8.リリアンヌ、空を制す
一人すすり泣いていると、もぞりとドレスの裾が動いた。
ロゼッタの四肢とは違う何かがそこにいる。
今度は何?
泣き叫びそうになりながら、恐る恐る足の方を見やった。
ドレスの裾が膨れ上がっている。
ねずみ?
もぞもぞと更に動いて、やがて裾から小動物が現れる。
薄暗い闇の中、きらりとつぶらな瞳が光った。
独特な歩き方は……。
「り、リリ……アンヌ?」
「アンっ」
ロゼッタは力の入らない手を伸ばし、その柔らかな毛に触た。
探していた姿を見られたことと、こんな場所でたった一人ではなかったことに安堵した。
無事で、しかもリリアンヌはロゼッタと違い、とても元気そうだ。
再会を喜んでばかりもいられない。
「……にげて……はぁ、……ここ……あぶな、い……にげ、て」
ロゼッタは抱き寄せたい気持ちを我慢して、リリアンヌを手で押しのけて離れさせる。
リリアンヌがロゼッタを見たまま後ろに下がると、明るい入り口のほうへ駆けていく。
ユヴェニスが張った障壁とやらは、内側から外へ出るには問題がないのか、それとも小動物だからか。
リリアンヌの疾走が止まることはなかった。
もこもこの小さな姿は、無事に洞の外へと消えた。
けれどいくらもしないうちに、戻ってくるではないか。
困った子だ。
ここにいては危ないのに。
どうしたものかと逃がす思案をしていると、リリアンヌが傍まで戻ってくる。
なにやら咥えてきたそれを、ロゼッタの目の前に置いた。
暗い洞の中よりも更に闇色のそれが、キラリと瞬く。
「アンっ」
促すように吼えられて、ロゼッタは手を伸ばす。
硬い石のようだ。
触れた瞬間、一瞬でまとわりついていた嫌な空気が吹き飛んだ。
「なに?」
呼吸も楽になって、声も出しやすい。
しかし、石から手を離すとまた息苦しさと、嫌な臭い、まとわりつく重い空気が戻ってくる。
まるで空気清浄機だ。
ロゼッタは片手で胸を押さえながら、もう片手で石を拾い上げた。
「あれほど身体が重かったのにっ」
ロゼッタは不可思議な石の力に感動し、リリアンヌは行儀よく座ってそんなロゼッタを見上げていた。
「わたくしのためにありがとう、リリアンヌ! それにしても、あなた一体どこからこんなものを持ってきたの?」
機嫌よく尻尾を振るだけで、リリアンヌは何も応えない。
どちらにしても、人間の言葉を話せないのだから吼えられても分からないわけだが。
リリアンヌは立ち上がると、入り口を向いてロゼッタを振り返る。
「そうね、こんなところにいても、しかたがないわね。行きましょう」
掌の石は、ロゼッタの親指の先から第一関節ほどの大きさで、菱形に切り出されている。
その尖った先に細い鎖が通されていた。
リリアンヌの視線に促されて、ロゼッタは鎖を首にかける。
「リリアンヌ」
名を呼んで手を伸ばすと、リリアンヌが差し出した両手に乗ってくる。
ほんの少しばかり離れていただけだというのに、その小さくふわふわした身体が懐かしくて、愛おしくて仕方がない。
「傍にいて、お願い」
柔らかな毛に頬を寄せると、リリアンヌが薄い舌でぺろりとロゼッタの唇を嘗めた。
バサリと、入り口付近で大きな翼が空を仰ぐ音が聞こえた。
竜の恐怖を思い出し、ロゼッタはぎょっとして身構た。
もうお帰りですの?
ユヴェニスかと思えば、洞の入り口に、竜ではない何かが降り立った。
体の大きさは成竜の半分ほどで、虹色に染まる鮮やかな翼に嘴。
腕はなく足は細い。
鳥のようだが、その大きさも色も初めて見る。
地上では竜も滅多に見ることのできない生物だが、それ以上に珍しい。
伝説に出てくるような神獣を彷彿させる。
威圧はなく、美しい羽は陽光を受けてか眩い。だが、今いる場所が場所なだけに、何をされるのか分からず、恐ろしく警戒は解けない。
ロゼッタは後ずさった。
それに反して、腕からリリアンヌが飛び出していく。
「リリアンヌっ!」
ロゼッタの制止も聞かず、リリアンヌは無謀にも虹色の鳥に飛び掛っていく。
「だめよっ、危ない……」
必死で制止する間に、リリアンヌは鳥の背に飛び乗った。
虹色の鳥は、長い首を巡らせてリリアンヌを振り返ったが、そのまま大人しく乗せている。
「アンっ、アンっ」
安全だよ、とでも言うようにリリアンヌが尻尾をふりつつ吼えた。
ロゼッタは、胸元の空気を清浄にする石を握り締めて躊躇う。
「はやくおいでよ。乗せてあげるから」
声がはっきりと聞こえた。
鳥は嘴をパクパク開いて、少年のような高めの声を出していた。
驚くロゼッタに近づいてくる。
「言語能力はツィルニトラにも負けないよ」
「ツィルニトラ?」
意味不明な単語もあるが、会話ができるらしい。
「そんなことも知らないの、カイルの奥方なのに」
