第12話 拳闘士の女⑤
九重に、もはや戦うための余力は一片も残されていなかった。
息は浅く、胸の内でひゅう、と乾いた音が鳴るたび、肺の奥がじくじくと疼く。血と汗と埃が混ざった匂いが喉に張り付き、吐き出すことすらままならない。四肢には鉛を流し込まれたかのような重さがまとわりつき、わずかに体勢を崩しただけで、ぐらりと視界が傾いだ。
立っているだけで、意識が白く遠のいていく――そんな感覚だった。
仮に、これが万全の状態だったとしても、あの謎の生命体に打ち勝てる未来など、微塵も思い描けない。
拳を振るう前に、心が折れる。
気迫が湧くより先に、諦観が先に立つ。
この先、再び戦意が湧き上がることはあるのか――いや、おそらくない。そう断じてしまえるほど、九重の精神は摩耗しきっていた。
六惺が九重という存在に抱いていた評価は、きわめて平凡なものだった。
一般的な基準で見れば、「そこそこ出来る」程度。
突出した天才でもなければ、戦場を一変させるほどの圧倒的才能を感じさせるわけでもない。努力家ではあるのだろうが、それ以上でも、それ以下でもない――はずだった。
とはいうものの、『勝他の炎』を鎮火させた瞬間の姿だけは別だった。
あの局面で、なお倒れず、なお立ち上がり、命を繋ぎ止めた生命力。
炎に焼かれ、気力も尽きかけた状態で、それでも前に出たしぶとさ。その一点に関しては、六惺も少なからず驚かされていた。
もっとも――興味を示すほどの価値があるかと言われれば、話は別だった。
結論は冷淡で、あくまで「想定外にしぶとかった」。
それ以上でも、それ以下でもない。
そんな中、魔女は実に何気ない仕草で、300㎏の24k金が詰め込まれたキャリーバッグを、片手で提げていた。
ぎしり、と持ち手が軋む音すら立てない。
まるで中身が空であるかのように、ひょい、と振り回し、肩に引っかけ、また下ろす。その動作に一切の無理がない。
その光景を、九重は敗北を悟りながらも、どこかもどかしい思いで見つめていた。
強さそのものよりも、その余裕。
自分が命を賭しても届かない場所に、彼女は立っている――そんな現実が、じわじわと胸を締めつける。
彼女は、強欲の魂を宿した者だ。
損をする、という概念そのものが、本能的に許しがたい。
理屈では理解できても、感情がそれを拒絶する。
損得の天秤は、常に己に傾いていなければならない。
きっと、我慢ならなかったのだろう。
九重は無理を承知で、六惺に対して交渉を持ちかけた。
「小娘。その24金――本当に、警察へ届けるつもりなのか?」
「警察へ……ですか?」
「仮に届けてしまえば、拾得者への謝礼は……価値の二割が上限になりますよね?」
「要するに、どっちだ。警察へ届けるのか、届けないのか。はっきり言え!」
「はい。もちろん、この局面で取るべき最適解としては――猫ババを決め込もうかと。
つまり、この24金は……すでに、すべて私の所有物ということですね」
「話が違うぞ。さっきは、落とし物を拾ったら警察に届けると言っていたじゃないか!」
「念のため、補足しておきますが……
密輸品である24金は、そもそも“落とし物”として扱われない可能性が高い。警察へ届け出たところで、持ち主である君の手に戻ることはありませんし、私にも何の見返りもないでしょう。
つまり――誰ひとり、得をしないのです」
「だからといって、猫ババをするのは……人として、駄目なんじゃないのか?」
「どうしてそこまで、警察へ届けることに固執なさるのでしょう?」
魔女は顎に指を当て、少し考える素振りを見せ――
「……ああ、なるほど。そういうことでしたか、拳闘士さん」
「私の考えが……分かったと言うのか?」
「もしかして君は……警察へ侵入し、届け出た“私の”24金を、力づくで奪い返すおつもりでは?」
「魔女。その24金は、お前のものじゃない!」
感情が、ばちん、と弾けた。
九重の声が、空間を震わせる。
「私が言うのもなんですが……警察署に強奪を仕掛けるというのは、人として、いかがなものかと」
