第17話 剣豪 vs 拳闘士②
拳闘士が、最も高い戦闘能力を発揮できる間合い――それは10mである。
理論上の数値ではない。机上で組み立てられた仮説でもなかった。
人間という種が本来持つ限界値を、遥かに、あまりにも遥かに踏み越えた運動能力を前提とし、実戦の中で幾度も血と死を積み重ねた末に導き出された、紛れもない結論だったのである。
筋力。
瞬発力。
反射。
そして、殺意。
それらすべてを一瞬に束ね、爆発させ、距離という概念そのものを喰らい尽くす。
踏み込んだ瞬間には、敵はすでに殴られている。
そういう“結果”を生むために、最適化された距離――それが10mだった。
踏み込みは、刹那。
筋肉の収縮と解放が、ほぼ同時に発生する。
脚部から胴体へ、胴から肩へ、肩から腕へ。
力は途切れることなく伝達され、収束し、放たれる。
ドン、と地面を蹴るはずの音は、しかし、常に遅れて耳へ届く。
音よりも、動きのほうが先に世界を置き去りにするからだ。
拳闘士が瞬発力を爆発させた瞬間に生まれる初速は、時速500km超。
もはや「速い」という語彙で表現できる領域ではない。
人間の反射神経が“認識できる”という前提そのものを、遥か彼方へと放り捨てる速度だった。
知らぬ者からすれば、回避は不可能。
気づいた時には、すでに終わっている。
だからこそ、その一撃は――初見殺しと呼ばれた。
一瞬で距離をゼロに塗り替える、その異常な速度。
やがてそれは、『縮地』という名で語られるようになる。
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九重は、親父――八十郎を正面に捉えたまま、確かめるように歩を進めていた。
速くもなく、遅くもない。
慎重さと余裕が同居した、奇妙な歩調。
一歩。
また一歩。
砂利を踏みしめる音が、ザリ、ザリと響く。
その音が、やけに大きく耳に残る。
空気が張り詰めている証拠だった。
肺に取り込む呼吸でさえ、場違いなノイズのように感じられる。
沈黙。
視線。
気配。
気配と気配が、見えない刃となって、空間の中央で噛み合っている。
二人の間合いが、12mまで詰まった――その瞬間だった。
九重は、この距離から剣豪を仕留めると決めた。
いや、決めてしまった、というほうが正しいのかもしれない。
理屈ではない。思考ですらない。
拳闘士として積み重ねてきた経験と、人狼としての本能が、同時にそう告げていたのだ。
この間合いで、『縮地』を叩き込む。
そのための準備に、九重は入ろうとする。
意識を、さらに深く沈める。
集中を、極限まで研ぎ澄ます。
視界の端が、じわりと霞む。
音が削ぎ落とされ、匂いが薄れ、余計な情報が次々と消えていく。
世界が、狭まる。
薄まる。
標的だけが、くっきりと浮かび上がる。
――そのタイミングだった。
それまで微動だにしていなかった八十郎が、ほんの僅かに動いた。
重心が、わずかに移る。
たったそれだけ。
とはいうものの、それは確かな「アクション」だった。
突出した空間把握能力を持つ男が、拳闘士の内に芽生えた殺意の兆しを読み取ったのだ。
そして、この段になってようやく、戦う決意を固めたのだろう。
剣豪は、すでに理解していた。
次の瞬間、何が起きるのかを。
九重の内に眠る人狼の本能が、動き出した八十郎の気配に触れる。
ぞわり、と背筋に冷たいものが這い上がった。
≪私が決めにいこうとした、そのタイミングで動いてくるのか。
まさかとは思うが……こちらの動きを、読んでいる?
嫌な空気だ。とはいうものの、仮にそうだとしても――
人間ごときが、私の一閃を回避できるはずがないだろ!≫
九重の本能が、『縮地』の発動を寸前で制止した。
完全な踏み込みには至らない。
ものの、攻撃態勢は崩さない。
筋肉は張り詰め、きしむほどに力を溜め込み、
いつでも爆発できる状態を維持したまま、親父の動向を見極める。
そして――。
信じ難い光景が、視界へと滑り込んできた。
八十郎の手のひらから、ぬるりと、剣先が姿を現す。
まるで肉体そのものを割り、内側から金属が滲み出てくるかのような、
不自然で、冒涜的な出現の仕方だった。
ぴちゃり、と。
粘つく音すら、幻聴として耳に残る。
――『妖刀村正』。
その名を冠する刃は、疑いようもなく、そこに“存在していた”。
突如として現実の只中に打ち込まれた楔のように、異様な存在感を放ち、周囲の世界を歪ませている。視界の端が、じわりと揺らいだ。空気は粘性を帯び、肌に触れる感触が、まるで別物に変質したかのように感じられる。温度が、ほんの数度――いや、数値で測れば誤差の範囲かもしれない。とはいうものの、確実に“冷えた”と断言できる感覚が、背中を這い上がってきていた。
ひたり。
重く、濃密な沈黙が、その場を覆い尽くす。
音が消え、時間の流れさえ鈍化したかのようだ。
≪手のひらから……刀が、出てきている?
