家出少女と放浪少年
まだ少し肌寒い、春のことだった。
麗らかな春の日差しが部屋全体に差し込んでいる。
その部屋にあるパステルカラーでまとめられた家具は光を受けて輝いていた。
床には雑誌や食べ終わった菓子の袋などが散在している。
そして、ドアに吊り下げられたプレートには、『有紗の部屋』と書かれていた。
コンコン。
そうドアをノックしたのは、有紗の母親だった。
掃除機を片手に、どうやらこの部屋を掃除するらしい。
コンコン。
なかなか応答が無いため、何度もノックを繰り返す。
しかし、返事は無い。
「有紗?入るわよ?」
ついには声を上げた。それでも返事が無い。
母親は少し頭にきて、思いっきりドアを開けた。
「有紗!……あら」
そこに有紗は居なかった。
変ねえ、どこ行ったのかしら。
そう言った様子で母親は部屋を見渡した。
遊びにでも行ったんだろう。掃除をするには丁度良い。
そう思い、母親は掃除機のスイッチを入れた。
部屋が段々と片付いていくと、母親は、窓の近くの
小さい箪笥の上に何かのメモらしき物を見つけた。
何だろう、と不思議に思って、それを覗き込んだ。
そこにはこう書いてあった。
『お父さん、お母さんへ。
少しの間、家を出ます。
ちゃんと帰ってくるから、心配しないでね。 有紗』
母親は目を瞠った。
そして、何度も読み返した。
やはりそこに書いてあることは同じだった。
「有紗……!」
母親は青ざめ、掃除機をその場に落とした。
そして、夫のもとへと走った。
「お父さん、有紗が……!」
部屋は夕日色に染まっていた。
夕暮れの商店街を有紗は歩いていた。
リュックサックを背負い、黒髪を高くポニーテールにしている。
行くあてが無いようだ。その証拠に、先程から同じ所をぐるぐる歩いている。
その顔は何処か悲しげで、時折、溜息をついては空を見上げる。
そんな繰り返しだった。
こんなところに居たら、見つかるかな。
有紗は思い立ったのか急に進行方向を変えた。
夕日の差す方へと向かっていく。
ぎゅっと唇を噛んだ。
少しくらい、逃げてもいいよね。
有紗は立ち止まり、また空を見上げた。
カラスが何羽か飛び交い、赤い空に映えた。
しかし夕日が目に沁み、思わず下を向いた。
買い物帰りのおばさんが自転車を走らせている。
魚屋の威勢の良いおじさんが一生懸命にお客を口説いている。
子供が駄々を捏ね、それを叱っている親が居る。
学生達がふざけながら歩いている。
そんな中を、有紗は歩き出した。
「お父さん!有紗が……どうしましょう……」
一方有紗の家では、父親を前にし母親が取り乱していた。
母親は涙ぐみ、今にも泣きそうだったが、
対照的に父親はメモを睨み、くだらなそうにしている。
「……放っておけば帰ってくる。そう書いてあるだろう」
「でも……!」
「黙れ。放っておけば良いんだ」
「……っ」
父親はぐしゃっとメモを握り締めた。
あなたのせいかもしれないのに、と父親を恨んだ。
母親は力なくその場に座り込んだ。
「心配じゃないんですか……?」
母親の精一杯の力だった。
父親は今度は母親を睨んだ。
「くだらない。子供の遊びはやらせておけばいいんだ。
どうせこれから嫌でも現実を見る」
そう言った父親は何処か投げやりで、
いつもに増して苛々(いらいら)しているようだった。
それ以上、母親は何も言えなかった。
有紗の向かった先は土手だった。
土手で野宿することも考えていた。
ここしか、行くあてがないのだから。
歩いてすぐ、土手に着いた。
有紗はサイクリングロードに登った。
そこから川を見ると、思わず溜息が漏れた。
まだ沈まない夕日が水面に反射し、輝いている。
それが綺麗で、全てを浄化してくれそうだと思うくらいだった。
実際は、そんなこと無いのだけれど。
有紗はコンクリートから自然の芝生へと入った。
そして、川がよく見える釣り堀まで行くと、座り込んだ。
川みたいに流れちゃったら良いのに。
それが出来ないからここにいるんだ。
風が吹いてポニーテールが揺れる。
自然と涙が溢れてきた。
この光景を有紗は幾度も見た。
しかしそれは思い出すだけで有紗の心を痛める要素に過ぎなかった。
有紗は日が沈むまでそこにいた。
日が沈むと、川の水がすっかり空になってしまったような気がする。
見ている意味がない気がして、ようやく有紗は動いた。
寝泊りする場所を探さなくてはならない。
