間の限界を超えた理解力です。それこそヒュームのような」
ヒュームと聞いた途端、クラリッサがビクリと身体を震わせた。
キャリックはそんなクラリッサをチラリと見やるが、直ぐにリカルラへと視線を戻した。
「だが、その少年は人間なのだろ?」
「はい。遺伝子的にも、生体学的にも、間違いなく人間です」
「ということは、クラレが渡った世界の人間の知能が異常に発達しているということか」
――あの旧時代の技術からいって、それはないわ。
キャリックが結論を出そうとするが、クラリッサは違うと思った。
なにしろ、あの世界の生活レベルは、この世界に比べると遙に劣っていたからだ。
リカルラもクラリッサから得た情報でそう感じたのだろう。
「それは違うと思います。クラリッサから聞いた話からすると、恐らく彼個人の特性だと思われますね」
その答えに唸り声を上げるキャリックは、ふと、顔を上げて残りの疑問に移った。
「まあいい。それは解った。それで、もう一つというのは?」
問われたリカルラは、手に持った携帯端末を起動させると、真っ白な壁へと向けた。
白い壁はモニター変わりとなり、端末の情報を表示させている。
「これを見てください。これはサイキック計測の結果です」
「うむ、見事なほどにゼロだな。それで、これがなにか?」
壁に表示された値を眺め、キャリックが納得しつつも、視線をリカルラに向けた。
リカルラはそれに頷き、その結果をグラフ表示に変更する。
「これがどうしたというのだ?」
映し出された表示を見やり、キャリックが首を傾げている。
グラフは横軸が時間になっており、縦軸がサイキック量となっている。故に、拓哉の数値は何も表示されていない。
そう、全く計測してないが如くゼロの軸と重なっている。
そんなグラフを見やり、クラリッサとキャリックが首を傾げていると、まるでしてやったりという表情で、リカルラは表示の内容を更に変更した。
「な、なんだ、これは」
「これは、計測時間の始まりの部分だけをマイクロ秒に落とし込んだものです。そもそも、人間である以上、全くゼロという数値自体がおかしいのです。どれだけ少なかろうと、必ず少しはあるはずなのです。ですので、少しコマメに調べてみた訳です。すると、こんな結果が――」
「これって、どこまで伸びてるんですか?」
クラリッサが驚きで身体を起こす。
そう、そのグラフは、初めの一瞬だけ計測値が跳ね上がっているのだ。それも上限が解らないほどにだ。
「上限は計測不能でした」
――それって如何いうことなの? もしかして、一瞬だけ使えるとか?
クラリッサがそんな疑問を抱いていると、リカルラが続きを口にする。
「この結果からすると、恐らくサイキックは使えないでしょう。なにしろ、値が上昇しているのがマイクロ秒故ですから。そうなると、今回の召喚は失敗だと言えますね」
その言葉を聞いた時、クラリッサは今更ながらに愕然とした。
――そうだわ。何もかもが水泡に帰したんだわ。
その事に落ち込むクラリッサを見やり、リカルラは呆れた顔で嘆息し、愚痴をこぼす。
「学年主席の『氷の女王』がこれだと、さすがに人類の未来は暗いわね」
これがクラリッサの求めた希望の結末だった。
その結果に嘆く彼女が、世の中とは解らないものだと、つくづく思い知らされることになるのは、まだまだずっと先のことだった。