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1.逃げたくなるほど恐ろしい

「彼が友人のカイルだよ」


 婚約者が、連れてきた男性を紹介し、淑女らしく優雅にお辞儀をした。


「お初にお目にかかります。わたくしは、伯爵アルマンの娘、ロゼッタと申します」


「ああ、ロゼッタ」


 控えめだが、親しげな第一声は、長旅の果てに、捜し人とやっと出会えた旅人のような、歓喜に溢れていた。


 どこかで会ったことがある方でしたかしら。


 長身の男を見上げた。

 整った顔。それも、息を呑むほどに美しい。

 一見穏やかに見えた漆黒の双眸だが、ロゼッタはその奥に潜む獰猛な光を見た。

 刹那、ロゼッタは雷に打たれたように全身を痙攣させて気絶した。

 




「いやっ、許して! 来ないでっ」


 ロゼッタは泣き叫んで、薄暗く広い空間を逃げ回った。

 まるで必死で逃げ惑うねずみを捕らえようとする蛇のように、黒く強大な影が執拗に手を伸ばしてくる。 

 いくつもある扉には厳重に鍵がかけられ、逃げ場などどこにもなかった。

 そんなものが用意されているわけがないのだ。

 なぜならロゼッタは、食される為だけに放たれた生贄なのだから。

 

 逃げるロゼッタをすぐには捉えず、長く鋭い爪一本で追い回し、衣服を引き裂いてくる。

 散々逃げ回った挙句、摘み上げられた。

 闇の中で光る金色の二つの目に射抜かれて、恐怖のあまり身動きもできず、声さえ出せない。

 長くねっとりとした舌に乗せられ、巻き取られ、真っ暗な闇へと呑みこまれた。


「誰かっ、助けてっ!」


 伸ばした手を、両手で包むように握られる。


「ロゼッタ」


 息を乱し、何度も瞬くうちに、心配げに覗き込む婚約者の顔が見えた。


「フィリップ様っ」


 ロゼッタは彼の胸に縋りついた。

 怯える彼女を婚約者は胸に抱きしめて、長い髪を優しく撫でた。


「大丈夫だよ。僕がついている。だからもう何も怖くない」


 温かく逞しい腕にぎゅっと抱きしめられて、深い安堵にロゼッタは涙を零して頷いた。

 だが一度思い出した記憶は、ロゼッタを恐怖で支配していく。 




   ◇  ◆  ◇  ◆  ◇



  