心の何処かに仕舞っていた課題を思い出し、有紗はとぼとぼ歩き出した。
大橋の下まで辿り着き、もうここでも良いかな、と思ったときだった。
放置された家電の山がある。
有紗は近づいた。
なんとなく、引き付けられたみたいだった。
そこには、もう原形を留めていないテレビや冷蔵庫、車があった。
もう使えない物ばかりだ。
……まるで、私みたいに。
ふと何かが動いているのが見えた。
カラスかな。
有紗は少し後退りした。
次の瞬間、ひゅっとそれが有紗の前に飛び出した。
「きゃっ!」
それはカラスではなかった。
黄金に光る目、首輪に付いているのだろう目と同色の鈴、闇色の体毛、長い尾。
目が慣れないとなかなか分からないが、普通の黒猫だった。
有紗の心臓はまだおさまらない。
それは、急に飛び出してきたせいだけではなかった気がする。
すぐに何処かへ行くだろう。
有紗はそう思っていたが、その黒猫は動かなかった。
それどころか、有紗を見つめている気さえする。
黒猫は近寄ってきた。
元から猫の好きな有紗は、しゃがみこんで撫でようとした。
その時だった。
「どうしたんですか?こんな時間に」
有紗は辺りを見回した。
もしかしたら、警官かもしれない。
でも、それにしては若い、若すぎる……子供の、少年の声だ。
聞き覚えがある、懐かしい声。
少しドキッとして、泣きそうになった。しかし、ぐっと堪えた。
警官でなければ、この黒猫の飼い主か。
首輪をしているし、捜していても変ではない。
しかし、人影は見当たらない。
おかしいな、幻聴だろうか。
「ここ、ですよ」
有紗はまた周りを見渡した。
やはり、誰も居ない。
少しずつ、有りもしない考えが有紗を襲う。
有紗は黒猫を見た。
「僕ですよ」
有紗は目を瞠った。
猫の口が、声に合わせて動いたのだ。
「え……?え、ええ?」
有紗は混乱した。
有りもしない考えが、現実となる。
猫が、紛れもない猫が、喋っている。
しかも心配までされた。
一体どうなっているんだろう、夢でも見ているのだろうか。
有紗は頬を抓った。痛い、痛い。
「信じられないのも無理ないですけど……」
「え……な、何者……?」
有紗は混乱しながらも訊いた。
黒猫はコホンと咳払いのようなものをして、言った。
「僕はリオと言います。一応、ロボットです」
ロボット。リオ。有紗はドキッとした。
有紗はロボットと言えばカクカクした金属を纏ったものを想像していたが、
目の前の現実にあっさりとそれは覆された。
ロボットだったら、納得できるような、できないような。
科学は進歩したね、としか言いようが無い。
「ロボット……って、喋れるの?」
猫型のロボット、と言えば無論あの漫画を思い出すが、
それは漫画であるからだ。
猫だったら、普通は喋りはしないだろう。
しかも、能弁だ。
「はい、色々とありまして」
「は、はぁ……」
リオは笑ったように少し目を細めた。
少し、はぐらかされた気もする。
「あなたはどうしたんですか?」
「え、……私?」
予想もしなかった質問に思わず戸惑った。
心臓の鼓動がまた早くなる。
有紗はごくりと唾を飲んだ。
「私は……家出、してきたの」
少しリオの顔が歪んだ気がした。
ロボットと言えど、感情はあるようだ。
「いいんですか?」
そんなことして、とリオが言った。
有紗は一瞬ためらい、頷いた。
「……いいの」
そしてまた、有紗は空を見上げた。
それ以上リオは何も訊かなかった。
「……そう言えば、寝るところ探さなきゃ」
有紗はリオを見たが、独り言のように呟いた。
リオは有紗を不思議そうに見上げた。
「ここで寝泊りするんですか?」
「……うん、行くあてもないし」
「そうなんですか……」
リオは少しの間俯いて、顔を上げた。
「名前、なんていうんですか?」
「有紗。有紗だよ」
「有紗……さん。あの、僕も、ついて行っていいですか?」
『有紗さん』。胸の奥が軋んだ。
しかし、今はリオの意外な質問の方に驚いた。
どうしてそんなことを言うのかは分からない。
だけど、一人だったら、少し心細かった。
リオとだったら、強くなれる気がした。
有紗は微笑んで言った。
「いいよ!」
リオの顔からも笑みがこぼれた気がした。
二人――正確には一人と一体は大橋の下の、
小屋のようになっているところで寝ることにした。
その小屋の部分は草木で覆われていて、一目見ただけでは分からない。
