2.名もなき幸せ
全裸の若い男に(しかも初対面)トレンチコート一枚だけ着せて自室まで案内する、などというアブノーマルな趣味は持ち合わせていないので、自称テウメッソス人の彼にはもう一度キツネになってもらい、こそこそ隠れながらフラットの中へ入った。正直なところを言えばキツネ状態の彼をここぞとばかり放り捨ててしまえば後腐れなかったのかもしれないが、それは私の想像力豊かな頭脳が許してくれなかった。だって、「うわあ、さっきのキツネに見える動物、本当は全裸の男なんだよなあ」とか、夢見が悪いにもほどがある。
なぜ自分の家なのにこそこそしなければならないのか、と呻吟する思いでドアを閉め、もう一度盛大な溜息をつく。これまでにないほど、ほんの数十メートルの距離が果てしなく感じた。
私はクローゼットの奥底にしまっていた男もののジーンズとセーター、古びたトランクスを発掘し、キツネの彼と一緒にバスルームに押し込んだ。
しばらくすると、キツネの彼はそれらをきちんと着た状態でひょっこり顔を出した。
「やあ、良かったよ、ぴったりだ」
なぜ一人所帯の私が男物の服を持っているのか、キツネの彼は尋ねなかった。
冷蔵庫を開けてみると、ミネラルウォーターの入ったペットボトルと、皿の上に乗ったサンドウィッチがラップをかけた状態で入っていた。サンドウィッチの皿を取り出し、ラップを外して指先でパンの部分をつんつん触ってみる。
おかしいな、こんなのいつ作ったっけ。
パンの状態から見ると、作ってから一日以上は経っていない。食べても問題なさそうだ。
「お腹減ってる?」
キツネの彼は明るい茶色の目をくりっとさせて、顔中から喜びの気配を漂わせる。どうぞ、と言ってサンドウィッチを差し出すと、キツネの彼は恭しく皿から手に取り、美味しそうに一口頬張った。どうやらお腹が減っていたらしく、サンドウィッチは見る見るうちに消えていく。自分でも一切れ取って、ぱくりと齧った。うん、我ながら美味しい。ライ麦入りの食パンにマヨネーズを和えたマッシュポテトとハムを挟んだそれは、あっという間に孤独な胃袋を満たしていった。
テウメッソス人もサンドウィッチ食べるんだなあ。ミネラルウォーターをグラスに注いでやりながら、目の前の男をさりげなく観察する。髪の毛はキツネの時と同じ、文字通りキツネ色をしている。触ったらやはりもふもふするんだろうか。
テウメッソス人は、国際的に有名な宇宙人だ。どの星だったか忘れたが――多分火星だ――にぶつかった隕石のかけらが地球に降ってきて、どこかの国に――確かアメリカだった……いやオーストラリアかも――落っこちた。わんさかと調査に乗り出した天文学者やらなんやらが、バラバラになった宇宙の石の欠片を調べていたら、彼らは突如現れたらしい。「初めまして、地球のみなさん」と。テウメッソス人、語学の才能ありすぎ。
センセーショナルなこの事件が10年前だか15年前だかの話で、私はまだよちよち歩きしてたかしてなかったか……とにかくリアルタイムでは良く知らない。けれど、以来世界中から注目を浴びたテウメッソス人は、地球の人々と比較的仲良く暮らせている。理由は恐らく、キツネに似た生き物に姿を変えられること以外、テウメッソス人と地球人の間にはさほどの違いがないからなのだろう。外見も生態もかけ離れていない者同士なら、交流することに抵抗は生まれないものなのかもしれない。
「それで、えーと、どうしてあんな道のど真ん中で倒れてたの?」
キツネの彼は口の中のサンドウィッチをもぐもぐさせながら、きょとんとした目で私を見た。ごくん。
「どうして?」
「だって、理由もなしに倒れたりしないでしょ」
キツネの彼は考えるように眉を顰めた。外見は私とそんなに歳が離れているわけでもなさそうなのに、表情筋を動かすと彼はたちまちあどけなくなる。まるで算数が解けなくて困っている小学生みたいな顔だ。
「理由がなくちゃダメかな」
「ダメってわけじゃないけど」
「なら何故訊くの?」
「何故って」
私は首を振った。
「ああ、良いわ。それで、この後はどうするか決めてる?」
またしても理由を求められそうな顔をしたので、先手を打って今度は手のひらを振って見せる。
「服はあげる、もう着る人はいないから。だから、明日私が出かけたら鍵を閉めて、好きなところに行くと良いわ」
「ここにいちゃダメ?」
私は目をぐるっと回して見せた。呆れた時の仕草だ。
「恋人でもないのに一緒にいるわけにはいかないでしょ。それにここ独り暮らし専用」
「別に恋人になりたいわけでもないけれど……心配しなくても、今は発情期じゃないよ」
「発情期」
「それに君、どう見たってキツネになれそうもない」
テウメッソス人は発情期があり、しかも発情したらキツネの姿になる。なるほど、これは初耳だ! 勉強になった!
