第十三章「古代の記録」
神殿を出発する前に、三人は儀式についてさらに詳しく調査することにした。
「この文献によると、水揚げの儀は、単に始原の水を使うだけではないようです」
エリシアは、神殿の書庫で見つけた古文書を読み上げた。
「『水揚げの儀を行う者は、自らの魔力を世界樹に捧げなければならない。始原の水は、その魔力を増幅し、世界樹の全導管に行き渡らせる触媒である』」
「自らの魔力を捧げる……?」
蓮は眉をひそめた。
「俺には、魔力がほとんどない。この世界の人間と違って、魔力を生まれ持っていない」
「それが問題ですね。通常なら、魔力を持たない者には儀式を行うことができないはずです」
「では、どうすれば——」
「待ってください。続きがあります」
エリシアはページをめくった。
「『しかし、水揚げの司祭は、特殊な方法で魔力を得ることができる。それは、自らの「生命力」を魔力に変換する技術である。この技術を用いれば、魔力を持たない者でも儀式を行うことが可能となる。ただし、大量の生命力を消費するため、命の危険を伴う』」
沈黙が流れた。
「命の危険……」
ガルドが、低い声で言った。
「つまり、儀式を行えば、蓮は死ぬかもしれないということか」
「可能性としては、あります」
エリシアの声が震えていた。
「古文書には、過去の水揚げの司祭たちの記録があります。多くは、儀式を無事に終えていますが……中には、命を落とした者もいるようです」
「……」
蓮は黙って考え込んだ。
命を懸ける覚悟は、最初からあった。この世界に来たときから、死ぬ可能性は承知していた。だが、こうして具体的な危険を突きつけられると、恐怖がないわけではない。
「蓮さん」
エリシアが、蓮の手を握った。
「無理はしないでください。他の方法を探しましょう。きっと——」
「他の方法はない」
蓮は、はっきりと言った。
「世界樹は、あと数ヶ月しか持たない。他の方法を探している時間はない」
「でも——」
「大丈夫だ」
蓮は、エリシアの目を見つめた。
「俺は、死ぬつもりはない。儀式を終えて、生きて戻る。約束する」
「……本当に?」
「ああ。リーネにも約束したからな。必ず戻る、と」
エリシアは、しばらく蓮を見つめていた。
「……分かりました。私も、できる限りのことをします。儀式の補助や、危険を減らす方法を調べます」
「頼む」
ガルドが口を開いた。
「俺は戦うことしかできないが、お前を根源の泉まで連れていく。それだけは、必ず果たす」
「ありがとう、ガルド」
三人は、互いの目を見つめ合った。
この旅の目的は、最初から分かっていた。世界樹を救うこと。そのために、命を懸ける覚悟はできていた。
だが、今改めて、その覚悟を確認し合う。
「行こう」
蓮は立ち上がった。
「根源の泉へ」
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神殿を出発し、三人は帝国領へと向かった。
道中、蓮は古文書に記された「水揚げの儀」の詳細を何度も読み返した。
儀式の手順は、以下の通りだった。
一、始原の水を汲み、世界樹の根との接続点に運ぶ。 二、水揚げの力を持つ者が、接続点で始原の水に触れる。 三、自らの生命力を魔力に変換し、始原の水を通じて世界樹に注ぎ込む。 四、世界樹の全導管が開通し、魔力の循環が正常化される。
「問題は、三番目ですね」
エリシアが言った。
「生命力を魔力に変換する技術——これが、最も危険な部分です。変換の効率が悪いと、膨大な生命力を消費することになります」
「効率を上げる方法は?」
「いくつかあります。まず、身体を極限まで鍛えること。生命力の総量が多ければ、余裕ができます」
「それは、今から間に合わない」
「ええ。次に、精神を統一すること。雑念を排し、意識を一点に集中させれば、変換効率が上がるとされています」
「精神統一……」
蓮は考えた。
花屋時代、水揚げの作業をしているときは、無心だった。花のことだけを考え、他のすべてを忘れて作業に没頭した。あの状態に近いものだろうか。
「もう一つ、重要なことがあります」
エリシアは続けた。
「古文書によると、水揚げの儀は、一人で行うものではないようです」
「一人ではない?」
「はい。『水揚げの司祭は、協力者の存在によって、その力を増幅させることができる』とあります。具体的には、司祭と心を通わせた者が傍にいることで、精神的な支えとなり、変換効率が向上するそうです」
「心を通わせた者……」