二人は草を掻き分け、小屋に入った。
「うわ……」
ドアを開けると、壊れた椅子やらテーブルが散在し、
天井には蜘蛛の巣が張っている。
かろうじて開けられたが、このドアも今にも外れそうだ。
この有様にぞっとしながらも、ここしか泊まる所が無い。
いっそのこと草むらで寝ようかとも思ったが、夜になり風が出てきた。
春といえど流石に寒い。
有紗は意を決し、散在した椅子やらを片付け始めた。
リオも少しながら手伝ってくれている。
その姿は妙に愛らしかった。
喋る猫というのは初めて見たからこそ奇妙なもので、
慣れてしまえば可愛い。
まだ床に埃が残っているものの、
有紗はリュックから寝袋を取り出した。
物置にあったものなので、あまり綺麗ではないが我慢することにした。
「おやすみなさい、有紗さん」
「うん、おやすみ」
そう言えばロボットは眠るのか。
そんなことを考えながら有紗は眠りについた。
『有紗!どうしてお前はこうなんだ!』
怒鳴りちらす父親の声。
有紗はその前に下を向いて正座していた。
『あなた、やめてください!有紗はあの状況で頑張っていたんです!』
母親が有紗をかばうように前に出た。
有紗はその言葉を聞き、涙が溢れた。
『黙れ!俺の子として恥だ!』
父親は二人を凄い剣幕で圧倒する。
有紗は泣くことしか出来ない。
母親も、そのかばう手は震えていた。
その日は一晩中そうだった。
明け方に父親が仕事場に行ってからも、有紗は動けなかった。
母親の宥めも、あまり聞こえていなかった。
心の中では、父親への愚痴ばかりが零れていた。
何が、『俺の子として恥』だ。
親は子供を選べないし、子供は親を選べない。
そんなこと、分かっているはずでしょ。
だったら重荷を乗せないでよ、あなたと私は違うんだから……。
私の気持ちなんて、誰にも分からないのに。
どんな気持ちで、過ごしてきたと思ってるの……?
「……有紗さん?」
有紗ははっとした。
頬がすうっとする。そっと頬に触れると、涙だった。
ドアの隙間から、日が差し込んでいる。朝だ。
「有紗さん、うなされてましたよ……大丈夫ですか?」
「……うん、大丈夫……懐かしい夢、見ちゃって」
「そうなんですか……」
有紗はそっとリオを抱きしめた。
ロボットなのに、毛がふさふさして温かい。
体もまるで本物の猫みたいにしなやかで、また涙が溢れた。
リオは大人しくしていた。
「……あなたは……なんであそこにいたの?」
有紗が静かに口を開いた。
リオは有紗を見上げ、言った。
「僕は、出来損ないなんです。だから、捨てられた。
だけど電源が切られてなくて……今に至るんです」
「そうなんだ……一緒だね」
「何がですか?」
「……出来損ない、だから」
有紗は笑顔を作った。
誰もが見てわかるくらいに顔が引きつっていたが、リオは触れなかった。
そんなリオが優しくて、会話をするたびに苦しくなる。
声が、体が、あまりにも似すぎていて……。
有紗がまた泣いていたのが分かったのか、リオはそれ以上何も言わなかった。
有紗の嗚咽は続く。
そんな中で、リオは口を開いた。
「……でも」
ぴく、と有紗の体が震えた。
「出来損ないでも、僕は良かったです」
「……なんで……?」
「だって、有紗さんと会えたから」
リオはさらっとそう言った。
しかし有紗にとってその一言は心に響くものだった。
有紗は再度リオを抱きしめた。
リオは、神様がくれたプレゼントかもしれない。
全てを失った私に、元気をくれた。
まだ胸の奥が軋むけれど、これは『リオ』だ。
紛れもない、『リオ』なんだから。
有紗は暫く抱きしめていたが、
ふと喉が渇いていることに気づき、リオを放した。お腹も空いた。
そんなこと、今更気づくなんて自分でも可笑しく思った。
しかし昨日は家にあった菓子パンだけしか食べていないから、無理もない。
「コンビニ、行ってくるね」
「着いていきます」
「動物禁止だと思うけど」
「……じゃあ、待ってます」
リオはしゅんとしたように下を向いた。
そんな仕草も、可愛く思える。
「早く帰ってくるから、ね?」
その言葉にリオはこくんと頷いた。
有紗は小屋を出て、昨日通った道を歩き出した。
土手から離れ、商店街の一角のコンビニへと入った。
「いらっしゃいませ」と店員が愛想良く言う。
誰だって、仮面を被らなきゃやってられないんだ。
