第2話 純血の魔女②
彼女には、『犯罪指数』以上の制裁を与えられないという『誓約』が課されている。
とはいうものの、その内側にある本質は、『純粋な悪』そのものだった。
生粋のサイコパス。
人類史に名を刻むレベルの、最も危険な殺人鬼に類する存在である。
制約によって、悪党しか狩れない。
ただ、それだけの話だ。
神の存在など、信じるはずもない。
ものの、外道を心置きなく殺せる状況に置かれると、心は自然と高揚していた。
口角が、意識せずとも、じわりと吊り上がっていく。
彼女の趣味は、外道達を殺すこと。
街の治安を守るためでも、誰かを救うためでもない。
誰かの役に立つために悪党を殺したことなど、一度もなかった。
その六惺へ向けて、殺し屋の1人が動いていた。
仲間が反撃され、地面に沈む光景を目の当たりにし、理性が吹き飛んだのだろう。
警棒を伸ばし、怒り任せのフルスイングを開始いていた。
ブンッ――!
一直線に振り下ろされる警棒。
狙いは、無防備に見える魔女の脇腹。
だが六惺は、その動作を視界に収めながらも、避ける素振りすら見せなかった。
余裕綽々な表情。
むしろ、この先に起こる出来事を思い描いているかのように、愉快そうに笑っていたのである。
次の瞬間――
警棒が、六惺の腹部へ直撃した。
ゴン……ッ。
深夜の都市に、とてつもなく鈍い音が響き渡る。
それは、肉を打つ音ではない。
巨大な鉛塊、あるいはコンクリートの塊を殴りつけたような、不自然な感触。
殺し屋の手が、ビリビリと痺れ、力が抜ける。
カラン、と警棒が地面へ転がった。
一方で、魔女の細身の体は――
ピクリとも、動かない。
あり得ない。
そう理解した瞬間、殺し屋の頭から血の気が引いていった。
さっきまで沸騰していた思考が、急速に冷却されていく。
≪なんだ、これは……電信柱を殴ったのか? 防弾チョッキ? いや、違う。この感触は……≫
美少女の姿をした魔女と、視線が交差した瞬間、背中へ冷たいものが走り、ゾクリと凍り付いていた。
――知っている。
この瞳を、男は知っている。
弱い者をいたぶり、殺すときに浮かべる目。
自分が、これまで何度も向けてきた側の視線だ。
殺し屋は悟った。
自分は、狩る側ではない。
狩られる側だ。
目の前で口角を吊り上げている女は、絶対に関わってはいけない存在だったのだと。
≪この女は人間じゃない。化物だ。やばい、マジでやばい。殺される。逃げなきゃ……≫
魔女は、男の表情が恐怖へ染まっていく過程を、実に楽しそうに眺めている。
震え、浅くなる呼吸、泳ぎ出す視線。
その一つひとつが、彼女にとっては上質な娯楽だった。
殺し屋は、これまで情け容赦なく人を殴り殺してきた。
自分こそが、神に選ばれた最強の存在だと信じて疑わなかった。
殺しで得た金で遊び尽くし、その快楽が永遠に続くと、本気で思っていた。
自分達が、狩られる側に回る日が来るなど、想像したこともなかった。
だが――
本物の悪魔に、出会ってしまったのだ。
男は、ついに神に祈る。
≪神様……もう絶対に悪いことはしません。だから、ここから……この悪魔から、俺を逃して下さい≫
――神に懺悔した、その瞬間。
すでに、男の人生は終わっていた。
逃げようとしたのか。
それとも、生存本能が勝手に身体を動かしただけだったのか。
反射的に体を反転させた、その刹那――
ゴッ、という鈍く、重たい破砕音が、夜の空気を無慈悲に切り裂いた。
見えていなかったのだろう。
あるいは、見えたところで意味などなかったのかもしれない。
――――魔女から繰り出された上段蹴り。
それは寸分の狂いもなく、一直線に、男の頭部を捉えていたのである。
次の瞬間。
頭蓋骨が砕け散る感触を感じる暇など、与えられなかったはず。
それほどまでに、その一撃は圧倒的だった。
先ほど叩き込まれた裏拳とは、もはや比較にすらならない。
バイク用のジェットヘルメットは、パァンッ、と乾いた音を立て、まるで紙細工のように粉砕されていく。
砕けた破片が宙を舞い、夜風に煽られてキラキラと飛び散っていった。
殺し屋の男の身体は、漫画のワンシーンのように軽々と宙を舞う。
そして――ゴンッ。
鈍い衝撃音を残し、建物の外壁へと叩きつけられ、そのままずるりと壁にめり込んでいた。
動かない。
ぴくりとも、だ。
完全な死。
疑いようのない、終わりであった。
残った3人目の男は、その一連の光景を目の当たりにし、ようやく理解していた。
――勝てない。
――関わってはいけない存在だ、と。
理屈ではない。
理性でもない。
魂の奥底に直接刻み込まれた、抗いようのない本能的な警告だった。
男は猫のように身軽に翻る。
ダンッ、と地面を強く蹴り、一直線に、乗ってきた車の運転席へと飛び込んだ。
スタンガンを喰らい、警棒で殴りつけられてなお、何事もなかったかのように立ち続ける女。
その女が、蟻を踏み潰すかのごとく、仲間を楽しげに殺していく。
そんな悪夢じみた光景を前にして、選べる道は1つしかなかった。
――逃げる。
ただ、それだけだ。
≪待ってくれ……! 頼む、殺すのだけは……それだけは勘弁してくれ!