「そうだな。私も、お前が“人として”説教を垂れるのは……いかがなものかと思ってしまうがな!」
一瞬の静寂。
張り詰めた空気が、じわり、じわりと重さを増していく。
遠くで、何かがきしむ音がした気がした。
「とにかく。この24金は、安全性の観点から……私が管理し、使用することにします」
その宣言に、九重の奥底で、何かがぷつりと切れた。
「魔女。もう一度だ。私と戦え――再戦だ!」
「ほう……私と、もう一度やり合いたい、と? どうして、そこまで死に急ぐのでしょう」
「……」
「ですが――いいでしょう」
「勝った方が、この24金を受け取る。それで、構いませんか?」
「ああ。勝った方が、総取りだ」
「承知しました」
「身の程知らず、という言葉の意味を……その身をもって、教えて差し上げましょう」
「魔女。だが……お前は駄目だ」
「私が、駄目……とは? どういう意味でしょうか」
「お前は、チート過ぎる」
「お前とは戦えない。代理を立ててくれ」
「私が選んだ代理と……戦う、ということですね?」
「ああ」
「私は――お前が指名する代理と、戦うことにしよう!」
六惺は、自分で言うのも何だが――いや、むしろ自分でしか言えないほどには、はっきりと理解していた。
九重という人間は、無茶苦茶な理屈を平然と並べ立て、話せば話すほど周囲の空気を摩耗させていく類の存在だ。言葉を交わせば交わすほど、見えない摩擦音がきしきしと鳴り、場の温度が下がっていくのが分かる。協調性という概念が根本から欠落しており、道理を理解する以前に、そもそも他人の言葉に耳を傾ける姿勢が存在しない。
そんな相手と、これ以上言葉を交わす意味があるのだろうか。
――ない。
おそらく、ないのだ。
とはいうものの。
人狼の女が差し出してきた「交渉」という単語を、完全に無視してよいものかどうか。そこに、ほんのわずかな引っ掛かりが残る。六惺は一瞬だけ思案し、そして即座に結論を出していた。聞かなかったことにする。それでいい。魔女同士の世界では、それが通る。通ってしまうのだ。理不尽で、身勝手で、しかし揺るぎない掟として。
魔女の内側で物事の決着がついた、その瞬間だった。
空気が、ふっと歪む。
まるで見えない膜が撓んだかのように、周囲の気配がわずかに遅れて揺れた。
ぱさぁ――。
乾いた羽音が、上空から降ってくる。
視線を上げる間もなく、空から烏が1羽、滑るように降下してきた。黒々とした羽根を大きく広げ、狙い澄ました軌道で落ちてくるその姿は、自然というより演出めいている。風を裂くはずの音すら控えめで、むしろ不自然なほど静かだった。
次の瞬間。
烏は六惺の頭上に――正確には、そこが最初から定位置であったかのように――ひらりと舞い降りる。
とさり、と軽い衝撃。
自称・師匠。
魔女を名乗る存在の、その使い魔である。
この烏は、六惺と視覚と聴覚を共有している。ゆえに、九重とのやり取り、その一部始終をすべて把握していた。
当然のように、さも最初からそこにいたかのごとく六惺の頭に止まり――そして、はぁ、と。
人間じみた、大きなため息をついた。
その仕草ひとつで、場の空気が変わる。
ぴん、と張り詰める緊張が、じわりと周囲に滲み出していくのが分かった。
烏は六惺を完全に無視し、人狼の女へと首を巡らせる。そして、先ほどの話の続きを――勝手に、しかも堂々と、喋り始めた。
「うむ。拳闘士。お前からのその指摘は、一理ある」
低く、重みのある声だった。
羽音ではない。確かに言葉だ。言葉として、耳に届く。
「確かに我が弟子は、チートであるのは間違いないからな」
「……どう言うことだ……?」
九重の声が、わずかに震える。
困惑と警戒と、理解不能な事態への戸惑いが滲み出していた。
「何が起きている。どうして……烏が、言葉を喋っているのだ」
「またその反応か」
烏は首を傾げ、くく、と喉を鳴らす。その音は、どこか楽しげですらあった。
「お前には、我の姿が普通の烏に見えているのか?」
「いえ……」
九重は一瞬、言葉に詰まる。視線を彷徨わせ、それから慎重に言葉を選んだ。
