10.湯けむりの攻防戦
窓のない暗く長い廊下。
岩山に穿たれた通路は、竜体でも通れそうな幅と高さがある。
中で複雑に枝分かれし、それがどこまでも続く。
ランタンを手に歩く人化した竜王は、ロゼッタの手を握ったまま、歩みの遅い彼女に合わせていた。
「この速さであれば、部屋まで二時間はかかる。腕に乗ってくれさえすれば、すぐに着くのだが」
先に行って下さいっ!
そう啖呵を切れればどんなにすっきりするだろう。
だが、何もなく、どこまでも同じような岩壁が続く場所だ。
万が一、取り残されるようなことになれば、二時間どころか迷いに迷った挙句、抜け出せなくなるのではないだろうか。
そんな考えが過ぎると、もう広いだけの廊下が、地下迷宮に思えて不安が襲う。
つくづく情けない。
おまけに無意識に、カイルの手をぎゅっと握っているのだから、我ながら世話の焼ける娘である。
「目を閉じていると良い」
言うが早いか身体が浮遊した次の瞬間には湯殿にいた。
ぼちゃんと服のまま湯に浸けられ、ロゼッタは慌てた。
なんてことをしてくれるのか。
当の竜王はというと、リリアンヌの姿で泳いでいる。
「い、いきなりお湯に浸けるなんてあんまりですわっ。……」
部屋に連れて行くと仰ったではありませんかっ。
と言いかけて言葉を呑む。
部屋といっても、連れて行かれたらそれはそれで、何かしら困ったことになりそうだ。
竜王城はもはや彼の領域。
逃げ場などどこにもない。
だからって、いきなり湯に落すとか、ひどすぎる。
「そなたがあまりにも寒そうであったゆえ、気を利かせたつもりだったのだが……」
ツヴェル・クリッツの可愛らしい姿の一体どこから、そんな低い声を出しているのか。
全くもってして似つかわしくない低音だ。
そして改めて、リリアンヌが竜王なのだと思い知らされて、悲しくなる。
「だからといって……わたくし、着替えも持っておりませんのよ」
「気に病まずとも良い。乾くまで我の衣を貸してしんぜよう」
「そ、そんな」
堪えていたものが溢れてじわりと涙が溢れる。
「意地悪ですわっ。あなたなんてっ、あなたなんてっ……」
大っきらいっ!
叫べば良い。
なのに最後の一言が言えなくて、悔しくて、両手ですくった湯を泳ぐ小さな姿にかけてやる。
「何をする、溺れるではないか」
言葉は怒っているようにも、焦っているようにも聞こえるが、声の調子は悠長だ。
「あんなに飛んだり投げたりなさったあなた様が、これぐらいで溺れたりなさるはずがございませんわ」
言いながら沸々と怒りが込み上げ、やめてなるものかと、何度も湯をすくってかけてやる。
「それに、わたくしのカールを踏み台になさって……きゃっ」
お湯掛け攻撃を、水面を泳いで避けていたカイルが、突然彼女の胸に飛んできた。
いつもの癖で、反射的に腕に抱え、悲鳴を上げてよろけたロゼッタは、底に尻をつく。
ぬれた胸元に引っかかるようにしてしがみついているツベルク・リッツ。
深緑の目が剣呑な光を放った。
だがぬいぐるみのような可愛らしい姿で睨まれても、怖くはない。
飼い犬の名誉の為にも負けてはいられない。
必死で怒った顔を作る。
「何が仰りたいの?」
「そなたは我のもの、他の雄の名を呼ぶな」
「お、オスって、カールは犬……」
今彼女の胸元にいる犬の竜王に、鈍いロゼッタもようやく気づく。
「あ、あの、焼きもちをやいてらっしゃるの?」
「悪いか?」
うそでしょ?
ロゼッタは目をしばたたかせた。
地上最強と謳われる竜王が、狩猟犬如きに嫉妬しているのか。
ロゼッタが狩猟犬のカールに枝を投げて遊んでやろうとしたとき、リリアンヌは何度も邪魔をしてきた。
犬を相手に竜王ともあろう人が、なんて幼稚な振る舞いをするのだろう。
そう思うとなんだか急に彼が身近な存在に思えて、ロゼッタは思わず笑っていた。
視線を逸らした刹那、影が覆ったかと思うと竜王が人の姿になっていた。
しかも素っ裸。
悲鳴を上げる間もなく、抱きすくめられる。
ぎょっと見開いたまま、ロゼッタは何も言えず固まった。
「ロゼッタ、そなたが欲しい」
艶やかな声音が耳の奥へと浸透し、痺れるような甘さに血が上る。
食べられる恐怖はもうなかった。
けれども……。
吐息をついて、頬に唇が寄せられて、
ぎゅっと目を閉じて縮み上がった。
結婚するのだ。
遅かれ早かれそういう関係になる日がくるのである。
覚悟はしている。
しているけれど……まだ許したくない。
だって、この人はわたくしを騙したのですもの。
「あなた様のもとへ、正式に嫁ぐその日までお待ちください。約束を守ってくださるのであれば、わたくしを差し上げます」
「我にまだ、指を咥えて待っていろと申すか?」
ドクドクと、これ以上はないほど鼓動が早くなる。
腕に拘束されているロゼッタには、どこにも逃げ場などない。
だけど、このままいいようになんてされたくなかった。
わたくしだって言うときは言いますのよっ!
「しょ、『生涯を賭けてそなたに報いると誓う』と、仰ってくださったではありませんか」
一世一代の勇気を振り絞った。
そんな彼女を見て、覗き込んできた竜王が噴出す。
「くっ、くくくくっ、あっははははっ」
何とか堪えようとしていたらしいが、堪らないといわんばかりに腹を抱えて爆笑している。
しかも笑いながら竜王は、再びツベルク・リッツの小さな体に戻るものだから、ロゼッタの感情が追いつかない。
何故笑われているのかもわからない。
これでは必死になった自分がばかみたいだ。
「ふっ、か、からかわれるなんてあんまりですわ」
ぽたぽたと湯に涙が零れ落ちていく。
獣毛を水面に浮かべた犬の竜王が、その真下で涙を顔に受けるように、ロゼッタを見上げる。
「からかってなどおらぬ。怖いくせに、必死になるそなたが愛らしくてな。悪かった、許せ」
湯に浮いている小さな体の下に、ロゼッタはそっと手を置いて水面に上げた。
婦人の手に収まるほどの小さな体。
しかしその中身は、生物最強の竜。
「我はそなたに誓った。ゆえにそなたを尊重し、約束を守ってやろう。ただし一つ条件がある」




