第3話 剣豪の親父①
時間はすでに24時を回り、歓楽街の喧騒は最高潮に達していた。ネオン看板が瞬き、雑居ビルの壁面や歩道脇の置き式看板が夜の闇に鮮やかな色彩を撒き散らす。赤、青、黄――光の洪水が街全体を包み込み、建物の影は深く伸び、路面に映る光は揺らめきながら、まるで街そのものが息をしているかのように唸り声をあげていた。ざわめく人々の声、タクシーのクラクション、遠くで鳴るドラム缶のような低い振動音が混じり合い、夜の空気は重くも刺激的に押し寄せてくる。
その喧騒の中、ひとりの男が物珍しそうに歩いていた。八十郎、40歳。身長は170㎝ほど、中肉中背。ジャケットにジーパンという、街のネオンの下では目立たない、どこにでもいるような男である。とはいうものの、その凡庸な姿の裏側には、海外で「伝説の殺し屋」と恐れられた過去が隠されていたのだ。
客引きの若い女性が八十郎に近づく。年は十代後半か、軽やかな笑みを浮かべ、前触れもなく腕を絡め、男を自分の方に引き寄せる。
「……どうです? 一緒に飲みませんか?」
八十郎の眼は、周囲のあらゆる動きを一瞬たりとも逃さず捉えていた。髪の毛一本の揺れ、呼吸のわずかな乱れ、視線の微妙な軌跡まで、すべて掌握している。危害の兆候は今のところ微塵も見当たらない。だからこそ、彼はあえて相手を自由に動かしていた。
女性の説明によれば、この店は1時間3,000円で、水割りは飲み放題だという。20年ぶりに帰国した八十郎にとって、その値段は信じられないほど安い。断る理由など、端から存在しなかった。
≪これも縁か……入ってみるか≫
店内は思ったより狭く、天井から降り注ぐ照明は薄暗く、ぼんやりとした光が空間を満たしていた。空調は効きが悪く、わずかに湿った空気が重く漂い、壁や床から染み出すように体温に絡みつく。6人掛けのボックス席が5つ、簡素な木製の机と椅子が整然と並び、全体に無機質で冷たい印象を放っている。居心地の良さとは無縁で、どこか緊張を誘う空気が漂っていた。
カウンターには十代後半くらいの背の高い若い男性が立っていた。ぎこちなく笑顔を作り、頭を軽く下げるその姿は、八十郎の鋭い眼を逃れることはできない。不慣れで、緊張に縛られていることが手に取るようにわかる。
店内の空気は妙に張り詰め、静かな緊張感の中に微かに浮ついた活気が混ざっていた。グラスが触れ合う「カチリッ」という音、椅子の軋む「ギシッ」という音が、静寂を裂くように響き渡る。八十郎のほかには客は奥のボックス席に3人だけ。身長190㎝近く、厚い筋肉に覆われたボスらしき男が、派手な服装の女性と笑いながら酒を酌み交わしていた。彼こそ、このビルのオーナーであり、半グレ組織の幹部であったのだ。カウンター内の若い店員は、借金に縛られ、半グレの男に奴隷のように働かされていた。
カチリ――。グラスとグラスがぶつかる音が、店内の静寂を鋭く切り裂いく。
八十郎が席に腰を下ろして10分ほど経ったころ。
椅子から席を立ち、会計をしよとすると…
奥のボックス席で酒を傾けていた男――半グレの幹部が、カウンター内で働く若い店員に声をかけた。
「兄ちゃん、客がお帰りだぞ。会計だ。代金はしっかり請求しろ!」
その声が店内に響き渡るや否や、空気は一瞬で凍りついた。グラスの縁を撫でる氷の音すら、かすかに止まったかのように感じられる。背の高い店員は命令を受けたかのようにぎこちなく体を動かし、八十郎を睨みつけながら、信じられない言葉を震える声で吐き出した。
「おい、親父。代金は100万円だ。カードで払え。カードを出せ! 命が惜しくないのか?」
店内は息を呑むように静まり返る。乾いた沈黙の中、半グレの男が喉の奥で笑いを弾ませた。
「ガハハッ――!」
その笑い声が狭い店内の壁に跳ね返り、軽く振動して耳に響いた。
八十郎の銀行口座には数十億が眠っている。100万円程度など、微塵も痛くもかゆくもない。若い店員は追い詰められた表情を浮かべ、まるで命令されるままに八十郎に言葉を叩きつけてくる。
「親父! 俺は本気だ! 本当に金を出せ!」
鋭い視線が八十郎を射抜き、店内の空気がさらに濃く、重くのしかかる。40過ぎの親父は微かに呼吸を整えながら、相手の動きを冷静に観察していた。
煙草の焦げた香り、アルコールの甘い匂い、そして微かな木材の香り――店内に漂う匂いの一つ一つが、彼の感覚を研ぎ澄ませる。周囲の視線が一斉に八十郎に集まり、ざわめきと緊張が絡み合った空気が、さらに重く彼の肩にのしかかるのを感じた。
心の奥底で、八十郎は自分の流儀を反芻する。仕事以外では人を傷つけず、できるだけ真っ当に生きること。それが信条であり、この場を何事もなく抜け出すことが唯一の望みである。
その刹那、店内の空気が突如として変わった。まるで壁や天井が圧縮されるかのような、異様な重さ――。八十郎を包み込む、圧倒的な存在感がそこにあった。
視線の先に立っていたのは、二十歳前後に見える少女――純血の魔女、六惺がそこにいたのであった。