蓮は、エリシアとガルドを見た。
「つまり、お前たちのことか」
「そうなります。私たちが蓮さんの傍にいることで、儀式の成功率が上がる。だから——」
エリシアは、蓮の手を強く握った。
「私たちは、最後まで蓮さんと一緒にいます。根源の泉でも、儀式のときも。絶対に、一人にはしません」
「……ありがとう」
蓮は、深く息を吸った。
一人ではない。仲間がいる。
それは、元の世界では感じたことのなかった温かさだった。花屋として十年間、蓮は孤独だった。同僚はいたが、心を通わせる相手はいなかった。上司には虐げられ、会社には見捨てられた。
だが、この世界では違う。
リーネ、カイン伯爵、そしてエリシアとガルド。自分を信じ、支えてくれる人たちがいる。
「必ず、成功させる」
蓮は誓った。
「この世界を救って、みんなのところに戻る」
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帝国領に入って三日目。
三人は、帝国軍の大規模な部隊と遭遇した。
「止まれ!」
森の中から、数百人の兵士が現れた。完全武装の帝国軍だ。先頭には、見覚えのある顔があった。
「久しぶりだな、水谷」
黒沢だった。
「予想通り、根源の泉を目指してきたようだな」
「黒沢……」
「ここで、お前たちの旅は終わりだ。大人しく投降しろ。そうすれば、命は助けてやる」
ガルドが剣を抜いた。
「蓮、エリシア様を連れて逃げろ。俺がここで食い止める」
「馬鹿を言うな。一人で数百人相手にできるわけがない」
「できなくても、やるしかない。お前たちが逃げる時間を稼ぐ」
「ガルド——」
「行け!」
ガルドは叫び、帝国軍に向かって突進した。
「蓮さん、こっちです!」
エリシアが蓮の手を引いた。
蓮は一瞬躊躇したが、ガルドの覚悟を無駄にするわけにはいかない。エリシアと共に、森の中へ駆け出した。
背後で、剣戟の音が響く。ガルドの怒号と、兵士たちの叫び声。
「ガルド……」
蓮は走りながら、後ろを振り返った。
ガルドは、数十人の兵士を相手に奮戦していた。その姿は、獅子のように勇ましい。だが、多勢に無勢だ。いつまでも持たない。
「追え! 逃がすな!」
黒沢の声が響いた。
追っ手が迫ってくる。蓮とエリシアは、必死に走った。
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どれほど走っただろうか。
森を抜け、崖の縁にたどり着いたとき、蓮たちは行き止まりに直面した。
「くそ……」
崖の下には、深い峡谷が広がっている。飛び降りれば、確実に死ぬ。
「追い詰めたぞ」
背後から、黒沢の声が聞こえた。
振り返ると、黒沢と数十人の兵士が、蓮たちを取り囲んでいた。
「もう逃げ場はない。観念しろ」
蓮は、エリシアを庇うように前に立った。
「エリシア、すまない。巻き込んでしまった」
「謝らないでください。私は、自分の意志でここにいます」
「だが——」
「蓮さん」
エリシアは、蓮の背中に手を当てた。
「まだ、諦めないでください。方法は、あるはずです」
「方法……」
蓮は、崖の下を見た。
峡谷の底には、川が流れている。そして、その先には——
「世界樹の根だ」
崖の下に、巨大な根が見えた。世界樹の根が、峡谷を横切るように伸びている。
「あの根を伝えば、世界樹の内部に入れるかもしれない」
「世界樹の内部?」
「根の内部には、導管がある。その導管を通れば——根源の泉まで、たどり着けるかもしれない」
「でも、あの高さから飛び降りたら——」
「俺に、考えがある」
蓮は、エリシアの手を握った。
「信じてくれるか」
エリシアは、蓮の目を見つめた。
「……信じます」
「よし」
蓮は、崖の縁に立った。
「何をするつもりだ」
黒沢が警戒の声を上げた。
「まさか、飛び降りる気か? 自殺するつもりか?」
「違う」
蓮は、スキル【水揚げ】を発動した。
光が、蓮の身体から放たれた。その光は、崖の下の世界樹の根に向かって伸びていく。
「世界樹の根よ、俺たちを受け止めてくれ」
蓮は祈るように念じた。
すると——
根が、動いた。
巨大な根が、崖に向かって伸びてきた。まるで、蓮の願いに応えるかのように。
「行くぞ、エリシア!」
蓮はエリシアを抱きかかえ、崖から飛び降りた。
「待て!」
黒沢の叫び声が、遠ざかっていく。
落下する二人の身体を、世界樹の根が受け止めた。
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