174 第一次防衛ライン
ヒュームの侵攻が始まってから、どれだけの年月が経つだろうか。
当初は、急激に侵攻してきたヒュームだったが、いつからかその侵攻速度は落ちていき、気が付くと南の都市とその近隣を手中に収めたところで鳴りを潜めていた。
それ故に、ヒュームとの戦闘を行った経験のある者は少ない。
当時の兵士は歳を取り、現役でPBAに乗る者は殆どいない。
その結果、現在においてヒュームと戦ったことがある者は、人類とヒュームとの境界線で戦っている者だけだろう。
ただ、そこでは定期的な小競り合いがあるものの、大掛かりな戦いになることはなく、ヒュームが何を考えて小競り合いをしているのかも不明だった。
かくいう彼も訓練生時代も含め、PBAに都合十五年も乗っているが、未だにヒュームと戦ったことがない。
それでもミラルダ基地では、右に出る者が居ないと言わしめているグエンだったが、侵攻してくるヒュームの映像を目にして凍り付いた。
「おいおい、あれと戦うのか?」
「おっ! 餓狼と畏怖されるお前が、まさか怖気づいたのか?」
弾幕となった遠距離攻撃をスイスイと躱してくる敵機の姿を目の当たりにして慄き《おののき》の声を漏らすと、ナビ席に座る相棒から揶揄された。
「その字名で呼ぶなよ! いい歳して恥ずかしいんだから」
「いいじゃね~か。最近は訓練生でも二つ名を持ってるくらいだからな。お前が餓狼と呼ばれても何の問題もないさ」
「いやいや、それだから嫌なんだ。字名とか二つ名とか、なんか、おこちゃまみたいじゃないか」
若いころは餓狼と呼ばれて畏怖されると、表には出さずとも心中でほくそ笑んだものだが、齢を取るにつれて恥ずかしくなってきたのだ。
現状を考えると、そんな場合ではないのだが、グエンは字名や二つ名を持つ者の恥じらいを知らない相棒をお返しとばかりに揶揄う。
「だったら、お前にもつけてやるぞ。『脱兎』なんてどうだ?」
「脱兎か……その逃げ足は兎の如し……くくくっ、いいじゃね~か。あはははは」
ノリの良い相棒は声を立てて笑う。
グエンにとって付き合いの長い相棒であり、このくらいのジョークはいつものことだ。
しかし、相棒は笑いを直ぐに収めると、珍しく真面目な様子を見せた。
「その逃げ上手の脱兎は思うんだ。これは拙いってね」
「やはりそう思うか?」
「ああ、あれだけの砲撃で倒せた敵は数えるほどだ。それも全損なんて一機もいね~。酷くて機体の脚が吹き飛んだくらいかな。サイキックシールドがないことを考えたら、避けられていると考えた方がいいだろうな。尋常じゃないぜ」
相棒はナビ席で敵の状況を確認して、自分なりに分析していた。
「だよな~。モニターの映像からしても、明らかに当たってないもんな」
「なあ、グエン。お前なら、あの弾幕を避けられるか?」
相棒の疑問は当然だ。誰でも考えることであり、自分達とヒュームの差を測るには簡単な方法だ。
しかし、グエンは少しばかり考え込む。
そう、正直に答えた結果が恐ろしかったのだ。
「正直に言っていいか?」
「ああ、構わんよ」
戦意を喪失するのではないかと考えたグエンだったが、相棒の雰囲気からして問題なさそうだと判断する。
そもそも、相棒とは大抵のことを話せる仲であり、いまさら以て隠し事をしても仕方ないと考えたのだ。
「調子が良ければ、腕一本の被害くらいで避けられるかな」
グエンの戦闘力は、ミラルダにおいて飛び抜けていた。それもあって、彼の返事には信憑性がある。
その証拠に、相棒も納得の表情で頷く。ただ、おまけが気になるところだった。
「さすがだな。だが、調子が悪ければ?」
「勿論、腕一本と言わず、全てが棺桶に入るさ」
「やっぱりな……」
相棒にとって、グエンの返事は予想されるものだった。
しかし、それを正直に明かされると、さすがに黙り込んだ。
――恐ろしいだろうな。いや、恐ろしいに決まっている。オレもさっきから震えが止まらないんだ。でも……逃げる訳にはいかないんだよな。
「なあ~、脱兎。逃げたいか?」
震える手を揉みほぐしながら、グエンはチラリとサブモニターに視線を向けた。
