18.腕に刻まれた紅い花びらは主張する
婚約者を伴っているというのに、知人に会っても冷静な対応ができなかった。
「あ、あの、カイル様、先ほどの方は……」
「もうよい」
短く打ち切られて、ロゼッタは情けなくなる。
「ご紹介もできず、失礼致しました」
「構わぬ」
優しいカイルに、俯いていたロゼッタの顔は自然に上がる。
「ロゼッ……隣にいらっしゃる方ってもしかして、ご婚約者の竜王陛下……」
「まあ、なんて素敵な方っ」
二人に気づいた招待客らが、真っ先にロゼッタを見つけて声をかけようとして、隣にいるカイルに気づいてうっとりと見惚れて吐息をついた。
カイルは婦人らの声などまるで聞こえていないかのように黙殺し、足を止めかけたロゼッタを無言で促した。
アルマン邸には年配でベテランの侍女が多く、若い年頃の娘がいないこともあり、カイルがどれほど人を魅了する容姿なのかということに、ロゼッタはここにきて気づかされることになった。
容姿にこだわらない性格で、その上カイルとの出会いは、食べられるという弱肉強食の関係から始まったことも、強く影響していた。
竜は人にとっては畏怖の存在で、その長である竜王の花嫁に選ばれたロゼッタは、祝福されながらもその裏では、国の為に捧げられた生贄同様に憐れまれていたのだ。
以前にもまして屋敷に引きこもるようになったロゼッタに、レイチェルを始め友人らは同情し、かける言葉もないと手紙ももらっていた。
そんなことで、一ヶ月前にレイチェルから夜会の招待状をもらったときは、本来なら主催者は礼儀として婚約者も招くのだが、非礼を詫びた上で、親子で招待を受けた。
ロゼッタからすれば、それは至極当然のことで、そもそも、竜は滅多に人前に姿を現さない。人界の催しに竜王を付き合わせるという発想自体も持っていなかった。
半月前にフィリップが訪れて、竜王のことが社交界に知れ渡り、夜会の招待を受ける経緯を聞いた時は、おかしなこともあるものだと思ったほどだ。
口には出さなかったが、ロゼッタも竜王との出席は考えられなかった。
公爵の子息としての名と、美貌であることの噂が一人歩きしているようだが、そんな噂よりも、彼が竜と恐れられたり、ロゼッタが憐れまれたりすることを危惧していた。
気のないカイルの様子に、ロゼッタは内心で安堵していたのだ。
それがどういうわけか、周囲の反応はロゼッタの予想を越えたものだった。
カイルは恐れられるどころか、一目で婦人達を魅了し、ロゼッタは羨望の眼差しを受けた。
男達は揃って顔を引きつらせ、伴っている婦人が陶然とする様子に冷静ではいられないようだ。
視線は視線を集め、広間の入り口に着く頃には、すっかり注目の的になっていた。
「なるほど、あれが名高い竜王陛下か、噂に違わぬ超絶美形だな」
「もう見るな。失礼だろう」
「おい、大丈夫か、しっかりしろ」
人垣の中で見つけたフィリップの隣にいたレイチェルの夫がぼやき、別の場所で婦人に呼びかける男性の声に、焦る声。
バタバタと婦人がよろけて倒れた。
次第に騒がしくなる中、フィリップがロゼッタの知らぬ婦人を連れて、どこかへ去っていく後ろ姿が見えた。
「カイル様……」
不安に駆られて振り返ると、先刻まで確かにそこにいたはずの長身が、忽然と消えていた。
「どうしたの? 一体何の騒ぎなの?」
招待客を掻き分けて現れたのは、主催者のレイチェルだった。
「まあ、ロゼッタ、来てくれて嬉しいわ。久しぶりね」
「れ、レイチェル」
レイチェルはロゼッタが幼少の頃からの大親友だ。明るくて活発な彼女がいたからこそ、ロゼッタにも他に多くの友人ができた。社交界デビューができたのも、彼女の存在が大きい。
カイルがどこかへ行ってしまい、親友を見つけたロゼッタはほっとして泣きそうになった。
カイルが消えたことで騒動が収束し、定刻を迎えて夜会は華々しく始まった。招待客で埋め尽くされた広間には、彼らの楽しげな談笑が広がっている。
話の中心はほんの少し姿を曝した竜王の話題で持ちきりだ。
「なあに、せっかくお越しくださっていたのに、私が来ないうちにどこかへ行かれたなんて」
酒盃を手に美しく着飾った親友が唇を尖らせた。
「ご、ごめんなさい、レイチェル。せっかく楽しみにしてくれていたのに」
カイル様、どこへ行ってしまわれましたのかしら。
