5.光年すら追い越すの
一心に周囲に目を凝らしながら車を転がしては見たけれど、彼がどこへ行ったかなど全く心当たりはないから、闇雲で不毛な行動であるのは否めなかった。気づけば空は白みはじめ、朝日が地平線の向こうを染め始めている。
よし、今日は会社いかない。
どうせあそこには私にどうでも良い仕事を押し付けてくるハゲと、仕事よりぶっちゃけ男の方が大事なババアしかいないし、また約束をすっぽかされて寂しい気分にさせられるだけなのだから。
それはそれとして、良い加減少し休んだ方が良いかもしれない。何時間か休んだら、またルナールを探しに行こう。
適当な空き地に車を入れて、エンジンを切った。少しの間仮眠を取って、起きたらその辺の自販機でコーヒーを買うと決める。
そうだ。
ふと思い当たったことがあり、ポケットから端末を取り出した。
もしかすると、何かを忘れてしまうかもしれない。当然のことながら、私はウイルスの保菌者であるルナールと共に過ごしていた時間があるのだから、症状が現れていてもおかしくない。どうでも良い内容からポロポロ忘れていくらしいけれど、どうしても忘れたくないことは念のためメモしておこう。時間が経てば治る一過性の健忘症だとしても、忘れたことすら分からないことがあるのは何となく気持ちが悪い。
ルナール。
端末にルナールと出会ってからこれまでの顛末をすいすいと入力していき、保存する。役に立つかは分からないけれど、何もないよりは心強い。飽くまでも心理的に、だけど。
3時間ばかり休もうとトレンチコートを毛布代わりにかけようとした、その矢先、視界の端に何か蠢くものの気配があった。ちら、と視線をやる。
「……ルナール!?」
一匹のキツネがちんまりと座っていた。ルナールかどうかは分からない。けれど、野生のキツネがおいそれと現れたりするだろうか?
衝動的に私は車のドアを開け、キツネの傍に駆け寄った。
「ルナール、ねえルナールなの?」
キツネはびっくりしたようにこちらを凝視した後、風を切るように走り出す。人違い、いやキツネ違いだろうか。それとも、私のことを忘れたか。
しかしキツネは木の陰に一度身を潜めた後、ひょっこりと顔を覗かせた。
懐かしい男の顔で。
「やっぱり!」
「や、やあ」
腕にかけていたトレンチコートを、ルナールに投げてやった。意図せず、ましてや望みもしていなかったけれど、全裸男にトレンチコートという図を実現させてしまった。
「テウメッソス人がキツネの時は人の言葉を話せないのは、ある種の欠陥だと思ってるよ」
「……良かった。無事だったのね」
「急にいなくなってごめんよ。つい」
耳を疑った。つい?
「つい? ついってどういうこと?」
「いやあ、ほら、実は恥ずかしながら、僕は家出してる最中でね」
「家出?」
「というか夜逃げかな。家賃が払えないことが続いてて、黙って出て行っちゃったんだけど……ついにブチ切れた大家さんが捜索願を出したのかと思って、反射的に逃げちゃったんだよ。君には申し訳ないことを」
「待って、ちょっと待って」
なんということだろう、思い至りもしなかった。もしかしたら、彼は“感染病のことを知らない”のかもしれない。いやむしろそうでなければ辻褄が合わない。知っていたら、自ら出頭するはずじゃないか。
「ルナール、まさか、あなたのことをみんなが探し回っている理由を知らないの?」
「ええ?」
もしかしたらどころではない。ビンゴだった。
なるべくルナールに衝撃を与えないように全力を尽くして、私はこれまでの経緯を説明した。ついでに端末に入力したメモも見せる。
「つまり、僕は病気ってこと?」
「そう。でも治らないわけじゃない。あなたたちの母星に行けばワクチンがあるし、あなたから感染してしまった人たちも時間が経てば完治するらしいの」
「そういうことだったのか」
呆然とした様子で、ルナールは呟いた。
「僕は危うく、大切なものを永遠に失ってしまうかも知れなかったんだね」
彼の言う“大切なもの”が何なのか、私はついぞ知る機会を失ってしまった。あったとしても、そんなことをずけずけ聞く度胸はないけれど。
私たちが会話しているところで、テウメッソス人の警官たちがぞろぞろやって来た。強面の彼らに挟まれてパトカーの中に押し込められる彼の頼りなさそうな様子と言ったら――私はよっぽど彼に付き添ってあげたかったけれど、一介の地球人には叶わない希望だ。
さよならを言う間もなく、彼は行ってしまった。
それから暫く、また元通りの日常が訪れた。
テウメッソス型アムネスティック・シンドロームによる被害は、保菌者であり育菌者となってしまったルナールが無事に母星へ送られたことで打ち止めとなり、徐々に消えつつある。物忘れの激しかった上司は書類を渡す私に間抜けな顔を見せなくなるし、ババアは鼻もちならない態度を若干前のバージョンくらいには戻してくれた。友達とは、もうあまり約束をしていない。友達ではなく、良くおしゃべりする同僚程度の距離感にすることで、私なりに不毛な交流から手を引くことに成功したのだ。
