身代わりテディベア
『深海のテディベア』桂木メイ (著)
ぼくはテディベアのクマちゃん。
アキくんといつも一緒にいるんだ。
今日はアキくんのお兄ちゃんも一緒に、みんなで海へお散歩にいくよ。
浜辺でちゃぷちゃぷ。貝殻集め。
アキくんは、ぼくの手をずっと握っていてくれた。
最後に、岬にのぼったよ。
海がキラキラ、きれいだね。
もっと海を見たいって、アキくんは身を乗りだした。
足がつるんと滑って、落ちそうになったけれど、
おにいちゃんが手をぎゅっと掴んだから、大丈夫。
でも、アキくんと繋いでいたぼくの手は、いつの間にか離れちゃった。
ぼくは、空と海の間をくるくるまわりながら落ちていって、
海の中にドボン。
最初はぷかぷか浮いていたのに、だんだん沈んでいった。
海の底は、静かで真っ暗。ふたりの声はきこえない。
もう、アキくんと手を繋げないのかな。
ぼくはアキくんがお迎えに来るのを待つことにした。
光が近づいてきた。
アキくんが来てくれたのかな?
あ、ちがった。
アキくんが図鑑で見せてくれた、光るお魚さんだ。
きれいだなあ。アキくんにも見せてあげたかった。
ぼくの色は、少し薄くなって、体の形も変わっちゃった。
アキくんが来ても、ぼくだってわからないかもしれないね。
ぼくはひとりぼっちになった。
でも、光るお魚さんがたくさんいるから、もうこわくないよ。
*
ホラー絵本作家の私が描いた五作目、『深海のテディベア』はぬいぐるみの視点で語られる悲しい物語だ。
ページをめくるたびに、空色から浅葱色、瑠璃色、濃紺へと移ろい、深い眠りに落ちるように色が失われていく。
年齢を問わず手に取られ、『物を大切にしよう』『危ないところに近付かない』といった教訓にもなっているらしい。
今回は少しばかり温かみを持たせたからか、怖さは薄いと言われていて、私にしては珍しい作風となった。
バルコニーから夜景を見下ろし、一服を終える。
窓を閉めて部屋に戻ると、着信が鳴っていた。
母からだった。
「もしもし、メイ? 今朝、ニュースでやってたよ。あんたの絵本が今話題だって。新刊が出るなら、教えてくれたらよかったのに」
「ああ、ごめんね。もう次の絵本に取り掛かってるから忙しくて、ついうっかりしてた」
「もう、お母さんはいつでもあんたを応援してるんだからね。夕方、お父さんに買ってきてもらって、さっき読んだんだよ」
スマホを持つ指先に、力がこもる。
「それで、どうだった?」
「うん、そうだね、今までのより怖くなくて、よかったと思うよ」
それを聞いて、肩の力がわずかに抜けた。
「でも」と母は続ける。
「エマちゃんのことを、思い出しちゃった」
予感はしていたのに、体の芯がすっと冷えた。
『エマちゃん』――私が八歳の時に、ある日行方不明となった、四歳の妹。
実家は細い山道を登った先にあり、人影はなく昼でも薄暗かった。
妹の遺体が見つかったのは、谷底を流れる川の、ずっと下流の方だった。
「ごめんね、お母さん。嫌な気分にさせて」
「ううん、そうじゃなくてね。エマちゃん、肌身離さず持ってたでしょ。
あのクマのぬいぐるみ。クマちゃんっていう名前の」
電話の向こうで、母が笑った気配がした。
「うん、覚えてるよ。あのぬいぐるみのことは、ずっと頭にあるから……」
そうね、と繰り返す母の声が揺れる。
そのあとで、静かに鼻をすする音がした。
思い出させてしまう後ろめたさがあったから、私は新刊の報告をあえてしなかった。
「メイの気持ちはわかるよ。せめて、あのクマちゃんのことも見つけてあげたかったもんね」
「……うん。私があの日、お昼寝なんかして目を離したせいで、勝手に家から出て行っちゃって……」
「メイ、それはもういいって言ったじゃない。小学生だったあんたに任せきりだったお母さんたちがいけなかったの。ね? もう大丈夫だから」
「……絵本、読んでくれてありがとうね。お父さんにもよろしく言って」
電話を切っても、母の声が耳に残っていた。
温かいものが飲みたくなって、ケトルに水を注ぐ。
お湯が沸くのをじっと待った。
「ママはああ言うけど、悪いのはおねえちゃんだよね」
雨の降る日曜日だった。
父と母は仕事で家にいなかった。
漫画を読んでごろごろしていたかったのに、妹が『クマちゃんとおさんぽにいきたい!』と騒ぐから、雨合羽を着せて渋々外に連れていった。
早く帰りたくて、構うのが面倒で……手を繋がないでいたら、妹は崖のそばで足を滑らせた。
「おねえちゃ――」
「エマッ!!」
急いで手を伸ばした。
私は小さな手を、しっかりと掴んだ――。
苦いコーヒーをすすり、ほうっと息をつく。
画材が雑然と置かれた机の隅にカップを置いた。
オレンジ色に灯るランプの隣に、色あせたテディベアが座っている。
あの日、手を繋いで帰った子。
誰にも見つからないようにうまく隠して、
それからずっと、ずっと一緒にいる。
私はその小さな手を、そっと握った。
真っ黒な瞳の中には、笑顔のおねえちゃんがいる。
「次はどんなお話を描こうかなあ。ねえ、エマちゃん」
子供向け絵本はほとんど平仮名ですが、非常に読みにくいため漢字を使いました。




