第5話 剣豪の親父③
年季の入った雑居ビルの一室――外界と完全に切り離された密室空間で、魔女と剣豪は静かに向かい合っていた。
その視線の行き着く最奥――
『懺悔の炎』によって焼かれた男の死骸が、無造作に横たわっていた。
いや、“横たわっている”という表現すら躊躇われる。
肉体の50%以上は消失し、腕も脚も判別が難しい。輪郭は溶け、もはや人の形を保っていない。
とはいうものの、不思議なことに焦げ臭さは一切ない。鼻を突くはずの焼死体特有の臭気は存在せず、ただ――視界に焼き付くその光景だけが、否応なく現実を主張していた。
その死骸の、わずか手前で。
八十郎の体に、確かな異変が起きていた。
――ズズ……。
内臓を擦るような、鈍く湿った感触。
腹腔の奥、皮膚の裏側を何かが這い上がってくる。気のせいではない。錯覚でもない。生々しい実感が、はっきりと存在している。
次の瞬間。
彼の体内から、日本刀の刃先が、ゆっくりとせり出してきたのである。
皮膚を破る音はない。血も飛び散らない。
肉を押し分ける感触すらない。
それはまるで――
“存在そのもの”が、内側から浮上してくるかのようだった。
フッ……と空気が押しのけられる微かな圧。
刃が現れ、峰が姿を見せ、刀身が段階的に露わになっていく。ズズ……ズズ……と、時間をかけて、確実に。
やがて。全容が、完全に現れてきた。
————『妖刀村正』。
刃渡りは1mを優に超える。
幾度となく血を吸い、幾度となく命を奪ってきた忌まわしき業物。持ち主は正気を失い、いずれ殺人鬼と化す――そんな言い伝えを背負った、呪われた名刀である。
それが、なぜ自分の体内にあるのか。
その理由を、当の本人である八十郎自身ですら理解していない。
いや、「分からない」のではない。
「分かり得ていない」と言うべきだった。
八十郎の内面は、今まさに激しくかき乱されている。
魔女の存在――その常軌を逸した“異質さ”に触発され、『妖刀村正』が露骨なまでに敵意を剥き出しにしてきたからだ。
――殺せ。
――殺せ。
ズン……ズン……と。
耳鳴りにも似た衝動が、頭蓋の奥で反響し、さらに鼓動と同調し、思考を侵食していく。
対峙する美少女を、刃そのものが指し示しているかのようだった。
魔女の血を吸いたい。
切り裂き、浴びたい。
赤に染まりたい。
そんな欲望が、刀を媒介にして八十郎の精神へ流れ込んでくる。生々しく、粘つく感情。理性を削り取り、思考の角を丸ごと削ぎ落とす、剥き出しの殺意だ。
八十郎は知っている。
『妖刀村正』に意思が宿っていることは、以前から理解していた。
とはいうものの――
ここまで、だ。
ここまで露骨に感情を叩きつけ、明確な“自我”を主張してくることは、かつて一度もなかった。
歯止めの壊れた暴走列車。走り出したら最後、止める術はないといった感じがする。
その感覚を、八十郎は皮膚の裏側で理解してし、それ故に、理解してしまったがため、背筋が冷えてきていた。
――それでも。
八十郎には、譲れない流儀がある。
それは自分のために、人を殺さないこと。
その信念を、剣豪はこれまで一度も曲げてこなかったのだ…
ギリ……。
奥歯を噛みしめ、内側から溢れ出そうとする『妖刀村正』の衝動を、意志の力で必死に押さえ込もうと試みるのであるが、
その張り詰めた葛藤を――
まるで断ち切るかのように。
魔女が、見下すような声音で言葉を投げてきた。
「剣豪さん。――あなたの剣技には、少なからず興味があります」
一瞬の間。
そして、薄く、意味深な笑み。
「どこまで研ぎ澄まされているのか……その到達点を、ぜひこの目で確かめさせてください。あなたの腕前を、披露してもらえませんか」
――挑発。
しかも、その言い回しには奇妙な既視感があった。
まるで過去に一度、自分と刃を交えたことがあるかのような口ぶり。
――この女は、俺の知らない“何か”を知っている。
八十郎は、直感的にそう感じていた。
自分が何者なのか。
なぜこの刀を宿しているのか。
その疑問を解消する機会が、ついに訪れたのではないか――そう思ったのだ。
だが。
その探究心を、魔女の言葉は遥かに上回る力で踏み潰してくる。
知りたい。
理解したい。
――ものの。
それ以上に。
——————斬りたい。
魔女を斬り刻み、血に塗れた姿を見たいという欲望が、雪崩のように意識を押し流していく。剣豪の魂と、『妖刀村正』の欲望。それらが、完全にシンクロしたのだろうか。
――スゥ……。
先ほどまで荒れ狂っていた内面が、嘘のように静まり返っていた。
嵐の前の、異様な静寂。
完全に姿を現した、刃渡り1m超の妖刀。
八十郎は、それを強く、確かに握りしめていた。
そして――一歩。
ザッ……。
床を踏みしめ、魔女との間合いを詰めていく。
戦いにおいて、勝敗を分ける要素の1つ。
