Le Jeu silencieux des Lettres 追補:音楽(フルート)をめぐる往復書簡
Le Jeu silencieux des Lettres 書簡という名の静かな遊戯 の続きのようなもの
ベネディクトゥス教皇→ベネディクトゥス14世
フリードリヒ王→プロイセン王フリードリヒ2世。のちの『大王』
▼Le Jeu silencieux des Lettres 書簡という名の静かな遊戯
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【ベルリン ― フリードリヒ王】
次の書簡で、フリードリヒは意図的に話題をずらした。政治でも、宗教でもない。音楽だ。
机に向かう前、彼は一度立ち上がり、窓を開けた。夜気が流れ込む。城は静まり返り、衛兵の足音だけが遠くで規則正しく刻まれている。その音を背に、彼はフルート・トラヴェルソを手に取った。
《最近、夜になるとフルートを手に取ります。戦争の準備よりも、音階の方が正直でして》
わざと軽く書いた。息の話題を、戦争に並べるのは不用意だ。だが、この教皇になら、見せてもいいと思った。音楽は弱みだ。だからこそ、隠さずに差し出した。ペンを走らせながら、彼は一瞬だけ手を止めた。これは書くべきか、と考えたが、消さなかった。
《フルートは、王に向いていません。息を誤魔化せない。力で押せない。それでも私は、この楽器を好んでしまう》
書き終えたあと、フリードリヒは書簡を読み返さなかった。代わりにトラヴェルソを持ち上げ、短く息を入れる。音は、わずかに揺れた。狙った音程ではない。だが、嘘でもない。書簡を侍従に託したあと、彼は椅子に深く腰を下ろした。少しだけ、後悔が遅れてやってくる。
――これは、王の言葉ではない。
だが、消す気もなかった。この教皇になら、見せてもいいと思った。返書は、予想より早かった。
【ローマ― ベネディクトゥス教皇】
音楽の話題を見たとき、ベネディクトゥスは思わず指を止めた。羽ペンの先が、紙の上でわずかに浮く。意外ではない。だが、軽くもない。
フルート・トラヴェルソ。
あの楽器は、誤魔化しが効かない。息遣いも、間も、すべてが露わになる。
力で押せば音は割れ、慎重に構えれば迷いがそのまま現れる。彼は一度、視線を上げた。書斎の静けさの中で、自分の呼吸がはっきりと聞こえる。王がこの話題を選んだ理由を、説明されるまでもなかった。返書には、神学も政治も持ち込まなかった。それらは、今ここに置くべき言葉ではない。これは議論ではなく、呼吸に応じる問いだったからだ。ベネディクトゥスは、ペンを持ち直す。書く前に、ほんの一瞬だけ間を取った。音楽に返事をするには、まず沈黙が必要だと、彼は知っていた。
《フルートは、祈りに似ています。音を出すより前に、まず呼吸を整えなければならない》
そう書いてから、ベネディクトゥスは一度、ペンを止めた。言葉が先に進み過ぎていないかを、確かめるためだ。
少し考えて、続けた。
《剣は、振るえば必ず音を立てます。ですが、フルートは、黙っていても責められない。沈黙を許す楽器を好む王は、きっと沈黙を恐れていないのでしょう》
書き終えると、彼は紙から視線を外し、短く息を整えた。これは評価に近い。いや、褒め言葉に近い。だが、訂正はしなかった。意図せず滲んだものを、消す必要はないと思ったからだ。
【ベルリン ― フリードリヒ王】
神学的な比喩だが、押しつけがましくない。むしろ、こちらの逃げ道を残している。
その夜、彼は実際にフルートを吹いた。技巧ではない。短い旋律を、何度も。うまくはいかない。だが、誰に聞かせるわけでもない。翌日、彼は簡単な追伸を書いた。返書を読んだ瞬間、フリードリヒは声を出さずに笑った。
――祈り、か。
神学的な比喩だが、押しつけがましくない。教えるでも、導くでもない。こちらがどう受け取っても構わない、という距離が残されている。
その夜、彼は実際にフルートを手に取った。窓は閉めた。夜気は澄んでいるが、音が散るのが嫌だった。燭台の火を一つだけ残し、あとは暗くする。王宮はすでに深く静まり、遠くで衛兵の交代を告げる足音だけが、一定の間隔で響いていた。
息を吸う。思ったよりも、浅い。音を出す前に、もう一度、吸い直す。
それでも、最初の音はわずかに揺れた。指が遅れたわけではない。息だ。
音程は合っている。だが、落ち着かない。彼は首を振り、最初から吹き直す。技巧ではない。短い旋律を、何度も。同じ場所で、必ず息が乱れる。指は覚えているのに、呼吸が追いつかない。力で押せば音は割れ、抑えれば途切れる。
――誤魔化せないな。
思わず、そう呟きそうになって、やめた。言葉を挟めば、この時間が壊れる気がした。何度目かで、音が少しだけ落ち着いた。上手くなったわけではない。ただ、息の長さを諦めたのだ。続かないなら、続かないなりに吹く。短く、確実に。旋律は、ようやく形になった。誰に聞かせるわけでもない。拍手も、評価も、ない。それでよかった。
フルートを下ろしたとき、彼は初めて、自分の呼吸が速くなっていることに気づいた。戦争の前にも、狩りの前にも、こんな息はしない。沈黙を許す楽器。黙っていても、責められない。
彼は楽器をケースに戻し、蓋を閉めた。その手つきは、剣を納めるときよりも慎重だった。
翌朝、すぐには書簡を書かなかった。
机に向かい、ペンを取って、置く。昨夜の旋律を思い出す。音ではなく、息の長さを。書ける言葉はいくつもあった。だが、それらはどれも長すぎた。
結局、残ったのは短い追伸だけだった。彼は書き終えると、読み返さずに折り畳む。王の文としては、あまりに簡素だ。だが、削る気は起きなかった。その紙を封に入れながら、彼はふと、ローマの書斎を思い浮かべる。あの教皇は、これをどう読むだろうか。
音としてではない。呼吸として。
返事を急がせるつもりはなかった。沈黙が必要なときがあることを、昨夜の失敗が教えてくれたからだ。フリードリヒは立ち上がり、窓辺に向かう。ベルリンの朝は静かだった。剣も、教義も、まだ眠っている。それでいい、と彼は思った。
《ご指摘の通り、沈黙を恐れてはいません。ただ、沈黙の中で息を整える術は、まだ修行中です》
書き終えると、フリードリヒはペンを置いた。言葉は短い。だが、削るべきところはもうなかった。それを覗き込んだアルガロッティは、肩をすくめる。
「陛下、これはもう書簡ではなく、日誌ですね」
フリードリヒは答えなかった。フルートを口元に当て、短く息を入れる。音を出す前に、ちらりとアルガロッティへ視線をやっただけだ。否定はしなかった。
こうして、二人のあいだでは、教義でも、戦争でもない話題が、確かに息をしていた。フルートは世界を変えない。だが、世界を変える者の呼吸を、わずかに整える。それで十分だと、二人とも知っていた。




