第8話 拳闘士の女①
一人の女が、ジュラルミン製のキャリーバッグを引きながら歩いていた。
真夏の太陽が容赦なく照りつける、『純血の魔女』がいることで知られる街――その繁華街の中心を、である。
人工島に建設された国際空港から、この街へ辿り着いたのはおよそ3時間前。
入国審査を抜け、私鉄を使い、都市部へと滑り込むように移動してきていたのだった。
身長は180cmくらいか。
群衆の中にあっても、頭ひとつ分、視線の高さが違う。
サラサラとした黄色い髪は、女性らしさを強調するような長さではなく、まるで男性軍人のように短く整えられている。
その名は九重。
年齢は30を過ぎている。
タンクトップから露出している白い肌は、真夏の直射日光を浴びて赤く焼けていた。
無駄な脂肪は削ぎ落とされ、引き締まった筋肉が輪郭として浮かび上がっている。
アスリート――そう評して差し支えない肉体だった。
ほぼ100%外国人と断言できる容姿。
化粧はしていない。
そのせいか、顔立ちに愛らしさはなく、女性的と呼ばれる要素も希薄である。
胸のふくらみがなければ、女であると即座に判断するのは難しかっただろう。
じりじりと眩しい太陽光が降り注いでいた。
湿度は高く、肌にまとわりつく熱気が呼吸を重くする。
汗が止まらない。
歩行者天国となっている幅広の通りには、外国人観光客が溢れ返り、真っ直ぐ歩くことすら困難なほどであった。
ガヤガヤ、ザワザワ――雑多な言語が混じり合い、空気そのものがざらついている。
とはいうものの。
その中にあっても、九重の存在感は否応なく際立っていた。
彼女がこの地を訪れた目的は、24金の取引。
彼女が引いているキャリーバッグの中には、およそ100kgもの24kインゴットが収められている。
外装はジュラルミン製。
しかし実際の中身は、金庫に用いられる特殊素材で構成されており、総重量は300kgを優に超える。
それだけの重量がありながら、九重は他の旅行者と何ら変わらぬ様子で、ゴロゴロとキャリーバッグを引いていた。
きぃ……、と小さく鳴るキャスターの音すら、街の喧騒に溶けていく。
違和感はない。
少なくとも、周囲の人間の目にはそう映っているのだろう。
現在、24kインゴットは1gあたりおよそ15,000円で取引されている。
100kg。
単純換算で、150憶円。
彼女は今、150憶円という現金以上に生々しい価値を、たった一人で運んでいることになる。
この国の法律では、20万円以上の物品を国内へ持ち込む際、消費税が課せられる。
だが九重は、その100kgの24kインゴットを秘密裏に持ち込み、本来発生するはずだった15憶円もの課税を回避していた。
彼女は、何事もなかったかのような顔で空港の税関ゲートをくぐり抜けた。
警備員の視線も、機械の無機質な光も、彼女を咎めることはない。
そしてその瞬間、ひとつの事実が静かに確定する。
――『密輸』が成功した。
近年、社会問題として語られるようになった闇バイトの中に、『運び屋』と呼ばれる仕事がある。
聞こえは軽い。
だが、その実態は単純明快――犯罪だ。密輸そのものだった。
大手求人サイトにさえ、高額報酬、即日払い、ホワイト案件などといった甘美な言葉が並ぶ。
疑う余地を削ぎ落とすような文言に誘われ、知らぬ間に犯罪へと足を踏み入れてしまう者は、決して少なくないのが現状である。
24金は、為替相場や金融政策によって各国の取引価格に差が生じるものの、原則として世界共通の価値を持つ資産だ。
特定の国では、その24金が非課税で購入・取引できる。
そこで大量に買い付け、国境を越えて持ち出す。
課税されない分が、そのまま利益になる。
単純で、だからこそ確実。
そのカラクリは、反社会的勢力たちの資金源のひとつとして、静かに、だが確実に根を張っていた。
九重が『純血の魔女』のいる都市へやって来た理由も、そこにある。
新規の大口顧客を確保するためだ。
取引相手は、この国でも最大勢力の一角を占める半グレ団体。
表の顔は持たず、裏で血と金を循環させる連中だった。