「もちろん、普通の烏とは違います。オーラです。オーラが……違うように思います」
「ほーう」
烏の瞳が、きらりと光る。
黒曜石のような目が、愉悦を帯びて細められた。
「お前の目には、我が普通の烏とはオーラが違うように映っているのか?」
「はい。神々しいオーラが感じられます」
「うむ」
満足げに、烏は胸を張る。羽毛がふわりと膨らみ、誇らしげだ。
「拳闘士。お前、なかなか見どころがあるではないか」
「有難うございます」
九重は、そう答えるしかなかった。
内心では、途轍もない混乱が渦巻いている。
神々しいオーラなど、もちろん出鱈目だ。烏が言葉を喋っていることも、魔女の師匠だと名乗っていることも、そのすべてが現実感を失わせる。
まるで――空想世界に転生してしまったのではないか、と本気で疑ってしまうほどだったのだ。
とはいうものの。
この状況で、下手な真実を口にするほど、九重は愚かではない。
千載一遇のチャンスだ。ここで流れに乗れば、何が起きるか分からない。だからこそ、話を合わせる。徹底的に、だ。
気を良くした烏は、さらに話を進めていく。
「うむ。六惺に代理を立てる件。いいだろう。承知してやる」
「神々しい烏様。有難うございます」
九重は深く頭を下げた。
その様子に、烏は満足そうに、うむうむと頷く。
「うむ。お礼を伝えることは大事なことだな。六惺。お前も見習うがいい」
「……」
六惺は何も言わない。
言葉を発すれば、ろくなことにならない。そんな予感だけが、確信に近い形で胸にあった。
「さて」
烏は一転、声を引き締める。
場の空気が、ぴしりと締まった。
「代理を誰にするかだな。六惺、誰かめぼしい者はおらんか」
「私が言うのも何ですが」
六惺は淡々と返す。
「師匠は、神々しいオーラは纏っておりません!」
「六惺。お前、一体、何を言っているのだ?」
「つまり、拳闘士は出まかせを言っているということです。師匠は、その辺にいる他の烏と、全く同一にしか見えません」
空気が、ぴしり、と音を立てて張り詰める。
「……うむ。我はお前の育て方を間違えたようだな」
「たんに師匠が、騙されやすい性格をしているだけかと思います!」
次の瞬間。
「この愚か者が――!」
ばさぁっ、と。
烏の羽根が一斉に逆立つ。黒い羽毛が膨れ上がり、威圧するように震えた。
「師匠の言葉に従えぬと言うのか。とにかくだ、六惺。お前の代理を誰にするかだ。早く返事をせぬと、お前が敗北したという決定を下してしまうぞ!」
脅しとも取れる言葉だった。
六惺は、肩をすくめる。
「はいはい。私の代理ですか?」
一拍置き、名を口にした。
「それでは、剣豪あたりはいかがでしょうか?」
「あの男か…」
烏は、少し考えるように黙り込み――やがて、ゆっくりと頷いた。
「うむ。いいだろう。奴にするか。拳闘士、お前の相手は八十郎だ!」
「拳闘士さん」
六惺が、わざとらしく付け加える。
「剣豪は妖刀村正を使用する剣客です。頑張って下さい」
九重は、烏と魔女が交わす会話の輪の中に、自分がごく自然に組み込まれていることに、奇妙な感覚を覚えていた。
そして――妖刀村正を使用する剣豪。
その言葉を聞いた瞬間、ある人物の顔が脳裏に浮かぶ。
裏世界で知らぬ者はいない、日本刀を操る殺し屋。魔女と剣豪がどう繋がっているのかは分からない。ものの、八十郎という存在は所詮人間だ。いかに強かろうと、魔女と比べれば格下――そう判断していた。
とはいうものの。
六惺自身は、仮に剣豪が敗れたとしても、約束を守るつもりなど毛頭ない。
魔女にとって、約束とは守るものではなく、破るために存在する概念なのだから。
その思惑を知るよしもない烏が、さらに告げる。
「拳闘士。24時間後に戦いを開始する!」
低く、重い声が、場に響いた。
「場所については、我が連れていくことにしよう。それまで体を休め、準備をしておくがいい」
こうして。
24時間後、剣豪と拳闘士との戦いが――
避けられぬ運命として、静かに、しかし確実に、幕を開けようとしていた。
⭐️を頂けると、有難いです。
よろしくお願いします。