そこの時計は七時四十分を指していた。
時計を持ってこなかったので、そこで初めて時間を知った。
どうりで街中にスーツ姿の人や学生が多いわけだ。
有紗は菓子パンと炭酸飲料を手早く取り、レジに並んだ。
空いていたのですぐに会計は済み、ビニール袋を提げて外に出た。
その時だった。
「あれ……?有紗?」
有紗はドキッとした。
声の方に振り返ると、中学の友達――あまり親しくなかったが――桃子だった。
真新しい制服に身を包んでいる。
「わー、卒業式ぶりだね!」
「う、うん……」
「どうしたの?こんな時間に?」
「ちょっと、買い物……」
ふうん、と桃子はビニール袋を覗き込んだ。
そしていかにも嬉しそうにこう言った。
「あたし、今日が入学式なの!」
『入学式』――有紗の鼓動が早くなる。
「有紗は、まだ?」
――『有紗は、まだ?』
その桃子の言葉が心の中でエコーした。
有紗は思わず下を向いた。
「そう言えば、どこの高校なの?……有紗?」
有紗は下を向いたまま、泣いていた。
その様子に、桃子ははっとした。
「まさか有紗――」
有紗は腕を掴もうとした桃子をすり抜け、走り出した。
全速力で、何も見えていない、見ようともせずに走った。
信号で止まると、一瞬心臓も一緒に止まり、鼓動が早くなる。
息が苦しい。桃子はもう見えない。
涙はただ溢れるばかり。
信号が青に変わった。
また有紗は走り出した。
あの声が聞きたい。あの体を抱きしめていたい。
私のたった二つの癒しを、また神様はくれたのだから。
土手のあの小屋に着いた。
少しの距離のはずなのに、それは歩くよりも長く感じられた。
有紗は今にも壊れそうなドアを勢い良く開けた。
しかし、そこにリオの姿は無かった。
「……リオ?」
一瞬、また心臓が止まった気がした。
「リオ!リオ!?」
有紗は我を忘れて叫んだ。
辺りを見回しても、それらしきものは見当たらない。
有紗は力なくしゃがみこんだ。
「……どうして……神様は……私の大切なものを取っていっちゃうの……?」
大切なもの。
何よりも勇気や希望を与えてくれた。
親とか先生の説教なんかよりも、もっとずっと為になる、存在。
その柱が失われたから、全て倒れちゃったんだ。
親とか先生の期待が圧し掛かって、潰れるくらいの不安の波が襲う。
そう、そうだったんだ。
「有紗さーん!」
有紗の体が震えた。
――梨緒。
忘れられない、忘れようとしても出来なかった、その声。
声の方に振り向くと、リオが川のテトラポットの上にいた。
安心したような、少し残念なような。
変な感覚に見舞われ、おかしくなりそうだった。
「僕はこっちにいますよ!」
有紗は涙を拭って立ち上がった。
立ち眩みが襲い、倒れかけたが、壁に何とか掴まり体制を立て直した。
リオの黒い毛が朝日に反射してきらきら輝いている。
そこに居たんだね、リオ。
有紗はおぼつかない足取りでリオの元へと向かった。
そしてテトラポットまで来て、腰掛けると、リオを手招きして膝の上に呼んだ。
リオは素直に従った。
「私ね、いろんな物をなくしたの」
リオの目が光に反射して輝いている。
それは目が潤んでいるようにも見えた。
有紗はリオを抱きしめた。
「はじめに、いとこと飼ってた猫。それから、頑張ろうって思う力。
最後に、親の信頼……」
有紗はリオを抱く手を緩め、ぎゅっと唇を噛んだ。
「わかんないか、リオには……」
「……わかりますよ。何かをなくしたら、どんなものでも誰だって悲しいです」
どんなものでも、悲しいかな。
親の信頼なんて、初めからいらなかった。
だから、悲しくない。
でも、違う気がする。
本当にいらなかったら、なくしたとき辛いのかな。
辛いなんて思わないで、むしろ喜ぶくらいなのかな。
だったら、私は、本当は――……。
「……リオ、リオは、どこで作られたの?」
「僕ですか?僕は――」
そこでリオの言葉は途切れた。
膝の上の温かい感覚がない。
代わりに、音とともに冷たい水しぶきが上がった。
有紗は頭を殴られたような衝撃を感じた。
リオが、川に落ちたのだ。
「リオ!リオ!!」
有紗は青ざめ、川に流されていくリオを追いかけた。
しかしテトラポットの上はとても走りにくく、川の流れはゆっくりに見えて速かった。
追いつけない。
本当に、神様は意地悪だ。
どうして、こんなに大切なものを奪おうとするんだろう。
ドボンッ!
