9.繋がれた手の温もり
竜王は黒の外套を纏っているが、膝下は素足だ。
靴すら履いていない。
ロゼッタは急に現実に引き戻され、頭の中は大混乱だ。
「わ、わたくしを、ずっと騙しておられましたの?」
「そうでもしなければ、そなたは我から逃げ続けたであろう?」
穏やかな瞳は湖面のように凪いで、口調も優しい。
先日、馬車で触れ合ったやり取りが思い出され、恥ずかしいほど鼓動が高鳴る。
「だからといって、犬の姿で騙すなんてあんまりですわ」
竜が人に化けているだけでも充分に衝撃的だというのに、竜からはおよそ似つかわしくない超小型犬に姿を変えるなど、夢にも思わないことだ。
じわりと涙が滲み半泣きになる。
湧き上がる泡のように、リリアンヌと過ごした日々が蘇る。
箱の中から見つけたときからその可愛さに一目惚れしたのだ。
つまりは、それが全て竜王と過ごしていたということになる。
四六時中傍にいたのだ。
すべて見られているとも知らず、うっとりと眺め続けた。
信じられない。
堪えきれずドレスをからげた。
逃げようとして、腕を掴まれる。
「ふうっく、はなして」
ロゼッタはみっともなく泣いた。
「ここはそなたの住む人界とは違う。城は入り組み、場所によっては魔物が侵入する」
「魔物?」
見上げれば憮然とした黒曜石の相貌と出会う。
「谷底が地獄と繋がり、魔物は地獄から吹き上がる強風に乗って現れる。それを我ら一族が狩っている。だが、稀に逃がすこともなきにしもあらず」
人は悪事を働くと死後は地獄に落ちて魔物になる。
ウィルディーチでは、子供を叱るときにしばし大人たちが用いる脅しだ。
しかしそれがまさか事実だったとは知らなかった。
話をしている最中、谷底から強風が吹き上がった。
ロゼッタが空を仰ぐと、紫紺の空に黒い影が転々と見えた。
それらを、竜が追って捕らえていく。
彼らがいなければ、あの魔物はどこへ向かっただろうか。
「我らツィルニトラ一族は、古くからより強い魔力を得る為にも、魔物を食して生きてきた。ゆえに地上の生物を狩ることはほとんどない。ユヴェニスがそなたを食そうとしていたが、我へのあてつけに過ぎぬ。我らが人を食すのは純粋なる贄に限る」
人命は自然の驚異や戦火の前では、いとも容易く葬られてしまう。
神に供物を捧げて救いを求める風習は、この世界の各地に存在し、供物の中でも人身は最上級の捧げ物である。
それが、ウィルディーチでは、神ではなく竜なのだ。
前世の記憶を持つロゼッタは、当時を思い出した。
「五百年前、この国は隣国の大規模な侵攻を受けました。あなた様に助けていただかなければ、国は滅び、多くの民が虐殺か奴隷にされていただろうと。今日に至るまで平穏が保たれているのは、一重に竜王陛下の威光の賜物であると聞き及んでおります」
彼女のいた村はとても貧しく、何年も国に納める税を滞納していた。
王家は、それを納めるように通達し、できなければ供物として娘を差し出すようにと命じてきた。
日々の食べ物にさえ窮していたのだ。
村長は村の娘達に頭を下げて回っていた。
「王家や村にいかなる理由があったにせよ、あなた様はこの国を救ってくださいました。そのご恩に報いる為の栄誉あるお役目」
ロゼッタは、見違えるほど立派に整えられた門を見上げた。
「誇りを持ってここへ参りました。それなのにわたくしは、あなた様を一目見て……」
「人間の男でさえ怯えるのだ。致し方あるまい。……ロゼッタ」
囁くように名を呼ぶと、竜王はロゼッタの背に寄り添う。
「恐ろしい思いをさせた。生涯を賭けてそなたに報いると誓う」
『我らが人を食すときは純粋なる贄に限る』
ウィルディーチの民は竜を神と崇めてはいない。
恐ろしい怪物でしかないのだ。
利害関係の一致で成り立つ人と竜の関係。
けれど、それ以上に彼らは人に恩恵をもたらしている。
少なくとも脅威であるはずの魔物を、目にすることさえないのだから。
では人々は常に彼らに守られているということになる。ロゼッタも知らずにこれまで生きてきたことを、一体どれだけの人達が気づいているのだろう。
供物として食されたことは恨んでいない。
そうなる運命だった。
しかし、今は姿を変えて騙されたことが許せず、とても素直にはなれそうになかった。
「今すぐ屋敷に帰してくださいませ」
「夜は魔物が増える。狩りながらの飛行になる上、危険も伴う。怖がりのそなたには勧められぬ」
茜色だった空はもうすっかり暗くなっている。
代わりに門前には松明がともされていた。
視線に気づいてそちらを見ると、松明と思われたそれは、怪鳥のフマが全身に纏った炎だった。
「あれは不死鳥のフマだ」
「不死鳥?」
「普段はああやって炎を纏っている」
「そう、君を乗せるのに消してたんだ。そうすると、攻撃もできないから参ったよ」
「ごめんなさい。何も知らなくて」
「別に僕のことなんてどうでもいいけど、竜王の名前ぐらい覚えてあげなよ」
ロゼッタは言われて初めて、竜王にも名前があることに思い至った。
恐る恐る見上げる。
「カイル。フィリップから紹介されたときも名乗ったがな」
冷ややかな声にサーと血の気が引いていく。
そうでした。
「申し訳ありません」
「覚えてくれれば良い」
「陛下、立ち話はそれぐらいになさり、ロゼッタ様を城内へお招きになられてはいかがか」
できることなら今すぐ帰りたい。
かといって、竜王カイルが言うように、魔物を狩りながら飛行されるのも嫌だ。
残る選択肢は、羞恥に耐えて竜王城で一晩過ごすこと。
竜王がロゼッタの反応を見ている。
一刻も早く自分を騙した竜王から逃れたいというのに。
黙っている間に手を取られた。
「バトラー、食事と風呂の用意を頼む」
「御意」
バトラーと呼ばれた老齢の紳士が優雅に頭を垂れた。
「おいで。部屋へ案内しよう」
手は緩く握られている。
それなのに、振りほどくことができない。
ロゼッタの住む王都よりも遥かに標高の高い竜王城。
風が夜の冷気を孕み肌寒い。
触れられた竜王の手がひどく温かく感じられた。