「お父様も見当たらないし、どうしましょう」


 歩けど歩けど同じような廊下が延々と続く。

 一人彷徨い、父に会えない不安に駆られた。


 その日ロゼッタは、父のアルマン伯と共に王宮へ来ていた。

 親しい間柄でもある国王に、娘の婚約を報せるためだった。

 王宮についてから、二人は談話室に通され、出された紅茶を飲みながら、謁見の時間まで待つことになった。

 二人が他愛もない話をしているところに、政務補佐官であるアルマンの同僚がやってきて、父を連れて行ってしまった。

 一人残されたロゼッタは、しばらく待っていたのだが、一向に戻る気配のない父を案じ、部屋を出た。

 舞踏会や茶会などで、王宮には何度か訪れていたが、屋敷とは違い、王宮の敷地は広大だ。

 建物の中は、まるで迷路のように入り組んでいる。

 覚えるのは至難。

 迷う自覚はあったが、不慣れな場所にひとり残されるのは心細い。

 父がどこにいるのかを確めたら、指定された談話室に戻ろうと決めて、廊下の角を曲がった。

 薄暗い廊下を抜けると、その先には花の咲き乱れる庭が広がっていた。


「まあ、なんて美しいの」


 薔薇だけでも数種類はあり、多種多様の花々が植えられていた。

 一流の庭師たちが手間隙かけて育てたのだろう。大輪の花を咲かせている。

 花の美しさに目を奪われて、ロゼッタは庭に降りた。

 時間も忘れて魅入っていると、はたと、ここへ来た目的を思い出す。


「いけない、戻りませんとっ」


 父を探しに来たはずが、逆に自分が待たせることになってしまう。

 下手をすれば、国王の家臣が謁見の時間を告げに来ているかもしれない。


 多忙な国王陛下をお待たせすることにでもなったら……。


「どうしましょう、大変っ」


 慌てて廊下へと戻り、来た道を辿るが、案内された談話室が見当たらない。

 焦燥に駆られて視線を彷徨わせていると、背後からすうっと腕が伸びてきて、そっとロゼッタを包むように抱きしめた。

 ロゼッタは、萎れた花が水を得て再び咲き誇るように顔を上げた。


「お父様……」


「やあ、ロゼッタ」


 色気のある低音。

 見るものを一瞬で虜にするような美貌。

 以前、婚約者のフィリップに紹介された男がそこにいた。

 ロゼッタの身体は、一瞬で凍りつく。

 そうすることがまるで当たり前のように、頬に手が添えられて、極自然な動作でロゼッタの唇に、彼のそれが重ねられる。

 柔らかな感触に触れられて、ロゼッタの身体はガタガタと震え出した。

 抱きしめられてキスをされただけだ。

 何よりここは廊下の真ん中で、人気がないとはいえ、大声で叫べば直ちに衛兵が駆けつけてきてくれるだろう。

 声をだそうとして、しかしロゼッタは叫ぶことも、逃げ出すことも、怯えるあまりできなかった。


 消しきれずに漂う闇と、漆黒の瞳の中に潜む獰猛な気配。

 生まれる前の記憶が、鮮明に思い出させる。

 

「お、お見逃しください、竜王陛下」 

 

 麗しすぎる顔が満足げに微笑む。


「そなたに、人の姿を見せた覚えはないが。我に気づいたことは褒めてやろう」


 目に涙を溜めて半泣きになりながら許しを請うが、竜王は意に介さず、それどころか愉しむように腕に力を込めて、細腰を強く引寄せた。

 人の姿をした竜。 

 それが彼の正体だ。


 ウィルディーチ王国の中央には、人も獣さえも踏み入れぬ深い谷がある。

 その谷に、人が地上に誕生するよりも遥か昔から竜が住んでいた。

 強大な魔力を有し、食物連鎖の頂点に君臨する至上最強生物だ。


 今からおよそ五百年前、ウィルディーチは他国の侵略を受け、滅亡の危機に直面した。

 国の存亡を賭け、国王は竜族の長に供物を捧げ助けを求めた。

 供物には百人もの若い娘が集められ、そのほとんどは貧しい農村から集められた。

 竜王は一夜にして敵国からウィルディーチを守り、差し出された供物を残らず平らげた。その中にロゼッタも含まれ、例外なく食されたのだ。


 怯えて震え上がるロゼッタを、竜王は目を細めて微笑む。


「案ずるな、そなたを二度も殺しはせぬ」


「我もそなたのことはよく覚えておるわ。以前とは多少姿は異なるが、そなたの我を誘う芳香は少しも変わらぬ」


 間近で見る竜王の双眸が、漆黒から金色に染まる。 

 忘れもしない。狙った獲物を捉える捕食者の目に、生々しい舌の上に乗せられた感触。

 ぶるりと震え上がって全身が粟立つ。 

 ロゼッタは混乱する頭で逃げ道を探った。 


「と、殿方を誘うような香水などつけておりませんわ」


 香水自体つけてはいなかった。


 長い指先がロゼッタの唇に触れる。


「そなたに余計な匂いをつけさせぬように、(われ)がフィリップに命じたのだ」 


「そ、そんなっ」


 ロゼッタの瞳がゆっくりと見開かれる。

 フィリップに香水をつけないように頼まれたのはほんの三日前のことだ。

 愛する人の願いと信じてやめたわけだが、婚約者でもない男からの注文であったとはっ。それを婚約者本人に言われたとなると、裏切りに等しい。

 竜王の指がロゼッタの髪に伸びて、美しく結い上げた留め具を外す。

 蜂蜜色の長い髪が、広がって流れるように落ちた。

 汗の匂いが混ざった香油の甘い香りが漂う。


「香油も禁じる。芳しいそなたを愛でる妨げにしかならぬ」


 な、何をおっしゃってるのっ?


 漠然と嫌な予感を覚えた。

 仮にもロゼッタは伯爵令嬢だ。

 相手が誰であれ、非礼にも限度がある。

 足が震え、声が震える。

 婚約者を想い、これだけは言っておかなければならない。


「わ、わたくしはフィリップ様の婚約者ですわ。ご友人でいらっしゃるあなた様に、そのように仰られるいわれはございませんっ」


 竜王は嘲るように笑むとすっと身を離した。そしてロゼッタの緑玉の双眸を見つめると、彼女から奪った髪留めに口元を寄せた。

 ロゼッタに見せ付けるように、はめ込まれたエメラルドの宝石に口づけたのだ。


「五百年前よりそなたは我のもの。迎えに来た、我が花嫁よ」


 何が、花嫁なのか。

 微笑む金色の瞳は、どこまでもロゼッタを呑みこんだ捕食者のもの。


 食べられる、……また。


 ロゼッタは、一歩足を退くと、ドレスの裾を両手で掴み背を向けた。

 脱兎の如く全速力で逃げだす。




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