移動には、あらゆるアクシデントを想定し、時間には十分すぎるほど余裕を持たせていた。
とはいうものの、事故もトラブルも一切なく入国できてしまったため、彼女は約束の時間よりもかなり早く、目的地周辺へと辿り着いていたのである。
繁華街全体を覆う、独特の雑居音。
ざわざわ……がやがや……。
笑い声、呼び込みの声、酔客の足音。
無数の音が層となって空気を震わせる。
その中心に身を置きながら、九重は神経を刃物のように研ぎ澄ませていた。
理由は単純明快だ。
150憶円相当の24金を、その身一つで運んでいるという事実。
そして、空港に降り立った時点から――何者かの視線が、ずっと背中に貼り付いているという確信があった。
取引相手となる半グレ団体には、九重の詳細な情報は一切伏せている。
利用する飛行機の便も、到着時間も伝えていない。
それにもかかわらず、空港での待ち伏せ。
情報が外部に漏れている。
そう考えるのが、もっとも自然だった。
時間が経つにつれ、視線の数が増えていく。
1人……2人……。
姿は見えない。
だが、気配だけが、じわじわと濃く、重く、空気に滲んでくる。
目的は明白だった。
取引前に、彼女が運ぶ24金を強奪するつもりなのだろう。
ひやり――。
凍てつくような空気が、九重の肌を撫でていく。
≪このピリピリする感覚……嫌いじゃない≫
150憶円相当の24金を運び、半グレ集団と交渉する。
それは当然、大きな危険を孕んだ行為である。
ものの、九重はそれを単独で実行しようとしていた。
理由は、ただひとつ。
九重は、最新装備で武装した精鋭部隊をも上回る戦闘値を持つ、生粋の戦闘民族――
『人狼』だった。
半グレ集団が、仮に武力制圧に踏み切ったとしても、彼女にとっては取るに足らない。
そう。
いくら銃を持ち、人数を揃えようとも、所詮は雑魚。
その認識は、揺るぎない事実として九重の中に根付いていたのである。
数年前、彼女は廃墟の中で目を覚ました。
自身について覚えていることは、名前だけ。
それ以外の記憶は、きれいさっぱり抜け落ちていた。
まるで数万年もの間、コールドスリープに放り込まれていたかのような感覚。
とはいうものの、それが真実かどうかは分からない。
あるいは、マッドサイエンティストによる人体実験の果てに生み出され続けた存在だったのかもしれない。
だが、九重にとって、自身の素性などどうでもよかった。
過去にも、理由にも、興味はない。
ただ、ありとあらゆる全てを手に入れたいという強欲だけが、彼女の心を支配していた。
人狼である九重は、常人とは比較にならないほど突出した身体能力を持つ。
それに加え、卓越した記憶力。
一度見たものを、決して忘れない。
そして何より――自身の命を一切顧みない戦闘狂だった。
戦いが始まれば、敵も味方も関係ない。
暴力そのものを楽しむ獣。
だからこそ、単独行動は彼女の性に合っていたのだ。
時価総額150憶円の24金を所持している現状を考えれば、取引時間まで身を隠すのが定石だろう。
それが容易にできる能力も、彼女は持っている。
ものの、九重はこの状況そのものを、心の底から楽しんでいた。
きな臭い空気。
高鳴る鼓動。
アドレナリンが噴き上がり、内なる猛獣が低く唸る。
人間を、戦闘でぶち殺したい――。
そんな欲求が心を汚染しようとする。
だが今は、まだ人である理性が、その獰猛な感情を押さえ込んでいた。
理由は単純だ。
人が集まる場所での殺戮は、じっくり楽しめないから。
九重は、静かに踵を返した。
人の気配が薄れていく方向へ、歩き出す。
入国前、彼女はこの都市一帯の映像を徹底的に頭に叩き込んでいた。
インターネットの地図サイト――『ストリートビュー』。
画面越しに見た街並みを、寸分違わず記憶している。
真昼の歓楽街。
まだ人が疎らな時間帯。
彼女はそこへ向かって歩を進めた。
取引までの空き時間を使い、記憶と現実との差異を確認する。
同時に――
見張っている連中が、もっとも仕掛けやすい場所へと、自らを誘導するために。
そこは、殺戮を楽しむには、うってつけの舞台となる場所だった。




