会社不適合型人間の話
真人はクビになった。
いや、いまの現在では、コンビニエンスストアで労働を始めているのだから、元クビになった人、という言葉が適切だろう。
小中高と秀でたものも特に無く成長し、私立の大学へ進学し、よくわからない小さな企業の内定をもらったのは、去年の十月頃だっただろうか。
早めに取った内定で家族は喜び、行き先が決まった真人自身も安堵していたが、四月になって入社してみると、しっくりいかずに戸惑った。
職業としては浄水器を売る営業マンで、入社して早々、先輩につれられて外回りをしては、会社に帰ってくれば小さな事務をこなすという平凡な仕事だったが、どういうわけか、真人は馴染めなかった。
上司から散々言われた、「営業マンなら、売り込む商品に徹底的に惚れていなければならない」という言葉も上手く飲み込めず、
そもそも、普通に生活していく上で必需品となるわけでもない浄水器を売り歩かなくてはならない意味もよくわからず、
あくせくと色々な家庭や中小企業の事務所を訪問して、わざわざ浄水器の契約を結ばなくてはならないのかもわからずじまいだった。
「営業マンが惚れるくらい素晴らしい浄水器なら、こちらから売り込みに行かなくても、口コミで広がって勝手に売れるんじゃないんですか。」
なんとなく、上司にそう聞いたのが間違いだった。
明らかに顔をしかめた上司の表情に気がつかず、さらに真人は言い募った。
「そもそも、営業マンって、人の家庭に乗り込んでいって、1時間や2時間、商品の事ばかりしゃべって、
ご家庭の大切な時間を削り取ったあげくに、ちょっと無理矢理な感じで契約を取って、その成果を自分の給料に反映させる仕事ですよね。
汚れ役というか、なんというか、会社内でもあんまりいい仕事じゃないのではないですか」
別に真人は上司に嫌われたいわけでも、商品の浄水器にケチをつけるわけでも、営業マンを否定しようとしたわけでもなかった。
ただ純粋に、人生ではじめての<仕事>に対しての疑問を、ぶつけただけのつもりだった。
営業マンの定義と、浄水器を歩き回って売るという事業展開のメリットを確認したかった。
右も左もわからない新卒の自分が持った素朴な疑問に、上司は答えてくれると、真人は素直に考えていた。
なぜなら今までの学生生活で、わからない事に対して質問をすれば、教師が何かしらを答えてくれたからだ。
会社に教師はいないが、上司が部下を育てるもの。
上司は部下の素朴な疑問にも快く応じ、溜飲の下がるような答えを教えてくれると、真人は盛大な勘違いしていた。
当然、真人の率直で失礼な質問は、当人には全くその気がなかったのだが、上司を怒らせることとなる。
「いつまでも学生気分でいるんじゃない、生意気な」
低い声で上司に言われ、あれ、と真人は思った。
なんで上司は怒っているのだろう。
その次の日から、会社の中で真人の居場所がどんどん狭くなっていくような錯覚を覚えた。
今思えば錯覚ではなくて、現実だったのかもしれない。
外回りに連れまわしてくれていた先輩が、違う新卒と一緒に出かけるようになり、真人は会社に取り残されるようになった。
作成した書類を、事務や経理に提出すると、「ここが違う」「あれが違う」「あの人に聞いて」と、何故かたらいまわしにされるようになった。
会社に出社しても「今日の予定」の社員ボードに書く内容がなんとなくなくなり始め、
気がついたら一日デスクに向かって、表計算ソフトの画面をいつまでも見つめているような日が続いた。
初めての就職、初めての職場で、何が正解なのかもわからず、「何か変だ」と思いながら1ヶ月が過ぎた頃にはなんとなく「クビ候補なのかな」と思うくらいにはなった。
そして、息子の就職が滞りなく決まって喜んでいた母親に、「もしかしたらクビかも」と言うことができず、
まだ大学生活を謳歌しすぎて家に帰ってこない弟に、「兄貴がクビになったらどう思う」と聞くことも出来ず、
既に他界している父の位牌に、「父さん、会社でこういう扱いされているのが、いわゆる<窓際族>ってやつですか」と聞いて返事が返ってくるわけでもなく、
結局、真人は、家族の誰にも相談することが出来なかった。
友人に聞こうかとも思ったが、そういえば、そういった類の疑問や悩み事を打ち明けるべき友人といえる人物がいたかどうか、考えてみれば怪しいものでもあった。
自分は孤独な人間なのだろか、と首を傾げたが、孤独は感じていないので大丈夫だろう。
とりあえず、自分が会社に必要でない人間になってしまったのかが気になったので、真人は上司の真意をはかることにした。
上司に「僕はクビですか?」と聞いて、また機嫌を悪くされても嫌なので、
インターネットで辞表の作り方を検索し、その通りに作って、上司に提出してみることにする。
真人が会社に必要な人材であれば、ドラマの台詞よろしく「これは受け取れない、君が必要なんだ」と言われるだろう。
なんとなく、そうはならない気がしていたが。
「給料の締め日までは居ていいよ」
<辞表>と筆ペンで書いた白い封筒を上司の机に差し出したら、そんな事を言われた。
なんでも、経理や人事の手続きで、締め日まで在籍してもらった方が書類のやり取りが楽なのだそうだ。
要するに「これは受け取るけれど、締め日までは君が必要なんだ」ということらしい。
カレンダーをみる。
給料の締め日は明日だった。
明日までの一日しか必要でない自分は、会社にとっていったい何なのだろうと、ぼんやり思った。
就職してから二ヶ月も経たない、まだ五月の最中に、五月病を迎えることなく、真人は会社から出て行くことになった。
締め日にきっちり出社し、交通費や経費の清算で事務や経理が慌しくしている社内で、真人だけがのデスクを一通り片付け、
メールやファイルの履歴をパソコンから消去し、普通に定時に帰った。
きっと、同僚も先輩も上司も、真人が会社を辞めたことに気がつかないのだろうなと、頭によぎったが寂しくはなかった。
こんな考え方だから、会社をクビになったのだろうか。
そもそも、あの会社で自分は何をしたのだろうか。
働くとはなんなのだろうか。
そんな事を考えながら、まだ新しさが残っている革靴を鳴らして夜道を歩く。
社会に適合できないタイプの人間というものを聞いたことがあるが、
自分は特に精神的な疾患も、凶暴な性格も持ち合わせていないし、自分の能力に限界を感じて挫折した覚えもない。
多分、自分は社会不適合者ではないのだろうと思う。
「会社に不適合だったのかな」
真人は少し考えて納得する。
社会に溶け込めないのは危なっかしいが、
ひとつの会社だけにに溶け込めなかったのだったら、まだ救われる気がする。
「社会」をひっくり返して「会社」にするだけで、心が休まるとは、日本語はとても便利に出来ているものだと感心した。