どういうことだ。魔術士ではないはず……。
まさか……普通の人間じゃないのか?≫
九重の思考が、ぎ、とわずかに軋んだ。
一般人であれば、手品だ、巧妙なトリックだと笑い飛ばして終わるだろう。だが、人狼の五感は、そうした生温い解釈を許さない。視覚、嗅覚、聴覚、触覚――そのすべてが、欺瞞や錯覚を見逃さぬほど研ぎ澄まされている。
魔術であれば、必ず兆候がある。
どれほど微細であろうと、魔力の波動は嗅ぎ取れる。
だが――ない。
一片の魔力反応すら、存在しない。
そこにあるのは、異物が肉体を割って現れたという、あまりにも生々しく、あまりにも単純な事実だけだった。
九重は、理解してしまった。
してしまったがゆえに、背筋を冷たいものが走る。
――妖刀村正は、体内から出現している。
そう正確に把握した瞬間、思考は逆に混乱へと傾いた。
想定外、という言葉では足りない。
非常識ですら生ぬるい。
あり得ない。あるはずがない。だが、否定の余地はどこにもなかった。
現実が、目の前に突きつけられている。
全身の筋肉が、無意識に、ぎゅっと収縮する。
皮膚の下で筋繊維が軋み、獣のように張りつめていく感覚。
戦闘態勢への移行は、もはや反射だった。
≪……やはり、ただの親父ではなかった、というわけか。
だが――≫
一拍。
思考が、そこで断ち切られる。
≪フィジカルのアドバンテージが、私にある事実は変わらない≫
揺らぎは、瞬時に抑え込まれた。
九重は、多くの修羅場を潜り抜けてきた拳闘士である。
常識外れの光景に驚愕はした。ものの、冷静さまでは手放していなかった。
やることは、変わらない。
選択肢も、すでに決まっている。
絶対回避不可能の加速――『縮地』。
それで、敵を仕留める。
ただ、それだけだ。
八十郎の手には、刀身1mを優に超える妖刀村正が収まっている。
構えはない。
肩も肘も、驚くほど自然に落ち、力みが一切感じられない。
まるで、刀と身体の境界そのものが溶け合っているかのようだった。
人狼は、勝利の方程式がすでに揃っていると確信する。
次に、半歩。
足を前に出した、その瞬間。
その刹那に、親父の人生は終わる――はずだった。
九重は、意識を深く沈めていく。
呼吸が落ち、鼓動が均一になる。
全身の筋肉が、水のように緩み、しかし粘りを帯びていく。
頭の中が、どろりと溶解し、余計な思考が消え去っていく。
理性が後退し、本能だけが、刃のように研ぎ澄まされる。
――肉食獣が、獲物を定め、飛び出す、その瞬間。
ドンッ。
爆発音にも似た踏み込み。
地面が悲鳴を上げ、拳闘士の瞬発力が限界を超えて解き放たれた。
『縮地』発動。
初速、時速500km超。
標的に到達するまで、0.1秒以下。
人間が反応できる領域ではない。
未来を知らなければ、初見での回避は不可能。
九重の指先が、一直線に伸びる。
――八十郎の喉元を、貫く。
はず、だった。
だが。
八十郎は、動いていた。
ほんの僅か。紙一枚分。
身体をそらし、致死の軌道から外れる。
剣豪は、空間そのものを読んでいた。
空気の揺らぎ。
塵のわずかな舞い。
筋肉が収縮する前兆。
それらすべてを、視るより先に“感じ取って”いたのだ。
だからこそ、動けた。
拳闘士の指先が、男の喉元をかすめる。
ヒュッ、という鋭い空切り音が走る。
次の瞬間、二人の体勢が、すれ違うように入れ替わった。
九重の息遣い。
筋肉の張り。
脈拍の、ごく微細な変化。
それらすべてを捉えた上での、神業であった。
拳闘士は、自身の最高速の一撃を寸前でかわされても、表情を崩さない。
必殺を外した衝撃は、確かに重い。
とはいうものの、勝利への確信までは揺らいでいなかった。
一流の格闘家は、初撃で相手の力量を測るという。
九重は、理解している。
初撃を回避されたことで、剣豪との力関係を、むしろ正確に把握したのだ。
≪初撃を回避されるとはな……。
先読みに長けているとしか思えない。なるほど、伝説の殺し屋か。
私に拮抗する戦力値であることは認めよう。
だが、魔女ほど圧倒的ではない。
多少先を読まれたところで、力と速度で押し切れる。
体力と回復力に勝る私の方が、戦闘時間が伸びるほど有利になるはずだ≫
剣豪攻略の方針は、明確に定まった。
力と速度で圧をかける。
少しずつ、確実に体力を削る。
無理に踏み込む必要はない。
詰将棋のように、淡々と。
一手ずつ、勝利へと進めばいい。
一方の八十郎は、初撃を紙一重でかわした瞬間、確かに肝を冷やしていた。
ものの――恐怖は、即座に沈む。
時速500kmで放たれる攻撃。
それは、想定内だった。
そう。
その程度の一撃は、来ると読んでいたのだ。
そして、この先。
少しずつ、だが確実に。
戦場の空気は変質し、
二人の明暗は、否応なく、はっきりと分かれていくことになる。




