第16話 剣豪 vs 拳闘士①
真っ青な空から、太陽光が一直線に落ちていた。
逃げ場など、最初から存在しない。
雲はない。影もない。
ただ白く、ただ鋭く、ただそこに“ある”だけの光が、無差別に地上を焼いている。
湿度は、ほぼ0。
空気は完全に乾ききり、息を吸うたび、喉の奥がきし……と微かに鳴いた。
――5万人は、軽く収容できるだろうか。
闘技場は、360度すべてを包囲するように、アリーナ型の観客席が幾層にも、幾重にもせり上がっている。
巨大な円環構造。
視線を一周させるだけで、首の筋肉が悲鳴を上げそうなほどの規模だった。
ここは、純血の魔女・六惺が創生したコロッセオ。
西暦80年、ローマ帝国が築いたとされる闘技場を原型としながら、構造、比率、空間配分、そのすべてが異様なまでに忠実――いや、過剰なほどに“理想化”されている。
だが真実は逆。
こちらが本物であり、ローマに建てられたものこそが、模倣に過ぎなかった。
見上げれば、抜けるような青空を背景に、鳥の群れが円を描いて飛んでいた。
ばさ……ばさ……と羽ばたく音が、距離感を狂わせる。
実際よりも、ずっと近くで鳴っているように錯覚させるのだ。
とはいうものの、あの空は外界。
こちら側ではない。
触れられそうで、決して触れられない向こう側。
このコロッセオが存在する空間は、街中と隣り合うように重なりながら、完全に分断された位置に固定されている。
近い。確かに近い。
ものの、致命的なまでに遠い。
一般人が偶然迷い込むことは、不可能。
意図され、選ばれ、導かれなければ、足を踏み入れることすらできない。
それが、この闘技場という場所であった。
観客席の一角。
そこに、黒髪の美少女が1人、静かに腰を下ろしている。
純血の魔女、六惺。
だが彼女は、つい先ほど始まったばかりの戦闘に、まるで興味を示していなかった。
視線は闘技場の中央へは向かず、膝の上のタブレットに落ちている。
すっ……すっ……と指先を滑らせながら、淡々と文字と図式を書き連ねていく。
――魔術回路で設計した太陽炉。
それを、人類文明の水準まで落とし込み、設計図として再構成している最中だった。
六惺が生まれ落ちた使命には、人類を“適切な方向”へ導く役割が含まれている。
世界の記憶と未来が刻まれた『アルカイックレコード』に従い、人の進化を補助する存在。
それが、彼女という魔女の定義であった。
もっとも、当の本人にその自覚はない。
誰かのために何かをしている、という感覚は、微塵もない。
「面倒くさい」
「うざったるい」
その程度の感情だけを胸の奥に沈め、使命を“処理”しているに過ぎなかった。
やっていることは世界規模。
とはいうものの、心の温度は、驚くほど低い。
六惺の隣には、使い魔である1羽の烏が止まっている。
くぁ……と低く鳴き、首を傾げた。
他に観客の姿はない。虫の羽音すら存在しない。
しん……と、時間そのものが停止したかのような静寂。
時折、闘技場を抜ける風が、ひゅう……と低く唸り、石壁を撫でていくだけだった。
その闘技場の中央。
2人の男女が、互いの間合いを測りながら対峙している。
距離、15m。
男の名は、八十朗。
身長170cm。
種族――40過ぎの親父。
休日は家族に相手にされず、パチンコで時間を潰す。
どこにでもいそうな、冴えない中年男性。
見た目だけを切り取れば、それ以上でも、それ以下でもない。
とはいうものの、実態はまるで違う。
彼は、数々の秘儀を自在に操る剣豪だった。
ガンマンを相手取っても、空間把握能力で弾道を読み切り、必要とあらば――
音速3で飛来する弾丸すら、カァン……!と叩き落とす。
体内に収められた妖刀・村正もまた、意思を持つ存在であり、
魔女の血を渇望しているという。
そして、もう1人。
名は、九重。
身長180cm超。
種族は、人狼。
肉体はアスリートの限界まで鍛え上げられ、筋繊維は常に張り詰めている。
一歩踏み出すたび、地面の空気がびり……と震える。
圧倒的な運動能力を武器とする、近接戦専門の拳闘士だった。
このコロッセオのどこかに、想像もつかない財宝が眠っているのではないか――
そんな期待が、じわじわと膨らんでいた。
とはいうものの、本来の目的は別だ。
奪われた24金を取り戻すこと。
そのためには、目の前の男――八十朗に勝たねばならない。
鋭い瞳が、40過ぎの剣豪を捉える。
一歩、二歩……と距離を詰めながら、九重は相手を観察していた。
≪あれが、伝説と呼ばれる殺し屋か。
妖刀村正で戦うと聞いていたが……刀を持っているようには見えない。
まさか、この私と素手で戦うつもりなのか。
体格だけを見れば、力も速度も体力も、私には及ばないだろう。
魔力らしきものも感じない。
だが……異能を持っていると考えておくべきか。
とはいうものの、初見で私が負ける要素は、ないだろう≫
第一印象は、ただの親父。
伝説級の殺し屋に付きまとうはずの圧も、殺気も、感じられない。
その違和感を抱えながら、九重の脳裏には、
純血の魔女との戦闘の記憶が、じわり……と浮かび上がる。
男に媚びるような女の姿をした六惺に、
近接戦で完膚なきまでに叩き潰された、あの悪夢。
――見た目で判断してはいけない。
そう、自らに言い聞かせる。
この親父は、純血の魔女が“代理”として指名した存在なのだ。
その辺に転がっている中年男性であるはずがない。
九重は、八十朗に対する危険指数を、最大値まで引き上げた。
とはいうものの、相手は人間。
魔女とは違う。
力、速度、体力、五感――
すべてにおいて、人狼は人の限界を遥かに凌駕している。
よほど劇的な事態でも起こらない限り、圧倒できる。
そう、確信していた。
だが、その認識こそが、致命的な誤算となる。
一方、八十朗もまた、対峙する女の存在を静かに捉えていた。
業界では名の通った拳闘士。
烏から聞かされた情報も、その程度だ。
人狼であることすら、知らない。
孔子の兵法に、「百戦危うからず」という言葉がある。
敵を知り、己を知れば、百戦しても危険はない。
だが八十朗は、常に情報不足の戦場を生き抜いてきた。
理由は、ただ1つ。
彼は、突出した『空間把握能力』の持ち主だからである。
物体の位置、向き、大きさ、形状、速度。
それらすべてを、瞬時に、正確に捉える。
死角に潜む埃の揺らぎすら、見逃さない。
九重は、この戦闘で、
その能力の“本当の恐ろしさ”を、
骨の髄まで、味わうことになるのであった。