気心の知れている相棒は、包み隠さず本心を口にする。
「ああ、出来るものならな。あれと戦うのはどう考えても自殺行為だ。間違っても生きて帰れるとは思えん」
「そうだよな。オレも同感だ」
ヒュームの力量は桁違いだった。隔絶していると言っても過言ではない。
少なからず、二人はそう判断した。それこそ、戦死が必然であるかのように思えたのだ。
そして、正直な気持ちを恥じる気はなかった。
――ここで怖気づいたって、誰にも文句は言わせね~。いや、文句があるならここで戦ってみろってんだ。
恐怖で震える相棒に文句を言うどころか、その言葉に賛同する。いや、敬服した。
相棒はそれでもその恐怖を踏み越えてきたからだ。
「でもな。ここで逃げる訳にはいかんだろ?」
「そうだな。なんてったって、ナナちゃんの店に殆ど満タンのボトルを残してるしな。あれを飲み切るまでは死んでも死ねないよな」
「くくくっ。お前が飲み干したいのは、ボトルじゃなくて、ナナちゃんの方だろ?」
「違いね~。そろそろ身体を許してくれそうなんだけどな~」
勇気を振り絞った相棒を心中で称賛しつつも、グエンは軽口で応じた。
しかし、そこで相棒は、衝撃の事実を口にする。
「あはははは。てか、お前、知らないのか?」
「何をだ?」
「くくくっ、ナナちゃんは男だぞ?」
「な、な、ななななな、なんだとーーーーーーーーー!」
相棒から聞かされた世にも恐ろしき事実に、グエンは時と場所を考えずに絶叫する。
途端に、彼方此方から無線の声が届いた。
『こら、バラすなよ! せっかく面白いところだったのに』
『とうとう知ってしまったか……』
『餓狼とニューハーフ。最高のコンビだ』
『てか、餓狼、どっちが受けなんだ?』
仲間からの吐き出されたのは、全てが揶揄の言葉であり、グエンは完全に戦場のピエロとなってしまう。
それに顔を顰めるグエンは、必死に自分を落ち着かせようとする。
――こんなネタでみんなの心が休まるのなら、ピエロも悪くない……いやいや、悪いだろ! やっぱりおかしいだろ? てか、なんでオレだけが知らないんだ?
「おい! てめ~ら、みんな知ってたのか?」
『もちろん』
『当然だ』
『常識ですね』
『最高に笑えたぞ』
どうやら、本当にグエンだけが知らない事実だったようだ。
結局、心を落ち着かせることに失敗した。
「畜生~~~! こうなったら自棄だ! ヒューム共で憂さを晴らすぞ!」
怒り心頭のグエンは、憤怒の声をブロードキャストする。
すると、今度は司令部からの連絡が入った。
『聞いてたぞ。最高だぜ、餓狼! だが、悪いな。第一次防衛ラインは撤退だ。PBA部隊はそれを支援および援護してくれ』
どうやら、司令部までもグエン達の会話を聞いていたらしい。なんとも緊張感のない者達、いや、癖の悪い奴等だ。
さすがに憤りを禁じ得ないグエンは、罵声を轟かせる。
「なにっ!? なんで司令部が聞いてるんだよ! お前等、仕事してんのか? オレ達が最前線でビクビクしてるってのに、お前等はお茶でもしてるんじゃないだろうな!」
『ばかやろう! こっちは忙しいなんてものじゃないぞ? お前もここに座るか?』
「い、いや、すまん。それだけは勘弁だ」
――事務職なんて真っ平だ。あんな所に座って仕事をするなんて、檻に入れられた動物みたいなもんだ。
元来、事務職の嫌いのグエンは即座に詫びた。そして、直ぐに本題にはいる。
「なあ、撤退はいいが、ちょっと早くないか? まだ正午だぞ?」
『仕方ないんだ。将軍がなるべく人的被害を出すなと仰られてな。だから、第一次防衛ラインは敵の様子見なんだ。あっ、それと、今、空爆部隊が出たから、ナナちゃんの件は解るが、自棄になって敵の中に突っ込んだりするなよ? くくくっ』
「うっせ! バカやろ~! お前にオレの気持ちが解かるかよ!?」
管制に勤務する友人から揶揄われて、グエンは罵声で応じる。
それが面白かったのか、無線であちこちからの笑い声が届く。
――くっそ~~~~~! ほんとに突っ込むぞ! 突っ込んじゃうぞ!
