第6話 剣豪の親父④
剣豪は、神速で放たれた突きの軌道を――
紙一重、ほんのわずかに、ずらされていた。
その事実を悟った時には、すでに遅い。
踏み込みきった脚は止まらず、制動を失った身体は、前へ、前へと流されていく。
上体は限界まで引き伸ばされ、背筋は悲鳴を上げ、体幹は裂けるように崩れ、重心は完全に宙へと投げ出されていた。
もはやそれは、自分の身体でありながら、自分のものではない感覚に陥っていた。
ぐらり、と世界が傾く。
視界は歪み、床と天井の境目は溶け、空間そのものが捻じ曲げられたかのように混ざり合っていく。
――致命的。
剣を握る者なら、誰しも本能で理解する。
これは取り返しのつかない崩れであり、剣の理に照らせば、すでに「死」が確定した体勢だった。
普通なら。
いや、剣の道理に忠実であるならば、ここで終わりだったのだろう。
確実に斬られ、倒れ、息絶えていただろう。
勝敗は決し、舞台は閉じ、物語は幕を下ろす。
それが必然であり、例外など存在しない――はずであった。
――だが。
彼は、終わらなかった。
身体が前へと流される、その刹那。
剣豪は一切の逡巡も、恐怖も挟まず、『妖刀村正』の刀身を振り上げていた。
ギィンッ――!
一拍遅れて、甲高い金属音が空気を裂く。
鋭い衝撃が耳を打ち、弾けた殺気が床を這うように広がった。
それは反射ではない。
苦し紛れでも、偶然でもない。
まるで――
この崩れすら、最初から織り込み済みだったかのような動き。
無駄を削ぎ、迷いを捨て、恐怖を切り落とし、理だけを抽出した、極限まで研ぎ澄まされた所作。
そう。
体勢を崩されることすら、彼にとっては計算の内だったのである。
ずれた突きは即座に斬りへと転じ、その斬りは断絶を許さず、次の一手へと滑らかにつながっていく。
一連の動作に、隙はない。
剣は止まらず、意思も、呼吸も、心拍さえも乱れなかった。
これこそが――
研ぎ澄まされた剣豪の境地。
生と死の狭間に立ちながら、なお剣を振るい続ける者こそ、それが、彼の姿である。
剣豪が狙うは魔女――六惺の、完全なる死角。
頭上。
視線も、意識も、殺気さえも届かぬ盲点だ。
刃渡り一メートルを超える『妖刀村正』に、
全体重を、全殺意を、すべてを乗せて――振り落としていく。
ズンッ。
空気が沈む。
圧縮された衝撃が場を支配し、遅れて床鳴りが轟く。重く、鋭く、逃げ場はどこにもない。
回避など、最初から不可能だった。受け流しもまた、論外のはずだった。
剣の理から見れば――完全に詰んだ、一閃。
それでも、斬撃が見えているはずのない六惺は、相変わらず眠たげな表情を崩していない。
半ば落ちた瞼。
気だるげな視線。
戦場に立つ者の顔ではなく、緊張という概念そのものが、そこには存在していないようでもある。
避けられない。いや、対応する猶予すら存在しない。
八十郎の視界には、すでに――魔女を一刀のもとに断った“未来の残像”が、鮮明に焼き付いていた。
――勝った。
そう確信した瞬間だった。
ドンッ。
鈍く、重たい衝撃音が空間を揺るがす。降り下ろされた渾身の一閃は、六惺に――素手で受け止められていたのであった。
否、それだけではない。
彼女はそのまま、刀身を握り締めていたのだ。
白く細い指が、『妖刀村正』の鋭利な刃を包み込み、金属の軋む音すら立てず、びくりとも動かすことが出来ないのだ。
血は流れず、震えもためらいもない。
あるのは、異様なまでの静止。
まるで時間そのものが、彼女の指先で掴み取られたかのようだった。
≪見えていたのか。いや、違う。絶対に見えていなかった。では、なぜだ。頭上から落ちる『妖刀村正』を、視線すら向けずに受け止め、掴むなど……人の所業ではない。それに、もう一つ。なぜ、素手で……俺の一閃を受け止めているというのだ!≫
燃え盛っていた闘争心は、音もなく冷えた恐怖へと塗り替えられていく。
ぞわり、と背筋を悪寒が這い上がり、内臓が締め付けられ、呼吸は浅く、荒くなる。
八十郎は歯を食いしばり、握り締められた『妖刀村正』を引き抜こうと全身の力を叩き込むものの、
