13.夢と現の甘い腕に絆されて
規則正しい寝息が立つと、小さな身体は音もなく形を変える。
肌からふわりと芳香を漂わせれば、素肌の胸に、眠る少女が身を摺り寄せてくる。
人も所詮は動物に過ぎない。
本能には抗えない生き物だ。
雄竜は、意中の雌を得る為に、相手がもっとも好む香を放ち、唯々諾々と夢中にさせていく。
カイルは己のフェロモンを、ロゼッタに幾晩も嗅がせてきた。
起きているときとは違う素直なロゼッタを、カイルは胸に抱きしめる。
滑らかな首筋に顔を寄せると、甘く香るロゼッタの匂にくらくらと酔わされる。
夢中にさせられているのは、寧ろカイルの方だ。
日中も触れ合えるほど傍にいるというのに、ひたすら耐え忍ぶ日々だ。
その上ロゼッタはとんでもないことを言い出した。
浴室での彼女とのやり取りを思い出し、笑みが零れる。
竜王の我にこれほど禁欲を強いるとはな。
だが、発情期でなかったことはまだ救いであった。
理性が最も利かず、その期間、雄竜は雌を巣穴から決して出さず、昼夜問わず行為に及ぶ。
約束など一瞬で反故にし、それどころか言葉を交わす前に襲っていたかもしれない。
そうなれば、リリアンヌというロゼッタの愛玩具にまで、成り下がった意味もなくなる。
身体は得られても、心は生涯得られぬところであった。
そうならぬように、カイルは人界で暮らし、人間というものを学んできたのだ。
ロゼッタが再び人に転生すると信じて。
五百年もの孤独に耐えてきた。
前世のロゼッタに会うまでは、孤独を孤独とも思わず、発情することさえなかったというのに。
彼女と出会ってからのカイルは、後悔と孤独、身を焦がす恋しさに、苦しみのたうちまわっていた。
年に一度巡ってくる発情期の度に、我を失うほど凶暴になり、魔物狩りの度に谷に赤い川の如く火炎を吹いた。
手がつけられないほどの暴走に、どれだけの同胞が巻き込まれて、谷底に落ちたことか。
そんな王がやっと転生した伴侶を探し出したのだ。
同族の竜にとってこれほどめでたく、喜ばしいことはないだろう。
皆が気を利かせて王の花嫁を怖がらせぬよう、身を潜め、夜に溢れる魔物が邪魔をせぬよう狩りに精を出してくれている。
おかげで花嫁と甘い夜を過ごせそうである。
といっても戯れる程度で、まだ抱くつもりはない。
あれほど竜王を恐れ、嫌っていたロゼッタが、どのような姿であれ、やっと逃げずに受け入れてくれるようになったのだ。
それだけで天にも昇るほど嬉しい。
彼女の全てが手に入れられるのであれば、あと二月などどうということはない。
だが、つまみ食いだけは、どうにもやめられそうにない。
腕に感じる確かな重みと温もり、鼓動と息遣い。
肌から香る甘い匂い。
ロゼッタの全てが、カイルを誘惑する。
無防備に向けられた唇が、半開きになり、どう見ても誘われているようにしか見えない。
口づけぐらい許して欲しい。
ロゼッタ。
竜王ともあろうものが、請うように祈りながら、己のそれを、果実のようなふくらみに、そっと重ねた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「ロゼッタ、そなたが欲しい」
しっとりとした声音に、聞き惚れてしまう。
恥ずかしさに視線を上げることもできず、ロゼッタは俯いた。
頤を捕らえられて、顔を上げさせられる。
彼から、甘い花のような香りが漂ってきた。
どこかで前にも嗅いだことのある匂い。
それがどこであったかは思い出せないが、強すぎず柔らかで芳しい。
なんて良い香りがするのかしら。
香りにばかり意識が向いていると、いつの間にか口づけられていた。
それも、重ねるだけではなく、舌を深く差し入れられて。
身体は、筋肉質の硬い胸に密着し、逞しい腕に抱きしめられていた。
どうして、こんなことになっているのか、ロゼッタにも分からない。
何がどうなっているのか。
けれど、少しも嫌な気がしない。
そうすることがまるで当然のように、ロゼッタ自身も与えられるキスに、自然と応えていた。
この香りも、抱きしめられる感じも、柔らかい唇の感触も。
知っている。
……夢。
ここのところ毎晩のように見ていた夢と同じ。
これも、夢?
カイル様。
あなた様でしたの?