「おいおい、突っ込むなよ! 突っ込むなら、ナナちゃんのお尻にしとけよ」
グエンの表情をサブモニターで見ていたのだろう。相棒がグエンの突撃精神に釘を刺す。
こうしてグエンは戦うことなく第二次防衛ラインに撤退したのだが、それは第一次防衛ラインが、半日も持たずに陥落したことを意味していた。
ヒュームとの戦いは、予想以上に過酷だった。
「そうか、第一次防衛ラインが半日で壊滅か……被害はどうなってる」
溜息を堪えたキャリックが、第一次防衛ライン壊滅の被害を気にする。
リスファアは即座に端末を確認して、視線をキャリックに戻す。
「早期撤退と遠隔による長距離攻撃により、人的被害はゼロ、PBAの損害はゼロ。防衛設備は……全壊です。ただ、自損したPBAが一機あるそうです」
「自損? なんだ、それは」
意味不明の損害を耳にして、キャリックは怪訝な表情を見せた。
ただ、彼女は話しづらそうにしている。しかし、どうやら諦めたようだ。おずおずとその話を切り出した。
「じ、実は、グエン少尉が……みんなに揶揄われて機体を壊してしまったようなのです」
「ん? グエンとは、あのグエンか!? 揶揄われて壊したのか? 困ったものだ。う~む。あいつも相変わらずのようだな……」
「えっ!? グエン少尉……兄を知っておられるのですか?」
「ああ、もちろんだ。奴が訓練生の時にどれだけ手を焼かされたものか。そういえば、同じ苗字だったな。気付かなかった。君はグエンの妹なのか」
「は、はい……不肖の兄で……申し訳ありません。修理費は給料から天引きして頂いて構いませんので……」
兄妹とは知らなかったこともあり、キャリックは驚きを露わにした。
その妹のリスファアはといえば、穴があれば入りたいといった表情で、必死に謝っていた。
キャリックとしては、その理由を知りたくもあったが、そんな状況ではない。
「第一次防衛ラインが、予定よりも半日早く陥落してしまった。援軍の方はどうなっている?」
グエンが機体を壊すほどの出来事に興味をそそられつつも、キャリックは救援について確認する。
というのも、相手の規模を考えると、ミラルダの戦力だけでは到底敵わないからだ。
今回の戦闘で、それを嫌というほど思い知らされていた。
「南部のトランティンから出発した援軍は、到着まであと三日かかるそうです。ディートで合流したドランガ将軍率いる部隊は、五日ほどで到着できると連絡がありました。あと……ホンゴウ大尉が新機体である黒鬼神をかって、今晩にも到着するとのことです。凄いとは聞いてますが、さすがに単機では……」
――一番早いのはホンゴウ君とクラリッサか……確かに、彼女の言う通りだろう。敵は約千三百だ。いくらホンゴウ君が鬼神の如き強さを持つとしても、焼け石に水だろうな。次に早い援軍が三日後か……
現在の戦況と援軍の到着に掛かる時間を考えて、溜息を漏らしそうになる。
あまりの規模の違いから、拓哉だけではどうにもならないと考えてる。
そして、絶望的な気分になるのだが、それを堪えて、これからの戦い方を考える。
――さて、あと三日をどうやって稼ぐか……
第二次防衛ラインに押し寄せる敵を想像しながら、キャリックはヒュームを食い止めるための手段に頭を悩ませた。