それが『間合い』である。
一般的には、遠距離から攻撃できる者が圧倒的に有利とされている。
銃火器が主流となった現代では、なおさらだ。
それでもなお。
八十郎は、一対一の対人戦において絶対の自信を持っていた。
現代社会において、殺し屋の主武装はライフル。
陸軍歩兵の主力はアサルトライフルである。
にもかかわらず――
刀を武器とする彼こそが、殺し屋界において最強であった。
――————その名は、八十郎。
彼の剣技は、常識という枠組みそのものを踏み外している。
一般的な戦術、経験則、読み合い――そうした概念が通用する領域を、とうに越えている。もはや剣の技というより、現象と呼ぶほうが近いのかもしれない。
突出した空間把握能力。
視界に映るすべてを瞬時に把握し、未来の位置関係を組み立てる。その精度はまさに異常。
弾道を事前に読み切り、必要とあらば音速3で疾走する弾丸でさえ――
カンッ、と乾いた金属音ひとつ。
それだけで、『妖刀村正』により真っ二つに叩き落とす。
その剣筋を、見切れた者はいない。
一度として、例外はなかった。
剣を交えた瞬間、勝敗はすでに決している。
そう言われ続けてきた所以である。
そして――
彼と刃を交えた者には、もれなく。
100%の死が、訪れるのである。
八十郎は静かに剣先を持ち上げ、正面の魔女へと向けた。
突きの構え。余分な動きも、迷いも、一切を削ぎ落とした姿勢。殺すためだけに洗練された、完成形の構えであった。
対する六惺はどうか。
迎え撃つべく体勢を整えるでもなく、楽な姿勢を崩さないまま、そこに立っていた。
伝説の殺し屋を前にして、この態度。舐め切っている――そう映っても無理はない。とはいうものの、その瞳の奥に宿る光には、油断の色は微塵もなかった。静かで、深く、底知れない。
剣豪の方はというと、すでに戦うこと以外のすべてを切り捨てている。
思考は研ぎ澄まされ、意識は一点に収束。
肉食獣が獲物を定め、今まさに狩りへ飛び出す、その刹那。
空気が、ピン……と張り詰めた。
この間合い。
剣豪が最も力を発揮する距離である。
弓をゆっくりと引き絞るように、体内へエネルギーを溜め込んでいく。
ギリ……と、目には見えない緊張の軋みが、空間そのものを歪ませている。
時間が止まったかのような錯覚。
息をする音すら、やけに大きく感じられた。
その瞬間――
ドンッ。
地面を蹴る鈍い衝撃音が、空気を震わせた。
八十郎が、一気に踏み込んだ。
まさに神速。
狙い澄ました突きが、一直線に魔女の喉元へと走る。迷いも、躊躇もない。殺すためだけに放たれた、完璧な一撃であった。
ほぼ同時に、六惺も動いていた。
だが、その動きは迎撃というよりも、流れに身を任せるような自然さ。力を込めるでもなく、構えるでもない。ただ、そこに在るような動作だった。
剣豪は、勝利を確信していた。
否、疑う余地すらなかったのだ。
この距離、この速度、この剣筋。避けられるはずがない。
――そして
剣豪の突きの軌道が、僅かに、しかし確実に、ずれていく。
『妖刀村正』が描く軌跡が、ほんのわずかに変化していたのである。
反応してからでは、絶対に避けられない速度。
予備動作から軌道を読もうとしても、走りながら変化する剣筋をさばくことは、物理的に不可能。
敵が熟練者であればあるほど。
剣を見切ろうとすればするほど。
その罠に、深く嵌る。
絶対速度による、一撃必殺。
八十郎は神速の突きを繰り出しながら、重心を微細にずらしていたのであった。
紙一枚にも満たない差。とはいえ、それを疾走中に、正確無比に行うなど、人の域を完全に逸脱していると言えるだろう。
――まさに、『初見殺しの一閃』。
近接戦闘において、八十郎が無敵を誇る理由そのものだった。
だが。
その剣豪は、再び――
ありえない光景を目にすることとなる。
軌道を変えた神速の一撃が、六惺によって、何事もなかったかのように、さばかれていたのだ。
カン。
軽く、乾いた音。
『妖刀村正』の刀身に、魔女の拳が、そっと添えられる。
ただ、それだけ。
それだけで、走る剣の軌道が、すっと逸らされていく。
あり得ない。
断じて、あり得ない。
神速の突きは、人が反応できる代物ではない。
仮に予測できたとしても、その軌道は常に変化している。対応など不可能。
それをさばくには――
未来を読む以外、方法は存在しないはずだった。
しかし魔女は、平然としている。
驚愕も、焦燥もない。
まるで退屈な芝居でも眺めているかのような、あくびでも出そうな表情だった。
その瞬間。
八十郎の内側で、何かが、ガラガラと崩れ落ちていた。
心の中で、絶叫する。
≪反応してからでは遅いはずだ。予測しても対応できないはず。『未来』を読まない限り、今の突きは絶対にさばけない。
――この魔女は、なぜ、それが出来ているというのだ!≫