「ふう」
ロゼッタの後頭部を押さえ、長い闇色の睫を伏せて、人の姿をしたカイルが、悩ましげに唇を繋げたまま吐息をついた。
彼は、ロゼッタに口づけるだけで、それ以上のことはしなかった。
「誠意をお見せください。そうすれば、わたくしは全てをあなた様に差し上げられます」
瞼に光が射し、ロゼッタは目を開いた。
隣を見れば誰もいない。
大きな寝台には、ツベルク・リッツの姿もなく、彼女しかいなかった。
ロゼッタはどうやら、また夢を見ていたらしい。
なんて夢を見ていたのかしら。
そんな夢を見たなんて、とても竜王には言えない。
いや、一昨日の夜、彼だとは知らず、リリアンヌの前で羞恥に悶えてしまった。
わたくし、なんて恥ずかしいところばかり見られているのかしら。
屋敷での入浴も毎回一緒だった。
何も知らず、一緒に入ってしまった。
つまり、結婚前から何度も裸を見られているのだ。
いや、ロゼッタの希望で一緒に入浴していたのだから、勝手に見せたということになる。
なんということなのか、婦人にあるまじきはしたなさ。
恥ずかしすぎてもう死にたい。
ロゼッタは熱くなる頬を両手で押さえた。
わたくし、何をしているのかしら。
自分のことながらほとほと呆れる。
それにしても……。
『誠意をお見せください。そうすれば、わたくしは全てをあなた様に差し上げられます』
目覚める直前に夢の中でロゼッタは、竜王にそう言っていた。
夢はそこで終わったのだが……。
地上を制する竜に。
一国を救った救世主に。
立場も弁えず傲慢に、そう言った。
いや、夢ではなく告げたのだ、昨日の入浴時に。
『あなた様の下へ、正式に嫁ぐその日までお待ちください。約束を守ってくださるのであれば、私を差し上げます』
見下ろした身体には、寝衣が身に着けられ、乱れたところはない。
何の違和感もなく、いつもと変わらない。
何もされなかった。
それどころか、つい犬の彼を撫で続けて、いつもの調子で一緒に寝てしまった。
何も言われなかったことをいいことに、竜王陛下になんという無礼を働いてしまったのか。
怒ってらっしゃったらどうしましょう。
不安になり、ロゼッタは寝台から下りようとした。
「そんなに慌ててどうした?」
唐突にかけられた声にロゼッタはビクッと震える。
振り返ると、毛布がもぞもぞ動いて、その中から黄色がかった白い獣毛の塊が出てくるではないか。
「い、いらっしゃいましたのっ!?」
「人の成りで添い寝しておけば良かったか?」
どうでも良さそうにのんびりと言う。
前足を伸ばして伸びをしながら、ふわーと欠伸をした。
声だけ聞いていれば竜王なのだが、その姿はまさしく愛くるしい超小型犬。
「い、い、いいえ」
つい先ほどまで、人の竜王と生々しく濃厚なキスをしていた夢を見て、目覚めてもそのことで頭がいっぱいになっていたのだ。
戸惑いと混乱、訳もわからず鼓動は高鳴り、顔は熱くなって、まともに目も合わせられない。
逃げるように背を向けて、頬を両手で押さえた。
もうどうしていいのか分からない。
冷静になろうとしていると、どこからともなく漂ってきた芳香が鼻腔をくすぐる。
この香りは……。
不意に、すぐ真後ろに自分よりも大きな気配を感じた。
息をするのも忘れて、背中に全神経が集中する。
大きな身体が背に寄り添う。
ドキッと鼓動が跳ねた。
何も纏わぬ筋肉質の逞しい人の腕が、前に回され、ロゼッタは息を呑んで硬直した。
上からさらりと、闇色の長く癖のない髪が、帳のように流れ落ちてきて、頬に軽く口づけられる。
「あ、あの、あの、あのっ」
緊張するあまり、頭が真っ白になり上手く言葉が継げない。
「落ち着け、何もしてはおらぬ。そなたとの約束だからな」
ああ、カイル様。
ロゼッタの我侭を怒るどころか、許してくれている。
今すぐ逃げ出したいほどの恥ずかしさに襲われながらも、ロゼッタは目に涙を滲ませてひどく安堵した。
「愛している、ロゼッタ」
耳元で甘く囁かれ、無防備なロゼッタは流される。
「わたくしも……」
気づいたときにはそう言っていた。
慌てて手で口元を覆ったがもう遅かった。
クスリとカイルの笑い声が聞こえたかと思うと、彼の腕がスッと消える。
「朝食を運ばせる。待っていろ」
声は下から聞こえ、背後からロゼッタの脇を通り過ぎたのは、人ではない犬の竜王だった。
軽やかな足取りで、ロゼッタが声を掛ける間もなく、あっという間に寝台から下りて駆けて行った。
一人残されたロゼッタは、自分が言ってしまった言葉に、思ってしまった心の声に呆然とした。
『わたくしも……』
愛しています。




