175 焦る気持ち
2019/3/1 見直し済み
耳障りな音が鳴り響き、形あるものが砕け散る。
内容物は抗議の声を上げるかの如く飛び散り、特殊プラスチック製の床を濡らす。
普段なら床が絨毯でないことに安堵するのだが、今日に限っては、そうもいかない事情があった。
「ご、ごめんなさい。直ぐに片付けるわ」
コーヒーカップを落としてしまったクラリッサが、慌てて砕け散ったカップの破片に触れる。
「いたっ!」
彼女の声に呼応するかのように、指から鮮血が流れ出る。
「大丈夫か? 片付けは俺がやるから、クラレはそれにバンドエイド……って、この世界ではヒールテープって言うんだっけ? あれを巻いた方がいいぞ」
「ご、ごめんなさい。そうさせてもらうわ。このままだと血だらけになりそうだし……」
赤い血を目にした拓哉が片付けを引き取ると、彼女は申し訳なそうな表情で頷いた。そして、部屋に備え付けられている応急キットの保管場所に脚を向けた。
その足取りも、いつもに比べて頼りないように思う。間違いなく、ミラルダのことが気になっているのだ。
朝起きてから、いや、朝の体操を終わらせて、朝食を摂ろうとしたところから、ずっとあんな調子なのだ。
というのも、第一次防衛ラインでは戦闘が開始されたと、ルルカから朝食の前に聞かされたからだ。
クラリッサの動揺を感じつつも、割れたカップを片付けようとしていると、同じテーブルに座っていたルルカが、拓哉を押し留める。
「あ、私がやります」
彼女は拓哉付きの士官であって、決して家政婦ではない。
そう考えて遠慮してしまうのだが、クラリッサが抱えている不安は半端なかった。
どういう訳か、行為を行う度に直接的に影響を受けてしまう拓哉は、ミイラ取りがミイラになる。
「いや、大丈夫。これくらいは自分でやるさ。うわっ! 俺まで切っちまった……」
それを目にしたルルカは、何を考えたのか光の速さで拓哉の手を掴む。そして、迷うことなく食らいついた。いや、口の中には入れたが、食べられた訳ではない。
彼女にとって、その行動は応急処置のつもりなのかもしれないが、拓哉の場合はその必要がなかったりする。
しかし、それを口にする前に、抗議の声が上がった。
「る、ルルカ伍長! ちょっ、ちょっと、あなた、何をやっているのよ!」
ルルカの行為は、指にヒールテープを張り終わったクラリッサの目に止まったのだ。
物凄い勢いで眦を吊り上げながら、クラリッサが引き剥がそうとする。
「だ、だっれ、こひょぐごじばぶんげふ」
「タクヤの指を出してから喋りなさい。あなたはいったい幾つなの?」
拓哉の指を飴の如くしゃぶりなら話していることもあって、ルルカの言葉は意味不明だった。
ただ、いつまでも舐めてもらう必要はない。
「もう大丈夫だぞ!」
「ふぇ?」
未だに指を舐めまわしているルルカが、不思議そうな表情で見上げた。そして、ゆっくりと拓哉の指を解放する。
名残惜しそうにする彼女の口の中から、唾液だらけとなった指が現れる。
「えっ!? 治ってる……なんで?」
「そういう体質なんだ」
なぜか、拓哉は昔から傷の治りが早いのだ。
かすり傷程度なら、ものの数秒もすれば血が止まり、数分もすれば傷がなくなるのだ。
本人は不思議に思いつつも、代謝が速いだけだと自分を納得させているのだが、それは異常なことだった。
ただ、その体質もあって、拓哉にとって彼女の行為は不要であり、無駄な行為なのだ。
「私も知らなかったわ……これって、どういうこと?」
仁王のように眉を吊り上げていたクラリッサが、その表情を怪訝なものに変えて、自分の指と見比べる。
「あれ? 言ってなかったか? てか、リカルラさんから聞かされてないのか? あの人のことだ。絶対に知ってるぞ」
「聞いてないわよ?」
「実をいうと、俺って傷の治りが早いんだ。これくらいの傷なら数分で元通りになるだよ」
「それって、異常じゃない? サイキッカーの傷が完治しやすいのは確かだけど、そんな速さで治るなんて聞いたことがないわよ」
「ですよね……異常ですね。私なんて、これくらいの切り傷が完治するのに三週間くらい掛かりますよ?」
驚きの表情を見せる二人だが、元からこうなので、これ以上に説明する言葉がない。そもそも、自分でもその理由が分からないのだ。
ただ、やるべきことは分かっている。
そう、足元に転がる割れたコーヒーカップとその中に入っていたコーヒーを片付ける必要があるのだ。
不思議そうな表情で、まだ何か聞きたそうな表情をしている二人を他所に、拓哉は気を付けながらそれを片付ける。
朝から落ち着きをなくしていたクラリッサだったが、それが遂にマックス状態となっていた。
「タクヤ、今直ぐ機体で飛んで行きましょう」
彼女は蒼白の表情で、拓哉に詰め寄った。
彼女が焦る理由は簡単だ。
午後いちの情報確認で、第一次防衛ラインが突破されたことが分かったからだ。
ただ、彼女の言葉に頷く訳にもいかない。
その理由を告げるつもりだったのだが、拓哉よりも先に、ルルカが事実を知らしめた。
「現在の状況なら、機体で飛んで行くよりも、この高速飛空艇の方が速いです」
そうなのだ。この高速飛空艇が出している速度は、拓哉の機体よりも速いのだ。
それも、レールガン射出のお陰で、ずっとトップスピードで飛び続けている。
当初は、拓哉も黒鬼神の方が速いだろうと思っていたのだが、その速度を聞いて驚いた。