「わたくしどなたの奥方でもありませんわ。婚約はしてますが、結婚はまだしてませんわ?」
ロゼッタの履歴には『カイル』も『奥方』のどちらの単語も記載されていない。
七色の鳥がしばしロゼッタを凝視した後で、リリアンヌを振り返った。
「ねえ、この子本当にカイルのお嫁さんなの?」
まるで知り合いのような親しさで聞き返している。
鳥の背でリリアンヌが小首をかしげ、ロゼッタを振り返る。
それもそうだろう。
犬のリリアンヌに分かるわけがない。
なんにしろ、鳥は敵ではないようだ。
「わたくしの名はロゼッタ・アルマン。カイルという方がどなたかは存じ上げませんが、わたくしは竜王陛下の婚約者ですわ」
「クーックククッ、なにこの子、すっごい面白いんだけど」
何がそんなに面白いのか、鳥は爆笑している。
「僕はフマ。竜王の友達だよ。宜しく、ロゼッタ」
少し前まで竜王と聞くと恐ろしくてならなかったが、今は竜王の名ほど頼もしく安心できる存在はない。
「まあ、竜王陛下の」
「ここ危ないから、とにかく乗りなよ」
「まあ、助けて下さるの! お言葉に甘えさせていただきますわ」
フマが乗りやすいように長い首を下げてくれる。
ロゼッタはフマの首を跨いで付け根に乗った。
そのロゼッタの前にリリアンヌが座る。
フマが起き上がって長く美しい翼を広げた。
「竜王城まですぐだから、しっかりつかまってて」
「お、お待ちになって、でしたら、ウィルディーチの王都まで送ってもらえないかしら」
「えーっ、そんなのムリだよ」
「どうしてですの?」
「もう、本当に何も知らないんだな。説明すんのも面倒くさーい。とにかくムリなの。理由は竜王に聞いてよ」
フマはロゼッタの希望も説明も拒否して、上空へ飛び上がった。
ロゼッタは振り落とされないようにフマの首につかまる。
リリアンヌが落ちぬよう体で覆う。
強い風圧と気圧に息もできない。
景色など見る余裕は全くない。
竜の谷は、傾き始めた陽光が西から照りつけ、大地の裂け目からは風が吹き上げてくる。
フマは優雅に風を避けて滑空した。
「フマっ! それ、僕の餌だぞっ! 何で見つけて掻っ攫っちゃうんだよ」
どこからともなく聞こえて来た声は、ロゼッタを連れ去ったユヴェニスのものだ。
「うげーっ、見つかったっ! もうこいつヤダ、キライ。カイルっ、なんとかしてよ、僕がユヴェニスに喰われるだろうっ!」
ロゼッタのおなかの下にいたモコモコのふわふわが、もぞもぞ抜け出していく。
「リリアンヌ? だめよ、どこ行くの、危ない……」
捕まえようとして、触れた獣毛が手からするりと抜けていく。
フマの首を蹴った瞬間、まるで弾かれた玉のようにあっという間に跳躍した。
ロゼッタとフマに影が落ちる。
小さな犬の体が、一瞬で変化し、翼を広げたその姿は、漆黒の竜だった。
飛び掛ってくる暗緑色の竜目掛けて火炎を放つ。
旋回し、火達磨になって動きを止めた緑竜に、猛烈な旋風を見舞った。
まともにそれを受けた緑竜は、岩壁に叩きつけられた。
激しい空中戦の最中、フマは竜王城の門前広場に降り立ち、ロゼッタを丁重に降ろしていた。
ロゼッタは、ただただ呆然と上空を見上げるばかりだ。
衝撃で砕けた岩壁に、緑竜が血を流して動かなくなっていた。
周囲で戦いを見守っていた赤竜に回収され、広場までつれてこられる。
そこへ犬のツヴェルク・リッツがくるくると回転しながら降下し、重力をまるで感じさせない軽やかさで降りてきた。
短い尾をふりふり、とことこと歩く姿はリリアンヌのものだが……。
ロゼッタは後ずさった。
「りゅ、りゅう……うそ、嘘でしょう?」
リリアンヌが歩を止めると、くるりと反転して尾を向けた。
駆け出すと、何を思ったのか緑竜の翼の端を咥えた。
どこにそんな力があるのか。
超小型の犬が、一軒分の家ほどはあろうかという巨大生物を放り投げた。
宙へ上がる竜体を追って、リリアンヌが恐るべき跳躍で高く上がる。
「なりませぬ、陛下っ。弟君ですぞっ!」
ジュストコールを着た高齢の紳士が必死で制止する。
ロゼッタはその切迫した声にハッとして我に返った。
止めないと。
本能的にそうしなければ、と体が勝手に動いた。
「り、リリアンヌっ、やめてっ!」
上空のリリアンヌが敏感にロゼッタの声を聞きつけて首を巡らせた。
その隙に、赤竜が飛び出し、気絶して谷底へと降下する緑竜を追った。
老齢の紳士が広場の淵から身を乗り出して、赤竜が緑竜を捕まえたのを目視した。
「岩牢へ入れておけ」
紳士の指示に赤竜が従い、緑竜が広場に戻ってくることはなかった。
ロゼッタはよくわからないなりに、これでよかったのだとほっとした。
束の間。
ひたひたと近づく足音に気づいて振り返ると、そこには人化した竜王がいた。