第22話 剣豪 vs 拳闘士⑦
空からひらり、と、闇に溶け込むような黒い影が舞い降りた。六惺の使い魔にして、ギルドマスターと自らを名乗る““烏””である。羽ばたく音はほとんどなく、まるで重力を軽くいなすかのように石張りの広間へ滑るように着地をした。羽を折りたたむと、漆黒の瞳がゆっくりと八十朗へと向けらていく。
「剣豪。お前。手加減をしておるのか?」
その問いは低く、しかし確固たる響きを帯び、空気の振動が微かに床石を震わせた。
「…」
八十朗は口を開かない。呼吸すらも緊張の中に溶け込み、息を殺す音だけが空間に残る。
「何故、全力で戦わないのだ?」
烏の声は、単なる鳥の鳴き声ではない。耳を打つその声は、戦意そのものを揺さぶる刃のようである。
「いや。烏様が、これは相手を殺すための決闘ではなく、生かすための戦いだと言っていたではありませんか!」
「ほーう。我が、そんな格好いい台詞を言っていたのか?」
「はい。言っていました」
「剣豪よ! 我の言葉を肯定するにしても、重要なポイントが抜けておらんか!」
「……。言い直します。はい。烏様がとても““恰好いい””台詞を言っておりました…」
「うむ。我が無理矢理に、““格好いい””と言わしたみたいになってしまったな」
「確かに言わされた感はありますが、滅茶苦茶““恰好いい””というのは本音でございます」
「そうか。お前。一段と出来るようになったな」
「有難うございます」
八十朗の肩から、戦意の光が徐々に引いていくようだった。妖刀・村正が、まるで勝手に剣豪の体に収まるかのように静かに滑り込み、緩慢でありながら決して力を失わない微妙な緊張を帯びて揺れていた。刃先に宿る気配は依然として鋭く、しかし今は戦意の押し付け合いを超えた、凛とした静寂を生むだけであった。
九重はそのやりとりを、心の奥底で呆れ混じりに見つめていた。金塊を取り戻すため、血と汗にまみれて剣豪と命を賭けて戦ってきた最中、突如滑り込む奇妙な会話――妖しく間の抜けた対話――に心底戸惑わされる。とはいうものの、戦場において主導権がこちらにない以上、口を挟む余地は微塵もない。
その時、烏が翼をわずかに揺らし、九重へ向けて提案する。
「拳闘士よ。今日のところは引くがよい」
「…」
「どうした。浮かない顔をしておるな?」
「はい。神々しい光を放つ烏様に聞きたいことがありまして…」
「ほーう。我の姿が神々しく見えるのか。六惺は我を、そこら辺にいるただの烏と変わらぬと言っておったが、実際は何が真実なのだ?」
「はい。小娘の目が節穴でないかと思います」
「そうか。やはり六惺は節穴と思うか?」
「はい。所詮、小娘ですから」
「うむ。その言葉には説得力がある! 我はお前を信じることにしよう!」
「はい。私は知性派ですから!」
「つまり、暴虐系の魔女と、お前を一色単の扱いにするなと言っているのだな?」
「さようでございます。先日も小娘はわけの分からない理屈を並べ立てておりました」
「うむ。六惺は歴史的に見ても最も危険なサイコパスだしな。我の姿が曇って見えているのも当然ということか…」
「まったくもって、その通りだと考えます」
「やはりそうか。拳闘士。お前に褒美を与えよう。我に何なりと質問するがよい」
「有難うございます。質問とは、このコロッセオ以外にも、このような施設が存在するのかを教えてもらえないかと思いまして」
「他の施設か。例えばじゃが、宝物庫なるものがどこかにあるかを聞きたいのか?」
「宝物庫ですか。そんな場所もあるのでしょうか?」
「うむ。宝物庫ならば、確か『ギルド会館』の奥にあったはずだな。そんなことを聞いてどうするつもりなのだ?」
「少し気になっただけのことです」
「そうか。ついでに教えてやるが、確かその宝物庫には、世界の秘宝『アルカイックレコード』があったはずじゃぞ!」
「世界の秘宝って、凄いじゃないですか!」
