第26話 絶対なる支配者③
強靭な肉体と、揺るぎない精神力を併せ持つ九重は、表面的には正気を保っていたものの、目に見えぬ圧力にじわじわと押し潰されそうになっていた。いや、押し潰されているのかもしれない――キモデブが展開する『支配領域』の効果により、皮膚の下を這うように、精神の奥底を削り取られていたのである。息をひそめれば瞬時に洗脳され、意識を奪われてしまう――とはいうものの、多くの死線をくぐり抜けてきた拳闘士としての経験が、彼女を支えていたのだろう。極限の状況下においても、冷静さをぎりぎり保っていたのであった。
拳闘士の勘は鋭く、追い詰められた状況においても、九重は敵の微細な動き、足の運び、肩や腰の角度から放たれる圧力を瞬時に読み取り、戦局を分析し続けていた。
距離はおよそ20m。標的となるブヨブヨのデブは、一般成人男性の平均以下の敏捷性しか持たない。理論上は、一撃で仕留めるチャンスが十分にある。しかし、九重の感覚はそれ以上の危険を察知していた。――視界の異変である。
『支配領域』に足を踏み入れた瞬間、周囲の風景が微妙に歪み、陽炎のように揺らぎ始めていたからだ。思考はまだ奪われていないはず。理性は生きているはずなのに、本能が激しく警告を発している。――危険だ、攻撃してはいけない、無理をするな、と。
≪視覚がおかしいのは何故なのか。少なからず『支配領域』の影響もあるのだろうが、本当にそれだけなのか――。一気に攻撃すべき状況なのに、どうも嫌な予感がする。それに、私が正気を保っているにもかかわらず、奴が無防備でいるのは不自然すぎる!≫
九重は拳闘士としての経験を総動員し、敵の罠を警戒した。予期せぬ状況に遭遇すれば、人は簡単にパニックに陥る。だからこそ、戦闘では特定の条件や環境を想定し、何度も頭の中でシミュレーションを重ねておく必要がある。しかし今、九重はその想定外の状況に直面し、次の一手を決めかねていた。
もし肥満体型のロリコン神父へ攻撃を仕掛ければ――いや、仕掛けようものならば――九重は強烈なカウンタートラップにかかり、致命傷、あるいはそれ以上の損傷を避けられない、のではないかと考えていた。
――そう。実際に、その直感は当たっていた。
キモデブの黒魔術士は、『リフレクト』という最強クラスのカウンター魔術を展開していたのであった。
『リフレクト』とは、魔術原理における“曲げる”性質を応用する。敵の攻撃をそのまま跳ね返す禁忌魔術だ。『支配領域』に耐えうる者が現れた際に発動される。まさに最後の防衛手段であり、九重のように突出した戦闘能力を持つ者に対して、最大の効果を発揮する仕組みであった。
最強の『領域魔術』と、最強の『カウンター魔術』――二つの術式が並列に展開され、『難攻不落の要塞』を形成していたのであった。
その精巧さは500年に一人の鬼才と評された枢機卿さえ舌を巻くレベルであり、ロリコンデブは歴史に名を残す魔術士になっていたかもしれない。動機は不純かもしれない。だが、女子小学生への異常な執念が、最強の二つの術式を生み出す超高等技術として結実しているのだ。――そう、このキモデブは、紛れもなく真の天才であったのだ。
彼の視点に立てば、『領域支配』を突破されたとしても、『リフレクト』の反射で容易に敵なる存在を排除できたはず。しかし、人狼の五感は異常に研ぎ澄まされており、違和感を察知されてしまったのである。
肥満体型の神父は、圧倒的有利な立場にいながらも、九重が攻撃してこないことに苛立ちを募らせていた。
≪この女、いったい、なぜ攻撃してこないのだ――!≫
≪俺の仕掛けた『カウンタートラップ』、察知されたのか……?≫
≪ここで『リフレクト』を解除して、こちらから仕掛けるべきなのか――いや、そんな危険は冒せない!≫
≪いや、解除できるのは『リフレクト』だけじゃない――『領域支配』の方か……だが、それも手出しできん!≫
≪畜生っ……! どうして、俺に牙を剥かないのだ――!≫
黒衣を身にまとい、腹回りがずしりと迫る異様な体躯――通称ロリコンの黒魔術士は、内心で苛立ちを噛みしめていた。拳を握りしめるたび、皮膚の下で血管が脈打つのが手に伝わる。自らが展開している『リフレクト』――外部から放たれるあらゆる攻撃を跳ね返し、己の身を完全に守る、極めて強力な防御魔術。だが、どんな防御でも万能ではないことを、彼自身が一番理解していた。
とはいうものの。
この結界を解除するという行為――それ自体が、常人なら躊躇するほどのリスクを孕んでいる。