乗っている人間が、こうやってのんびりしていられるのが信じられないほどの速度だった。
それ故に、この高速飛空艇の船体の凄さに慄く結果となった。
「それなら、この飛空艇を限界速度で飛ばして」
まるで子供の我儘のようなことを言い始めたクラリッサだったが、ルルカが申し訳なさそうな面持ちで首を横に振った。
「既にマックススピードなんです。というか、既に限界を超えていて、外壁が融解する寸前らしいです」
「おいおい、大丈夫なのか? 途中で落ちたんじゃ、本末転倒だぞ?」
「今のところは大丈夫だと言ってました。ただ、パイロットも現在の危機的状況を理解しているので、肝を冷やしながら飛んでいると言ってました。というのも、搭乗しているのが黒き鬼神だと知ってますので、彼等も命懸けで飛んでいるようです」
その内容に、拓哉はこの高速飛空艇を操縦するパイロット達に感謝した。
それでも、クラリッサの気持ちは収まらない。
「な、何か、何か他に方法はないの?」
彼女は苛立ちを露にして、最速でミラルダに向かう方法を模索していた。
しかし、どう考えても無理だ。この速度に勝るスピードは、巡航ミサイルくらいしかないのだ。
ただ、当然ながらここに巡航ミサイルなんてないし、それよりも早く到着できるとなると、どこでもドアくらいのものだ。
仮に、どこでもドアがあったにしても、きっと黒鬼神は持ち込めないだろう。
少しばかり妄想に浸るが、それに意味がないと考えて、拓哉は視線をルルカに向ける。
「それで、到着予定時刻は? 予定通り、今日の夜か?」
「そうです。早くても十八時くらいになると思います」
「十八時か……今からだと、あと五時間か……」
ヒュームは時間通りに行動する。そして、十八時には撤退するのだ。
どういった判断で、そうしているのかは解らない。
もしかしたら、彼等にとって人類の撲滅はサラリーマンの業務と変わらないのかもしれない。いや、サラリーマンの方が働くことだろう。なにしろ、残業のないサラリーマンなんてほんの一握りなのだ。
――それが限界か……
自分が到着するころには、戦闘が終了していることを考えて、拓哉は溜息を漏らす。
ただ、拓哉の考えが正しければ、全く間に合わない訳ではない。
「クラレ! 奴等は十八時には戦闘を終わらせて引き上げる。それが戦いの途中であってもだ。そう考えれば、あと五時間で何もかもが滅ぶことはない。シェルターまで入り込むなんて不可能だろう。いや、校長……バルガン将軍のことだ。あと五時間を何とかしのいでくれるはずだ。ルルカ伍長。申し訳ないが、ミラルダの情報を逐一教えてくれないか?」
「分かりました。ただ、向こうもそれ処ではないかもしれないので、頻度はあまり多くないかも知れません」
「それは仕方ない。向こうの邪魔をする訳にもいかないからな」
ルルカは頼みごとを快く聞いてくれた。
拓哉の言葉が功を奏したのか、クラリッサの蒼白だった表情に血色が戻ってくる。
ただ、どうしても落ち着けないのか、まるで寝床のない猫のようにウロウロと歩き回っている。
「クラレ。お前の気持ちも解かる。だが、こういう時だからこそ落ち着く必要があるぞ? いや、そうでないと、戦場では戦えないんじゃないか?」
「そ、そうね……ごめんなさい」
落ち着きなく爪を噛みながら歩き回るのを見て、無理だと知りつつもクラリッサを宥める。
クラリッサも自分の行動を省みたのか、恥ずかしそうに自分の手後ろに隠してを頬を赤くした。
ただ、彼女が落ち着かないのは理解できる。ゆっくりと隣に座った彼女の肩を抱き、耳元で囁く。
「お前の気持ちを考えれば仕方ないよ。だけど、焦っても始まらない時もあるからな。それに……」
「それに?」
彼女を落ち着かせようとして話し掛けたのだが、それを口にして良いものか逡巡してしまった。
――軽はずみな言葉は口にしたくないんだが……
「それに? それになに? 途中で止めるのはダメよ」
言い淀む拓哉に、彼女は吐けと迫ってきた。
仕方なく前置きをすると、拓哉は言い掛けて止めた言葉を口にした。
「これは確証がないから、あまり真に受けないで欲しいんだが……俺は大丈夫な気がするんだ」
「それって、タクヤの勘? それって、ディートで嫌な感じがすると言っていた勘と同じ感覚なの?」
――そういえば、あの時に嫌な感じがするって、クラレに言ったんだっけ……
拓哉の感じている勘を伝えると、クラリッサは物凄い勢いで食いついた。
その必死な表情に感じ入る。
「ああ、あの時の同じような感覚だな」
「そ、そう……それなら大丈夫なのかも……」
それは、本当に唯の勘でしかないのだが、彼女は一気に落ち着きを取り戻した。
ただ、この場にいたルルカが、場違いというか、空気を読まないというか、全く関係のない感想を露わにする。
「若くても、そこは夫婦という訳ですね。さすがですね」
彼女の言葉で、拓哉とクラリッサはお互いの状況を確認する。
そう、クラリッサはソファーに座った拓哉の上に跨り、まるで抱っこちゃん状態となっていた。
その状況に慌てた拓哉は、直ぐに下ろそうとしたのだが、彼女は耳元で囁く。
「なんか、抱き合っていたい気分なの。でも、ここよりはベッドの方がいいわ」
その言葉を聞いた時、「昨夜に三回で、今朝も二回したのに……」などと考えつつ、この調子だとあの薬が必要かもしれないと、真剣に悩み始める。