「まー、それほどでもない。フォフォフォフォ」
『アルカイックレコード』――。
その言葉が、九重の口を滑り出た瞬間、彼女の声はかすかに震え、いつもより高く上ずった。まるで熱を帯びた空気が微かに振動したかのように、周囲の空気がさざめき、視界の隅で微妙な波紋を描いたのだ。
黒魔導士教会の者たちが、文字通り血眼になってその欠片を探しているという噂は、彼女の耳に届いていた。24金150㎏の価値など足元にも及ばぬ、途方もない存在。それこそが――『アルカイックレコード』なのだろう、と九重は本能で悟っていた。
拳闘士である彼女の瞳は、内側から炎が灯るように光り輝いていく。その輝きに目を止めた烏は、細く微笑みを浮かべ、軽い調子で、しかし確実に重みのある提案を投げかけたのだった。
「拳闘士。剣豪との戦いは、引き分けとする。受け入れぬならば……」
その言葉の最後は低く沈み、空気そのものが凍り付くかのような静寂が一瞬支配した。張り詰めた空気の中、遠くで旗がひらりと揺れる音すら、まるで鼓動のように響いたのだ。
「アリーナ席に座る、暇を持て余す魔女の姿が見えるか? あのサイコパスが、もう死にそうなほど退屈しておるようだ。これ以上戦闘を続けるようなら、お前たちを根絶やしにすると、はっきりと宣告しておるのだ」
「魔女が、そんなことを……」
「うむ。これは脅しではない。れっきとした警告だ。あれは頭のネジが外れた殺人鬼だ。我が止められるのはここまでとなるだろう。提案を受け入れろ!」
九重は一瞬、息を呑んだ。戦場の空気は緊張で歪み、まるで視界の端が揺らぐかのように感じられた。拳を軽く握り締め、小さく頷く。
「承知しました。引き分けの提案、受け入れさせてもらいます」
「うむ、さすがだな。賢明な判断である。お主、やはり見どころがあるのう」
「ありがとうございます」
「これも何かの縁だ。お主、うちのギルド会館で働かぬか?」
「私がギルド会館に……ですか?」
「給与もちゃんと支払う。安心せよ」
「ありがとうございます」
「昨日、24金がたっぷり手元に入ったばかりだ。金に困ることはないからのー」
「その24金……私の24金ですよね?」
「うむ。今日からは共に働く仲間だ。細かいことは気にするでない」
烏は、拳闘士である九重がこの話に乗ることを、事前に十分に理解していた。六惺が詳細に調べ上げた情報に基づく計算通り、彼女の強欲な性格と歩みは、布石として完璧に整っていたのだ。
九重の視線は、未確認生命体のような純血の魔女の圧倒的な力に圧されつつ、目の前で悠然と口を利く烏に、常識の枠が一気に崩れていくのを感じた。街中に忽然と出現した巨大コロッセオ。そこに眠ると直感される、とてつもない秘宝――『アルカイックレコード』。その存在は、彼女の心を知らず知らずのうちに引き寄せていた。
≪私は強欲なる者。24金はもう手元に戻ることはないのだろう。しかし今は、『アルカイックレコード』だ。このギルド会館に潜入できるなら、このチャンスを逃す手はない。次元を超える何かが、確かにここにある――そう本能が告げている≫
そのやり取りを、口角を吊り上げた烏と、黄色い髪の女を見つめながら、八十朗は胸の奥にやるせなさを抱えていた。剣豪である父は知っていた。烏こそが最も外道であることを――。
六惺は興味なさげにアリーナ席で何かを書き綴っている。観察者の視線の奥底で、世界は静かに、しかし確実に動き出していた。
再び、烏の声が九重に降りかかる。
「拳闘士。安心せよ。そこの剣豪も、『ギルド会館』の職員だ」
「……」
「いつでも辞めても構わぬ。どうするのだ?」
「……」
九重は、静かに、しかし確固たる意志をもって頷いた。
人狼の女は、この後、未知の力を手に入れ、新たな世界に踏み込むのである――その覚悟を胸に、戦いと運命の渦へと足を踏み入れたのであった。
⭐️を頂けると、有難いです。
よろしくお願いします。