私の場合、今のところ健忘症的な自覚症状は出ていない。心当たりがあるとすれば、初めてルナールが家にやってきた時差し入れたサンドウィッチをいつ作ったか、という本当に細やかなことくらいなもので。もしもルナールなら、サンドウィッチを作った時のことはちゃんと覚えていそうだ。彼の料理の腕は素晴らしいし、私よりも食べ物のことはうんと大事にしているに違いない。
私は彼と過ごした日々のことを、だんだんと肉付けして書き記すようになった。最初に取ったメモをベースにして、あんなこともあった、こんなこともあった、と。段々と鮮やかに色付けしていくことで、充足感が増してくる。多分、時間が経つにつれ、記憶が薄れてしまうことが恐ろしかったのだろう。記録し創造することは、その恐怖を私から遠ざけてくれた。
人は記憶を失う。日々忘却する。好むと好まざるとに関わらず、忘れてしまう。
だからこそ、その隙間に自らの言葉を埋め込み、物語を作り上げていくのだろう。
ルナールを探す為に自分で運転する快感を思い出してから、私はしばしば手動運転でドライブするようになった。まだ薄暗い時間から走り出し、太陽が昇るころに帰って、仕事へ行く。自分がどこから出発し、どんな道を通って、どこへ帰りつくか、はっきり分かっているのは気持ち良い。
その朝も、私は夜の名残りがある辺鄙な道を車で走っていた。テウメッソス人が暮らす居住区域を避けながら、けれど何となく土地勘のついた森の中を走り抜ける。ルナールと再会した空き地に差し掛かると、ちょうど朝日が東雲を淡く照らしていた。
「綺麗だな」
柄にもなく独り言が漏れた。車を止め、ドアを開け放って外に出る。息を深く吸って伸びをすると、とても清々しい気持ちになった。
ブブ、とコートの内側が鳴った。端末のバイブレーションだ。内ポケットから取り出してみると、見覚えのないアドレスからのビデオメッセージが着信している。変なウイルスじゃないでしょうね、とは不思議と思わなかった。何か直感のようなものが働いて、無造作にアイコンをタップする。
『やあ、久しぶり。元気かな』
ルナールだった。四角く切り取られた画面の中で、ルナールがこちらを見て微笑んでいる。
『驚いてるかな? そうだろうね。君の連絡先は、警察から教えてもらったんだよ。あの後で』
そういえば、駆けつけて来た警察官に連絡先を聞かれていたのだった。念の為、と。今回は忘れないのね、と思ったのはもちろん口には出さなかったけれど。
『このメッセージが届く頃には、僕は多分、また地球に向かって旅立ってると思う。ロケットはすごく便利な機能があってね、ワープって言うんだけど、何億光年っていう距離を一瞬で飛んで来れるんだ』
確かにそれは便利な機能だ。恐るべきテウメッソス人の技術。多分地球人以上だ。
『ワクチンの投与は無事に終わったよ。多分二度と発症しないと思う、僕はね。けれど、今回のことで、100年も昔に根絶したと思われていたウイルスがまだ生きてるって分かったわけだから、それなりの対処も考えなきゃならない。ワクチンは母星から地球に送られるし、地球でも作られるようにするらしい。気がかりなのは、地球の人たちにテウメッソス人が悪く思われないかどうかっていうことだね。これまで僕たちと地球人が特に波風立てずにやってこれたのは、お互いに無害だったからなんだもの』
ルナールは少し表情を翳らせたが、また元の明るい表情に戻る。
『地球に戻ったらいろいろとやり残したことを片づけて、それで、君に会えたらと思ってる。いろいろと迷惑をかけたしね。トレンチコートも、返しそびれたから』
その言葉にちょっと笑った。あげるわよ、と言いたかったが、返してもらうのも会う口実と思えば悪くない。
『それじゃあ、また。身体に気を付けて。風邪をひかないでね』
ビデオメッセージはそこで終わっていた。真っ暗になった画面の端末をポケットに戻し、太陽の輪郭がはっきりとし始めた空を見上げる。すると、一筋の光がシュッと指で線を引いたみたいに迸り、流れた。
あれはきっと、ルナールの乗ったロケットの放つ輝きに違いない。テウメッソス人はまた地球人を騒がせるのだ。「一体何があったんだ?」「どうしたどうした」「やあ、地球のみなさん、お騒がせしております」なんて。
それで、彼はまたひょっこり私の前に現れる。懲りずにキツネ姿でやってくるのか、それともちゃんと服を着てやってくるのかは知らないけれど。茶色のくりくりっとした目で、無邪気に日常を変えようとしてくるに違いない。遠からず。そう確信した。
言うなればそれは、頭にピッキーンと来るような、フィーリングだった。