もし今、解除の瞬間に待ち構えていた一撃が直撃すれば、即死は免れない。だからこそ、黒魔術士は身動きできず、指先一つすら震わせることができないでいた。時間だけがじりじりと、まるで砂時計の砂が落ちるように、静かに削られていく。
同様に、九重もまた微動だにしていなかった。いや、正確には“動かない”のではなく、動かないことを意図的に選んでいるのだった。彼女の眼差しは、相手の動きも空気の震えも、すべてを計算する精密な観測装置のように冷静である。
戦場に漂う異様な静止。
張り詰めた空気は、互いの存在を押し潰すかのように重く、冷たい。スゥ……ハァ……と、湿った息が神父の喉を震わせ、額から汗となって滴り落ちる。肌にまとわりつくような緊張感、魔力の微細な振動が、戦場全体を震わせている。
本来であれば、この状況で冷静な神父が取るべき最善手は逃走であった。生存確率を最優先に考えれば、理性的な選択肢はそれしかなかっただろう。
――だが。
デブの脳裏に、その選択肢は一切存在していなかった。時間をかけ、執念深く標的を絞り込み、ようやく眼前に捉えた女子小学生。その存在を目前にして立ち去れるほどの理性も、自制心も、彼には皆無であったのだ。
その瞬間だった。
沈黙を切り裂くかのように、九重が一歩踏み出す。足先が微かに砂利を踏む音が、“カリッ”と響き、戦場に微細な波紋を広げる。小さく、しかし確信を帯びた声が空気を震わせた。
「おい。キモデブ。殺されたくなければ、今すぐここから消えろ!」
挑発。侮辱。だが、それは緻密に計算された戦術であった。
九重――人狼の女にとって、目の前の肥満体型の神父を見逃すという選択肢は最初から存在していない。相手の情報を引き出すため、手札を暴かせるため、あえて怒らせて動かす。そのために精緻に練られた言葉だったのだ。
――すると。
黒衣の神父の反応は予想以上に速かった。蓄積した苛立ちが、ついに限界を突破したのである。拳闘士の言葉が耳に入った瞬間、キモデブの頭脳内で何かが“カチリ”と音を立て、スイッチが切り替わったかのようだった。
「おい。キモデブとは誰のことだ。まさか俺のことを言ってるんじゃーないだろうな!」
血走った目で睨みつけ、声を張り上げる。額から脂汗が滴り落ち、顎の肉がぶるりと震えた。
「何をとぼけていやがる。まーいいだろう。教えてやろう。キモデブとは気持ち悪いデブの略だ。見る限り、お前しかいないじゃないか!」
容赦なく核心を突く言葉。黒魔術士のプライドを、まるで鎚で打ち砕くかのように叩き潰す。
「俺を誰だと思っている。俺は黒魔術教会の枢機卿に認められた男だぞ!」
「そうか。お前は枢機卿に、醜い肥満体型の親父だと認められたのか。というか、キモデブのくせに口ごたえするなよ!」
「いい加減にしろよ、クソババア。俺はまだ親父じゃないんだぞ、訂正しろ!」
「いや。お前は誰がどう見てもキモデブのクソ親父だ。そして性的犯罪者で、私にこれからぶち殺される、ただの変態デブである!」
ズガン、と。
言葉がまるで鉄槌のように叩き込まれ、神父の脳裏を揺さぶる。
「何度もデブデブデブと繰り返すんじゃない! どうしても殺されたいようだな。いいだろう。お前は『3重魔術』を並列発動させ、ぶち殺してやろう!」
怒号とともに、周囲の魔力がざわりと蠢く。空気が歪み、肌を刺すような圧が伝わってくる。魔力の渦が肌に触れ、髪を逆立てるほどの熱を帯びている。
「『3重魔術』を並列発動? つまり三つの魔術を同時に展開するつもりなのか?」
九重の声は驚きより冷静さを帯びていた。まるで戦場全体を俯瞰しているかのように、静かで確信に満ちている。
「ほーう。お前、少しは魔術を理解しているようだな」
「……」
「俺様がいかに凄いか、少し教えてやろう」
胸を誇示するように張ると、脂肪の下で魔力が脈動するのが手に取るように分かる。力が渦巻き、肌の下で熱と圧力が微細に変化する。
「キモデブのくせに偉そうにするな。ロリコンの性犯罪者が、一流の魔術士のはずがないだろう!」
「クソババア。いい加減にしろよ。俺は天才だ。今、普通の者では不可能なことをしている。『支配領域』と『最強のカウンタートランプ』なるS級魔術を俺様は並列展開させているんだ!」
「カウンタートラップだと。ふん。人間のふりをするのはやめろ。お前はキモデブ、人ではない。言葉を喋るな!」
「そうか。お前、俺を怒らそうとしているな。無駄なことはやめておけ!」
「いや、もう怒っているだろう。キモデブのくせに生意気な奴め。お前は何をしても、気持ち悪い生き物であることを自覚しろ!」
一瞬の沈黙。――空気が厚く、まるで鋼板のように重く圧し掛かる。
そして――。
「クソババア。お前、死んだぞ。確実に、ぶち殺してやる!」




