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愚か者

作者: 鳴瀬七瀬


 かれこれ三時間ほど膝を抱えて座っている。勿論ただ放心していたわけではない。証拠に右手には大きな包丁、左手首にはそれで付けた切り傷が何本か走っている。

 いわゆる躊躇い傷ってやつだ。なんとなく笑いそうになる。

 ためらい傷。うまい名前を付けた人間がいるなあ。死ぬのを躊躇っている傷、まさしく正しい名だ。


 自分には、特に兼ねてからの自殺願望があったわけではない。

 今日だっていつも通り会社に行って同僚と話して上司と話して仕事して、仕事が終わったら飯食って、でも。

 飲みにも行かずに早々と帰ってきたのはやっぱり自殺したかったからかもしれない。

 よくわからない。

 ……でも死ぬしか無いんだ。

 仕事だって人間関係だって金銭面だって順調だ。でも死ぬしか。

 考えながら自分の顔の前に包丁をかざす。このためだけに買った。

 パッケージには肉切り包丁、と書いてあった。肉を切る。自分の。

 出来れば骨も切りたいのだが、はたして実行できるだろうか? かれこれ三時間ほども躊躇っているのに。


 記憶を手繰る。

 気付いたら身体が重かった。

 重力には逆らえないとわかった瞬間の絶望は今も口の中に苦味を伴って覚えている。何故絶望したのかと言えばわからない。

 逃げられないからだ、としか言葉に出来ない。重力から逃げられない。


 恐らく世界中の人間、生き物たちも形は違えども絶望を内包して生きている。そう思っていた。

 ずっとそう思っていた。

 だけど違うのかもしれない。少なくとも開いた魚の内臓はただただグロテスクでグチャグチャしていて臭かった。

 何もなかった。

 何も、何も、何も。

 (だから?)

 死ぬしか無いんだ。

 死ぬしか道は無い。

 死ぬしか……。

 何故?

 わからない。

 頭が熱くて思い出せない。


 考えながら手は無意識にロープを手繰り寄せていた。先端に適当な大きさの円を作る。頭が入るぐらいの環。


 死ぬしかない……何故死にたいんだろう。何故、こんなにも、自分の進むべき人生の先が暗澹として見えるのだろう。思い出せない。何故? しかし……死んでしまえば悩みは無くなるのだ。

 ロープの輪とは逆の先端を柱の釘にくくりつける。幾度か引っ張ってみてもロープは外れなかった。多分大丈夫だろう。手首を切ろうとするから上手くいかなかったに違いない。


 早くしなければ……。

 (何故?)

 首を輪の中に入れる。

 腰を曲げて、体重を一気に落とす。


 (なぜ死ぬしか無い?)

 生きられないから。生きるのがつらいから。自分が駄目な人間だから。周りがわかってくれないから。努力しても報われないから。希望なんて砂粒みたいで見つからないから。空が青いから。空気がつめたいから。

 死にたいから。だからだ……。


 本当に?

 頭が真っ白になる。


 あ、ああ、あ、あああ

 死ぬ。死んでしまう。死んだら。死んだらおしまい。真っ暗な何もない世界に引っ張られて何も自分もつらさも楽しさも何もかも何もかも無くなる、本当に、本当に、これで正しかったのか?

 死にたく、な……。



 重力に負けた。



 その結果、ロープは千切れて俺は床に投げ出された。あと少し脳に酸素が運ばれなかったら恐らく後遺症が残っていただろうと思いながら咳き込む。喉に綿を突っ込まれてマイナスドライバーで二百回ぐらい圧迫されたような苦しさだった。

 えずいて涙が滲んだ目に、窓の外の朝日が映る。その太陽は澄み切って美しかった。ああ生きててよかったと思うほどに。

 少なくとも、今だけはそう見えた。


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