有紗は川に飛び込んだ。
無我夢中で水を掻き分け、必死でリオに追いつこうとする。
しかし川は深く、水は重く冷たい。
胸くらいまで水がきている。
リオだけは助けたかった。
少し前の、去年の夏だった。
『お姉ちゃん、遊んで〜?』
学校から帰ると、まだ幼い顔が出迎えた。
いとこで小学一年生の男の子、梨緒。
おばさん夫婦が色々な事情で梨緒の面倒が見られなくなったらしく、
数ヶ月前に家に来た。
子供が好きで、保育士を目指していた有紗にとって、
疲れたときに癒してくれる存在だった。
しかし、ただでさえストレスが溜まるこの時期だったのだ。
今更悔やんでも、遅いのだけれど。
『ちょっとお勉強しないといけないから……ユキと遊んでて?』
有紗は受験生と言う名の中学三年生。
夏本番で勉強に追われていた。
ユキと言うのは白い体毛からその名が来た猫である。
中学入学時から飼っている、家族も同然であった。
『やだ、遊びたい!』
梨緒が珍しく今日は駄々を捏ねた。
いつも少しカタコトの敬語も、今日はなかった。
本当は有紗だっていつまでも遊んで居たいけれど、そうも言えない。
『だめ、お勉強しないといけないの!』
『やだ、遊ぶ!』
なかなか退かない梨緒に、段々と怒りを覚えた。
『言うこと聞きなさい!!』
有紗は怒鳴った。
梨緒はビクッと震え、しゅんとして、ユキを抱えて何処かへ行ってしまった。
梨緒はきっと母親に構ってもらっているだろう、と思っていた。
てっきり有紗は母親がいるものだと思っていたのだ。
『きゃああああっ!!』
誰かの悲鳴が聞こえたのはそれから十分も経たなかった。
何事か、と思い、有紗は外に出た。
そこには、血まみれになった道路に最愛の二人が倒れていた。
それから有紗は自分を責めた。
あそこで遊んであげれば、二人が死ぬことはなかった。
二人はボール遊び中に車に撥ねられたと聞いた。
梨緒が転がしたボールを、ユキが追いかけ、それをまた梨緒が追いかけたのだろう。
その光景を想像すると胸の深い傷がまたえぐられる。
当然、勉強なんて手につかなかった。
一時は学校にも行けなくなった。
それほどに苦しかった。
そんな有紗を父親は叱った。
『そんなことで高校に行けると思っているのか』と毎晩のように言われた。
分かってるのに。気持ち考えて欲しい。
そんなこというから、ますますやり辛くなる。
縛られるのはいやなのに、縛られないとまだ生きていけなくて。
そんなどうしようもない日々が続いて、高校にも受からなかった。
父親はそんな有紗をもっと叱った。
毎日が嫌で、少し家を飛び出してみたんだ。
まだ一人じゃ生きれないけど、背伸びして、
『私はもう平気だよ』って、親でも先生でもなく、
自分に言いたかったんだ。
風に煽られ、川の流れが早くなった気がする。
もう追いつけない、そう思った時、まさに不幸中の幸いと言うべきか。
リオが川岸から生えている木の枝に引っかかったのだ。
有紗は息を切らしながら、そこに追いついた。
そしてすっかり濡れている、ただの機械となったリオを掴んだ。
揺すっても、軽く叩いても、やっぱり動かない。
リオを抱きかかえ、草の上に上がった。
水を含んで、服がかなり重たくなっている。
そんなことよりも、リオをどうしよう。
有紗はリュックを背負い、ぎゅっと唇を噛むと歩き出した。
万に一つの可能性に、賭けるしかない。
「有紗?!どうしたの、びしょ濡れで……」
向かったのは自分の家だった。
母親が目を丸くして有紗を見る。
「それより、どこ行ってたの……」
「お父さん、いる?」
母親が言い終わらぬうちに有紗は言った。
睨むようでもない、無表情でもない。決心した顔だった。
母親は少し口ごもり、頷いた。
「……ええ、仕事部屋に居るわよ」
そう言うと母親は部屋へと戻って行った。
足音とともに、有紗の心臓は破裂しそうに高鳴っていった。
――また何か言われるだろうか。
――今度こそ、殴られるかもしれない。