俺は、あの二人に言われただけなんだ……殺し屋の、その手伝いを……!
畜生……畜生、畜生……!
どうしてだ……どうして、こんなことになっちまったんだよ……!≫
男は運転席に身体をねじ込むように滑り込み、震える手でキーを捻る。
ブルンッ。
エンジンが唸りを上げた。
アクセルは限界まで踏み抜かれる。
キィィィッ――
甲高い悲鳴を上げてタイヤがホイルスピンを起こし、排気音が夜の静寂を粉砕する。
車体が大きく揺れ、前へ、前へと突き進もうとした、その瞬間――
純血の魔女――六惺は、その一部始終を、実に楽しそうに眺めていた。
とはいうものの、殺し屋を1人でも逃がすつもりなど、毛頭ない。
六惺は、逃走しようとする車を指さすと、まるで戯れのように、軽やかに呟いた。
「お前は――もう、死んでいる」
――ドンッ。
次の瞬間。
車体の下から、深紅の火柱が噴き上がった。
純血の魔女が、魔道によって創り出した『運命の戦車』。
それが、正確無比なタイミングで起爆したのだ。
⸻
【運命の戦車(semita fatum chariot)】
六惺が好んで使用する、地面を走る追尾型の爆弾。
その爆発によって生み出される炎は、『懺悔の炎』と呼ばれる。
大罪を犯した者を、確実に地獄へ送り届けるために創り出された、魔女の炎。
それは、この世界に存在しない炎である。
一切の熱を持たず、触れても焼ける感覚すらない。
ものの、この炎に包まれた者は、存在そのものを否定される。
肉体も、痕跡も、記録も――
この世界から完全に消え去るまで、燃やし尽くされるのだ。
⸻
使い魔の烏。
その視界を通し、天空からワゴンカーが接近してくる映像を確認した時点で、六惺はすでに『運命の戦車』を精製していた。
車の速度。
進路。
到達時間。
すべてを計算し、その真下へと、あらかじめ忍ばせていたのである。
男が運転席に飛び込み、エンジンをかけた。
――まさに、その瞬間を狙っての爆破だった。
ワゴンカーの下から、深紅の火柱が立ち上る。
ゴウッ、と音だけが周囲の空気を震わせる。
だが、車体そのものが燃え上がる様子はない。
塗装も、金属も、形を保ったままだった。
つまり。
運転席に逃げ込んだ殺し屋だけが、『懺悔の炎』に焼かれているのである。
ふと気づけば。
先ほど六惺に裏拳を入れられた男からも、蹴り飛ばされた殺し屋の死骸からも、同じ炎が立ち上っていた。
純血の魔女に殺された者は、例外なく地獄送り。
それが、定めである。
六惺は、この状況を心底楽しんでいた。
彼女は『管理者』として生まれ、この世界に眠る秘密を護る使命を背負っている。
ものの、その本質は、生粋の悪。
人を殺すことに、至高の喜びを感じる性格だった。
ただし、制約がある。
殺せるのは、悪人のみ。
――それだけだ。
熱を持たない異様な火柱。
違和感を覚えた者たちが、ざわざわと周囲に集まり始めている。
通報を受けた警察官たちも、じきに駆けつけてくるだろう。
六惺が殺し屋の頭を踏み潰し始めた、その時。
ビルの屋上にいた使い魔の烏が、ふわりと魔女の足元へ舞い降り、この場から去るよう促してきた。
「六惺。仕事が終わったのなら、無駄に長居はするな。すぐ撤収だ」
「師匠。すべて、承知しております」