――だが、動かすことが出来ない。
ビクリとも、するどころか、巨大な万力に固定されたかのような感触。否、それ以上だ。
“動かす”という概念そのものを、拒絶されているようである。
相手は線の細い女子にすぎないはず。
だが、指先から伝わる力は、“人”のそれではなかった。
重く、揺るがず、圧倒的。
抗うという発想すら、根こそぎ否定してくる質量。
力ではない。在り方が、違う。
それでも剣豪は、一瞬の逡巡すら見せず、次の動作へ即座に移っていた。
剣客の魂とも言うべき妖刀を迷いなく手放し、無防備に見える魔女の身体へ向き直し、拳を叩き込もうと、腰を深く落としていく。
正拳突き。
剣を失った今、残された最短かつ最速の打撃。
全身の力を一点に収束させた、渾身の一撃。
剣の理ではなく、武の理で貫く――その覚悟。
――その時であった。
魔女が、ほんのわずかに、ぼそりと呟いた。
たった一言。それだけで、八十郎の動きは――止まってしまった。
「――やめておいた方が身のためですよ。その場しのぎで形だけ真似た正拳突き程度が、私に通じると本気で思っているのですか……?」
八十郎の本能は、魔女の言葉を――無意識のうちに受け入れてしまったのだろうか。
荒れ狂っていた思考の嵐が、ふっと静まり返る。
ようやく、理性という名の歯止めが戻ってきたのだ。
絶対に回避不可能とされる一閃。
神速と呼ばれ、避けることすら想定されていない突きを、魔女はあまりにも容易くさばき、受け止めてみせた。
その瞬間、大勢はすでに決していた――八十郎は理解した。いや、理解してしまった、と言ったほうが正確かもしれない。
張り詰めた空気の中、魔女は静かに、さらに言葉を重ねる。
「この時代の剣豪たちは、ようやく“型”という檻を捨て去る段階に辿り着いたようですね」
その声音には、嘲りとも称賛ともつかぬ微妙な温度が宿っていた。
八十郎はかつて剣聖、あるいは剣豪と呼ばれた者たちの神技を自在に扱う。
それ自体は紛れもない事実だ。
しかし、流派の異なる技を連続して繋げるなど、本来なら不可能である。剣術とは、型によって制約されるものだからだ。
だが――決まった型を持たぬ八十郎は異端だった。
彼はあらゆる神技を“崩して”使う。
要点だけを抜き取り、繋ぎ、歪め、再構築する。
そうして、通常ではありえぬ剣術を確立していたのだ。
その異端の在り方を、魔女は見抜き、称賛したのである。
しかし、その直後――。
背筋を氷でなぞられるような言葉を、六惺は平然と続けた。
「剣豪さん。私が、わざわざ攻撃を止めるよう忠告した理由――その意味、分かりますか?」
八十郎は眉間に薄い皺を寄せ、声を抑えながら答える。
「俺の正拳突きじゃ、お前にダメージを与えられない……そういうことだろう」
六惺は小さく首を傾げ、目を細める。
「ええ。認識としては間違っていません。ただし――それは、私の本当の意図ではありません」
「本当の意図だと……? どういう意味だ。他にも理由があるっていうのか」
八十郎の声には、苛立ちと困惑が微かに混ざっていた。
「はい。では逆に伺いましょう。剣豪さんは――自分が私に“二度”攻撃した理由を、きちんと理解していますか?」
八十郎の脳裏に、直前の攻防が鮮明に蘇る。
攻撃は二度。
初動の突き。
そして連撃として放った、頭上からの振り落とし。
だが、それが何を意味するのか。
魔女のいう“真意”が何なのか。
八十郎には、さっぱり分からなかった。
六惺は掴んでいた妖刀・村正を、ゆっくりと前に差し出す。
まるで返却するかのように、あるいは試すかのように。
その仕草と共に、二度目の攻撃について語り始めた。
「私が、『6』という数字に愛されている魔女だと言ったこと――覚えていますよね?」
その名は六惺。
『6』という数字に愛され、世界の法則すら踏み倒す存在。
傍若無人――まさに彼女のためにある言葉だ。
生粋の悪。
そして、彼女に殺された者は、例外なく地獄行きが確定する。