父親は暴力は振るわなかったが、今回は分からない。
有紗はリオを抱きしめた。
有紗の熱のせいか、ほのかに温かいような気がする。
暫くすると、廊下を走る音が聞こえた。
来た、来てしまった。
そこには白衣を着た父親の姿があった。
「有紗!お前はっ……」
手が上がった。
有紗は反射的に俯いた。
何も、痛みはなかった。
有紗はそっと顔を上げた。
父親は、泣いていた。
「……心配させるなよ……」
父親はそれだけ言った。
見たこともなかった父の涙。
それだけでまた胸の奥から何かこみ上げる。
「お父さん……これ、お父さんのでしょう……?」
有紗はリオを差し出した。
父親は涙を拭うと、はっとしたようにリオを見た。
「どうしたんだ……これを……なんで知ってるんだ……?」
「やっぱり……」
有紗の父親はロボットを作る仕事をしているのであった。
本当はリオを見たときから少し分かっていた気がした。
色は違えど、あまりにもその姿がユキに似ていたから。
「……お願い、直して」
有紗は呟くように言った。
父親はまだ信じられないと言うように有紗とリオを交互に見て、
それから言った。
「ああ」
有紗はシャワーを浴び、濡れた服を着替えた。
母親がリビングのソファから手招きしている。
有紗は母親の傍へ行き、隣に腰掛けた。
「有紗……梨緒君とユキが死んじゃってショックを受けてたでしょう?
それを見て、お父さんはずっと二人のロボットを作っていたのよ」
有紗は何も言わずに母親の話に耳をそばだてた。
「でも、研究所の人たちと意見が合わなかったみたいで、
かなり有紗に当たっちゃって……後悔してたわ、凄く」
母親はそっと背中に手を置いた。
その手はとても優しく温かかった。
「何か手違いがあったみたいで、プログラムが入れ違っちゃって。
後、色も違ったって言っていたわね……。」
『ロボット……って、喋れるの?』
『はい、色々とありまして』
『僕は、出来損ないなんです。だから、捨てられた』
梨緒の言葉が次々に思い出された。
つまり、『梨緒』の体に入るはずの『梨緒』のプログラムは、
誤って『ユキ』の体へと入ってしまったのだ。
「あなたが家出した日も、最初は強がってたけど、
居たたまれないって……そんな感じだったのよ」
母親はごくりと唾を飲み、その言葉を放った。
「お父さんは、有紗のこと大好きなのよ」
胸の奥が熱い。
生きていた心地のしなかったあの頃とは違う。
本当に涙は枯れないね。
コップに一杯、とか、そういう基準なんてない。
お父さんもそうなのかな。
私を、基準以上に愛してくれてるのかな……。
その時、ドアが開き、父親が入ってきた。
少し息が切れている。
「直ったぞ」
有紗は驚いた。
父親が、久々に微笑んでいたのだった。
有紗は涙を拭うと、「こっちだ」と促す父親に着いていった。
父親の仕事部屋。有紗は初めて入った。
その中央に大きく幅を取っている、ベッドのようなものの上に
リオが横たわっている。
「リオ!」
有紗はリオに駆け寄った。
少し動いている。生きている。
本当に生きているわけではないのに、また有紗は涙が溢れた。
こんなに泣き虫だったのかな。
そっとリオを抱き上げた。
すると、リオの目が開いた。
いきなりのことで、少し戸惑ったが、驚き、嬉しさが溢れた。
「良かった……」
そう言い、リオをずっと見つめていると、有紗はどきっとした。
リオは何か、口をもごもごと動かしたのだ。
『お姉ちゃん』
リオの口は、そう言った。
生きてる。
生きてる。
梨緒は、生きてる……。
有紗はリオを抱きしめた。
強く、もう大丈夫だよ、と言い聞かせて。
有紗は両親に向き直った。
「お父さん、お母さん……ごめんなさい。あと……ありがとう」
まるで梨緒が勇気をくれたみたいに、自然と口から言葉が出た。
二人は微笑んだ。
有紗も笑った。
柔らかな春の風が、一家を包んでいた。
読んでくださりありがとうございました!
心温まってくれたら嬉しいです。