周囲に人垣ができるほど注視されたのだ。嫌気が差したのかもしれない。
一人でどこかへ行ったとしても、ロゼッタが心配するようなことなど何もないのだろうが、気になる。
「謝らないで。そもそも礼儀を欠いたのはこちらの落ち度だもの。ここまできてくださっただけで充分よ。でも、もしまた後でお出ましくださったら紹介してね。非礼の謝罪もしたいから」
レイチェルが茶目っ気にウインクすると、傍にいる彼女の夫が口を挟んだ。
「よせよ、会われたら俺が困る」
「まあ、信用ないわね」
「そういう次元の問題じゃないさ」
「フィリップのやつ、竜王を見つけてすぐに自分だけ彼女連れて逃げたんだぞ」
「そりゃ二度も痛い目に合えば敏感にもなるわな」
「あれはマジでやばい」
「破壊的な魅力だ。おかげで俺の嫁ももってかれた」
男友達が口を揃え、自分の同伴相手を見やった。
彼らの傍にいる二人の夫人は、先刻からどこを見るともなく、ぼうとして上の空だ。
しかもそんな様子の婦人は周囲に何人もいた。
ロゼッタは、レイチェルには申し訳なく思ったが、人の姿をしたカイルに会わずにすんでほっとしていた。彼女は結婚したばかりで、幸せの絶頂期にいる。そんな親友の幸せにひびを入れるようなことはしたくなかった。
そっと溜息をつくと、ロゼッタは何気なさを装いながら、消えたカイルのことが気になり、視線を彷徨わせていた。
「ロゼッタ様が羨ましいですわ」
ロゼッタを取り巻く数人の友人の和に、一人の婦人が入ってきてぼんやりと零した。
「あんなにも素敵な方に愛していただけるなんて」
婦人は切なげに目を潤ませた。
ロゼッタは、転生後に王宮で人化したカイルと初めて会ったときのことを思い出し、複雑になる。
命を奪われる恐怖から入ったロゼッタは、彼を見てそんなふうに思えることが、ある意味羨ましかった。
夢を見るように心を奪われてしまった婦人達にふと思う。
カイル様の本当のお姿を見ても、そんなふうにあの方をお慕いすることができるのかしら?
火炎を吹く漆黒の竜。
竜の谷で五百年ぶりに見たカイルの本当の姿。
犬と人の姿には随分と慣れたが、竜体に戻った彼を前に、平気でいられるかどうか、今でも分からない。
ロゼッタは、手にしている杯を満たす赤いぶどう酒を見つめ、一口含んだ。
「あら、ロゼッタ、その腕はどうなさったのかしら?」
親友のレイチェルがわざとらしく問いながら、ロゼッタの上げた杯を持つ腕を眺めた。
何を言われているのかロゼッタには分からず、杯をもう片手に持ち替えると、親友の視線の先を追った。
それは手首と肘の間の内側、白い肌にはっきりと浮かび上がっていた。
花びらのような形の赤い痣。
ここへ来る途中の馬車の中で、カイルに強く肌を吸われたことを思い出す。
痣は口づけられた場所と同じところについていた。
「こ、こ、これはっ……」
カイル様、なんてことをっ!
ロゼッタは頬どころか胸元まで紅潮させて、今にも眩暈を覚えそうになった。
「そういえばフィリップが言ってたな。竜王がロゼッタに骨抜きにされてるって。何の冗談かと思っていたが、あながち嘘でもなさそうだ」
「ご、ご、誤解ですわ。そ、そんなことっ」
ロゼッタは慌てふためいた。
「まあ、やだ、ロゼッタったら。前にくれた手紙には、死出の旅立ちみたいなことを書いていたのに。さっきからご婚約者様を捜しているようだし、ちゃんと仲良くしてるんじゃない」
「良かったな、ロゼッタ」
親友と男性陣が微笑ましい笑顔を湛えて頷き合っていた。
「アンアンアーンっ」
聞き覚えのある犬の声に、まさかとロゼッタは振り返った。
うっかり手元が緩んで、杯が滑り落ち、黄みがかったふわふわの獣毛がロゼッタ目掛けて飛んでくる。
床へと落ちる杯の淵を小さな口がはくっと見事に咥え、そして、更に跳躍して開いたロゼッタの両の掌に華麗に着地する。
犬のカイルは、くいっと器用に口だけで杯を傾けて、ぶどう酒を一滴も零すことなく、ゴクゴクと喉を鳴らして飲み干した。
「おお、何だ、なんだっ」
「犬のくせに一気飲みかよっ」
「凄いなっ、何だ、この犬はっ!」
「ロゼッタの飼い犬だよ」
友人らが芸達者なツヴェルク・リッツに驚嘆していると、そこへしばらく席を外していたフィリップが戻ってきた。




