きつねのジェシー
朝の散歩はきりこの日課だ。
朝じゃなくてもきりこは散歩をするのが好きなのでよく歩く。
今朝も早起きしてひとりで散歩に出た。
だわさは寝ている。
きりことだわさの家は海沿いにあるが、海の向かいはたくさんの森が広がっている。
きりこは気分で海沿いを歩く時もあるし森の中を散策することもあった。
風の音を聞きたい時は海辺を歩くし、森の鳥たちのおしゃべりを聞きたい時は森を歩く。
今朝はうっすら霧であった。
ぼんやりとした視界の中ゆるゆるとした風が吹いてきた。
きりこはぶらりと霧の中を歩いてみた。
そして今朝は、湿った空気が漂う森を歩いてみることにした。
森の中はいつもの鳥たちのおしゃべりもなく、どこか遠くからパタパタと羽音がしたりするだけだった。
シンとして白い世界。
きりこの立て髪がしっとりと濡れた。
しばらく歩くと大きな木の茂みがカサカサと揺れた。
そこには先ほどから話しかけるタイミングを待っていたのに、歩いてきたきりこに今、気付いたという顔でこっちを見ているスラリとしたキツネがいた。
「や、これは。朝早くから、散歩かい?」
キツネはシュとした顔で、とても澄んだ目をしている。
足を止めてきりこは答えた。
「やあ、おはよう。朝の散歩は日課なんだ。この森もよく歩いているけど、君を見るのは初めてのようだ。」
「そうだね、普段は鳥たちのおしゃべりがうるさくて朝はいやしないよ。今日は特別なのさ。」
キツネは森の木々を見上げるように頭をぐるりと回した。
「特別?今朝の森は普段とは違うね。神秘的な気がするよ。」
きりこも周りをぐるりと見回した。
「そうさ、特別。こうしてあんたと話ができるんだからね。」
キツネはそういうと、自分の前にある木の葉っぱをプチリとちぎった。
それは、このふたりの会話をすぐに終わらせる気などないと表しているようだった。
「ふむ。もしかして、君は前から僕のことを知っていたのかしら?」
きりこも別に目的があって歩いているわけではないのでこの一見変わったキツネのおしゃべりに付き合ってもよかった。
「まさかまさか!」
キツネはちぎった葉っぱを顔の前でヒラヒラとさせて見せ、続けた。
「そんな誰もが自分のことを知ってるだなんて、そんな高慢な考えはよくないぜ。あんたが頭の良い翻訳家だとして、呑気なうさぎと暮らしてるなんて!もし近所の森では誰でも知ってることだとしても、俺はナーンにも知らないな。」
そう言うとキツネはその場で一回ぴょんと跳ねて見せた。
「ふむ。そうだね。その通りだ。ところでさ、この霧なんだけど、水滴という意味では雲と同じなのに低い場所では霧という。僕は空に浮かぶ雲を見てもっと違うものだという期待を持ってしまうな。」
きりこの言葉をじっと聞いていたキツネは言う。
「期待だって?どんな期待をするか、とかは聞かないよ。」
キツネの顔は大人に見えるが、子どもにも見える。
若い、そして端正だった。
だから、話す言葉はどこかひねくれて聞こえるが、表情はどこかきょとんとした感じで、不思議な感じだった。
いたずら好きか信じたいか。
「ねぇ、どこにでも行けるって、どう思う?」
キツネは毛の表面に付いてしまった水滴を払うようにブルルと体を動かした。
霧は変わらず濃いままだ。
「そうだなぁ。」
きりこは言った。
森の木々はしっとりと濡れている。
ときどき、どこからか「ケ、ケ、ケ」と何かの鳴き声が聞こえた。
「いつでも、どこにでも行ける、だから自由でいられるんだ。それがわかっているから、ここで安心していられる。もちろん物理的なことじゃなくね。」
それを聞いてキツネは、
「そうさ、そうさ!どこへでも行けるのさ!まるで壁を通り抜けられるかのようにね!」
と嬉しそうに言った。
高い木々の間から朝日が差し込んできたのか、周りはいっそう白く霞んだ。
その中でキツネの声は続いた。
「でもね、時にそれが崩壊するのさ。自由なはずなのに、自分が自由だったことすら忘れちまって、それすらもできなくなっちまうのさ!」
最後の方は、晴れてゆく霧とともに薄く響きながら森の中に消えてしまった。
先程まで白かった森の中はすっかり視界が広がり、さっそく鳥たちがおしゃべりに集まって来ていた。
きりこは高い木の上を眩しそうに眺め、さっきまでキツネがいた方へゆっくりと視線を戻して
「またね、ジェシー」
と言った。