19.身勝手も愛しき雌には成りを潜める
ロゼッタと広間の入り口まで付き添っていたカイルは、目に留まらぬほどの速さでその場から離れていた。
近くの空き部屋で犬化すると、脱げた服を残して、広間に面した庭に出たのだ。
片隅の木に上ると、そこから広間にいるロゼッタの様子を眺めた。
そもそもカイルは、はじめから夜会に出席するつもりなどなかったのだ。他の招待客の男達が気にはなるが、国家ぐるみで公にしたロゼッタとの婚約だ。最大のライバルであるフィリップでさえ竜王カイルを前に引き下がったのだ。他に竜王相手にロゼッタを奪うような、気概のある輩がいるとも思えない。なにもかも手筈どおりに事は進んでいる。
夜会など、僅か数時間のこと。アルマン伯の屋敷で、大人しくロゼッタを待っているつもりだった。
だが、気が変わった。
午前中の気鬱になったロゼッタに、結婚後の帰省と、生まれ育った屋敷の保障をしたところ、目を潤ませた心からの笑顔に、カイルの意識は完全に奪われてしまった。
昼間ドレスを贈ったときもそうだ。物欲がなく、何をもらっても同じような笑顔しか見せないと聞き及んでいたロゼッタが、心から喜んでくれているようだった。募る愛おしさに、カイルは益々ロゼッタから離れられなくなっていた。
ロゼッタの衣裳は、以前からバトラーに命じて用意させていたのだが、気の利く爺は揃いでカイルの衣裳も仕立てさせていたらしい。
しかもそれをバトラーは自らアルマン邸に持ち込み、お節介にも夕刻帰宅したアルマンと結託して、カイルにロゼッタの同伴を促したのだ。
人化のカイルを見れば、招待客、特に婦人達が目の色を変えて注目することは明らかで、ある程度騒ぎになることも予想していた。
いくらもロゼッタの傍にはいられないと覚悟はしていたが、今宵は一段と美しく装った伴侶への劣情と、夜会に集う人間の雄どもへの警戒心に駆られて、カイルはロゼッタの白い肌に口づけの痕を残した。
視線の先にいるロゼッタは、数組の男女に囲まれ、ころころと表情を変えながらも、それなりに愉しんでいる様子だった。
社交場である以上仕方がないとはいえ、カイルはどうにもロゼッタの付近に、男がいるだけで許せない。
殺気立って、少しでも我が花嫁に触れようものなら喉笛を掻き切ってやろうとさえしている。
無意識に留まる木の枝で爪を研いでいれば、乾いた音を立てて枝の先が地に落下した。
「物騒なお方だな。そんなに睨まなくても、誰も竜王の婚約者に手出しなんてしないよ」
どこかから戻ってきたフィリップが、木の枝にいる犬のカイルにそう言った。
虫の居所が悪いカイルは、フィリップ目掛けて飛び降りた。
両手を広げて受け止めようとしていたが、わざと頭上に乗ってやる。
カイルの正体を知るフィリップは、諦めたように溜息をついた。
「どうでもいいけど、来るなら来るって言ってくれればいいだろう? 危うくまた一人身になるところだったじゃないか」
「私を見て逃がしたのだろう? 少しは賢くなったではないか」
「僕は君に逆らうことなくロゼッタを譲り、協力もした。なのにどうしてそう、僕に突っかかるんだ」
「お前は男としてロゼッタの初めての唇を奪い、初めての抱擁を奪った。私の永遠のライバルだ。我ながら自嘲が禁じえぬが、この厄介な性分はどうにもならん」
幾分気が紛れたカイルは、フィリップの頭から肩へと下りた。
開け放たれた窓から見える広間では、ロゼッタが時折盗み見るように何かを探すように周囲を見ている。
「面倒くさ。で、そろそろ行くんだろう、リリアンヌの姿で。ロゼッタが心配そうにしているからな。……正直、安心したよ。竜王のことをあんなに怖がっていたからね。僕が言うことではないけれど、ロゼッタを幸せにしてあげて欲しい」
「案じずともロゼッタは幸せになる。娶った後も時折連れてきて、お前が苛立つほどの幸福に溢れたロゼッタの微笑みを見せつけてやる」
「そのときはまた犬の姿でいてくれると助かるよ」
フィリップは苦笑し、肩にカイルを乗せたまま、広間へと戻っていった。
すっかり元の友人のように語るフィリップと広間へ入ると、ロゼッタが友人らに腕のキスマークを冷やかされているところだった。
胸元まで朱を刷いてうろたえているのが見えて、カイルは堪らずフィリップの肩から下りた。
客達の足元をすり抜け、ロゼッタに気づかせるために、あざとく犬らしい鳴き声をあげる。
どのような姿であろうと、傍にいて、毎晩色香を嗅がせて誘惑し続けた。
ロゼッタはカイルを同族の男として認識し、身も心も受け入れようとゆっくりと心を開くようになっていた。それは同時に、ロゼッタを生娘でありながら女として花開かせ、咲き初めの瑞々しい初々しさはそのままに、美しく甘い色香を放つようになった。
間近で美しくなるロゼッタを愛でながら、おかげで仕向けた本人のカイルは、未だその身を我が物にできぬ悶えるような苦しみと苛立ちに、懊悩の日々を過ごしているのだ。
嫉妬と独占欲は日に日に増して、これが友人らとの別れを惜しむ夜会でなければ、出席などさせていなかっただろう。
もう自分以外の誰にも、ロゼッタを見せたくなかった。
濁りのない澄んだエメラルドの瞳に、自分以外の雄どころか誰も映させたくない。
仕草の一つ一つが可愛らしく、何をしていても、何をされても許せてしまえるほど愛おしい。
気が小さく怖がりで、すぐにおどおどしてしまうところも、真っ赤に恥じ入る顔も、うろたえる姿も。
我を狂わせる。
ロゼッタの掌の上で酒を飲み干すと、杯をぷっと吐いた。
酒になど酔わせられるかっ。
投げ出された杯は宙を回転しながら孤を描く。
投げた先は追いついてきたフィリップの元、愚民どもが杯に目を奪われている間、カイルはロゼッタの肩に上がった。
ロゼッタは、杯の行方よりもカイルの動きを目で追っていた。
たかがそれだけのこと。
されどそんな瑣末なことでさえ、カイルの胸は躍る。
カイルは鼻先を突き出し目を細めて微笑んだロゼッタに口づけ、薄い舌で嘗めた。
調子に乗って唇の隙を割ろうとすると、抱き上げられて柔らかな胸に戻されてしまう。
「だめよ、リリアンヌ」
鮮やかな緑玉が、優しくカイルを睨むと、頭から尻尾へと撫でる。
どうしたことか、小心者のロゼッタが急に堂々とカイルを扱った。
「急にどこかへ行ってしまったから、心配したのよ。でも戻ってきてくれて嬉しいわ」
カイルは応える代わりに無言で見つめて尻尾を振った。