「あなたとロマンスが生まれる心配はないのね、よかった」
「地球人はロマンスなんか生むの? 子供だけでなく?」
ついでにテウメッソス人は言葉の綾を理解するのも不得手らしい。覚えておこう。
「とにかく、あなたがここにいても良いのは明日の朝まで。良いわね?」
不承不承といった様子で、キツネの彼は頷いた。
やれやれ、どうも手のかかるお客さんだ。
翌朝、私はいつも通りの時間に起き、いつも通りの時間に出勤した。眠りから醒めた途端、昨日の夜の出来事は夢だったんじゃないかというくらい、部屋の中は整然としていた。
キツネの彼の姿が見えなくなっていたのだ。
玄関の鍵は開いていたから、多分そこから出て行ったのだろう。まったく、寝ている人がいるのに鍵もかけずに行くなんて非常識にもほどがある。でもそれは仕方ないか。テウメッソス人だし。
一言くらい何かあっても良いんじゃないの、と思ったけれど、多分もう会うことはない。要するに彼は、昔話に出てくる動物みたいなやつだったんだろう。ひょっこりやってきて、何やかんやかき回して、最後にするっといなくなるやつ。服を上げたから、もしかしたらそのうち玄関にお礼の木の実とか置かれてることもあるかもしれない。どこで手に入れた木の実かも分からないものを鍋に入れて煮るとか、そんな度胸は私にはないけれど。
仕事は相変わらずピッキーンと来るようなことばかりだった。上司はこっちから頼んだことも、あっちから頼んで来たこともしょっちゅう忘れ、ババ……年上のお姉さん社員はここが職場なのを忘れてるんじゃないのってくらいボーイフレンド(もしくは入れあげてるホスト)に電話をかけまくる。ちなみにランチはまたすっぽかされた。キャンセル料は取られなかったけれど。
イライラもピークで定時退社し、今日こそワインを浴びるほど飲んでやる! そう心に決めて帰宅した私を迎えたのは、奇妙に明るいフラットの窓だった。
(……えっ、まさか)
鍵はかかっている。鞄の中からモタモタしながらキーホルダーを引っ張り出し、慌ててドアを開けると、香ばしい肉の焼ける匂いがふわりと漂ってきた。
「おかえり」
出迎えたのは見間違えようもない、キツネの彼だった。
「なっ、ど、どうやって……?」
「不用心だなあ、窓の鍵が開いてたんだ」
そういえば、洗濯物を取り込んだ後良く閉め忘れるのだ。
「さあ、ちょうど出来上がったところだから」
キツネの彼はリビングの方を顎で指し、にっこりと笑う。
文字通りキツネに抓まれたような顔をしていたのだと思う。その時の私が何を考えていたのか、もうあまり定かではなかったけれど、瑞々しいレタスを千切ったグリーンサラダや、塩コショウの効いたスペアリブなんかが食卓の上にきちんと置かれていた。
「ワイン開けても良かったかな?」
「え、ええ」
ポン、とコルクを抜いて、二つのグラスにトクトクと赤いワインが注がれる。
「ほら、食べよう」
すとん、と椅子に座り、促されるまま乾杯し、彼が用意してくれた晩餐をありがたく頂いた。私なんか、逆立ちしてもこれほど美味しくは焼けないだろうというくらいスペアリブはジューシーだったし、ちゃんとしたサラダは久しぶりに食べたし、なんというか、感動してしまった。多分胃袋を掴まれてしまったんだと思う。明日も夕飯を準備して待っていても良いかというキツネの彼に、私はつい「まあ良いけど」なんて返事をしてしまった。
「良かった。それじゃあよろしくね」
握手を求められ、ぎこちなく応じる。手の感触はあたたかく、しっかりしていた。
当然だけど、もふもふはしてないんだな。
「そういえば、あなた名前は?」
私の問いに、彼はお得意のきょとん顔をしてみせた。
「さあ、忘れた」
テウメッソス人はお互いを名前で呼び合ったりしないんだろうか。
それでは不便なので、私は彼を「ルナール」と呼ぶことに決めた。
昼働き、夜帰るとルナールがご飯を用意してくれている。意外と悪くないかもな、なんて思ってしまい、そんな生活が一週間ほど続いたある日だった。
ルナールは出会った時と同じくらい唐突に、私の目の前から消えていなくなった。




