6.霧深きレアイヒロ峠
「ウルバン将軍! ウルバン将軍!」
幕舎の外でウルバンを呼ぶ声がした。
「フォルカーか、どうした」
ウルバンが返事をすると、「入りますよ!」と言いながら、許可も待たずにフォルカーが入ってきた。
「あっ、妃殿下、起きてらしたんですか!」
フォルカーはコリーナの姿を見て、慌ててひざまずいた。
(あなたがフォルカーなのね! あなたの亡くなったご両親が、捨て子だったウルバンを拾ってくれたのよね。フォルカーが『大きいお兄ちゃん』、ディートマーが『小さいお兄ちゃん』。ああ、ディートマーにも早く会いたいわ!)
コリーナはほほ笑んだ。
「いったいどうしたというの?」
コリーナはフォルカーに訊いた。
「あ、いや、それが、その……」
「なんだ? なにがあった?」
ウルバンが問う。
「その……、皇都では……、半獣半人への新しい懲罰が考え出されたようでして……」
フォルカーが言いにくそうに答えた。
「懲罰ですって!? 誰が誰に罰など与えようとしているの!?」
「誰が誰に対してって……、まだ誰にとはっきりわかったわけではないんですが……。グリゼルダあたりですかね……?」
「その新しい懲罰とは、なにをさせるのだ?」
訊ねるウルバンの表情は険しかった。
「あれはいったい、なにをさせようとしてるんでしょうね……?」
「そんなに慌ててやって来たのに、あなたはなにもわからないと言うの?」
コリーナは困ったように言った。
「妃殿下、お騒がせして申し訳ありません……。自分が行って対処します。どうかお許しください」
ウルバンがコリーナに詫びた。
「誰が誰に与えるつもりかもわからない、なにをするのかもわからない……。それこそが俺たち半獣半人にとって、良くないことの起こる前触れなんですよ!」
フォルカーが声を荒げた。
「よせ、フォルカー。俺が行く」
ウルバンが立ち上がった。
「ウルバン将軍、懲罰を与えようとしているのは妃殿下ですよ」
フォルカーは上目遣いでコリーナを見た。
「わたくしが……!?」
「ウルバン将軍の前だからって、白々しいですよ。妃殿下の指示で動いていると、乳母殿からはっきり聞きました」
「あ……っ!」
コリーナは小さく声を上げた。
「ほら、心当たりがあるじゃないですか!」
フォルカーは勝ち誇ったように言った。
コリーナは表情を引き締めると、寝台を降りようとした。
ウルバンがコリーナに乗馬靴を差し出した。
「自分で履くわ」
コリーナは乗馬靴を受け取って履くと、幕舎を出た。
陣営内は霧が出ているせいで、松明の明かりが照らしている兵士や幕舎は、輪郭がぼやけているように見えた。
『霧のレアイヒロ』と呼ばれている峠らしい光景だった。
コリーナは通りかかった護衛兵にギーゼラのいる場所を聞き、示された方に向かった。
陣営内の中心部では火が焚かれ、そのまわりに五人の女が立っていた。
それぞれが革手袋をつけて、紅茶の香りを放つ大きな本を手に持ち、豪華絢爛たる装飾の施された表紙や裏表紙を火で炙っていた。
ギーゼラは彼女らをそばで見守っており、その横にはシシーもいた。
一人の護衛兵がギーゼラに駆け寄り、「小石は集め終えました」と報告していた。ギーゼラが満足げにうなずくと、護衛兵は立ち去った。
「あの本はいったい……」
ウルバンの口から疑問がこぼれ落ちた。
「本自体という意味なら、あれはわたくしの指南書だった『皇后の心得』全五巻よ。わたくしの曾祖母、四代前の皇后陛下がお書きになった本よ」
ここで初代皇帝アンゼルム・ナウサを始祖とするジタルクッキングス皇国の皇族について、ほんの少しだけ触れよう。
初代皇帝はジタルクッキングス皇国の前身であるフトリス帝国時代に帝位を簒奪し、国名を改めて自らの国としたために、『簒奪皇帝』の異名を持つ。
その子孫である先々代の皇帝は、彼の長男である皇太子エーベルハルトが毒殺された衝撃から病を得た末に死去した。
その後、次男である現皇帝エアハルトが即位する前の十日間だけ、三男のエクベルトが帝位に付いていた。故に、エクベルトは『十日皇帝』の異名を持つ、この国の上皇だった。
四代前の皇帝は現皇帝らの祖父であり、その妻が書いたのが『皇后の心得』全五巻だった。
「その尊いご本は、あの使い方でいいんですかね?」
「本来であれば、未来の皇太子妃だったわたくしが、曾祖母さまから本と共に賜った指南役、ギーゼラと一緒に勉強するのに使うのが正しいわね」
「でしょうね……。本は読むものですよね」
「フォルカー、控えろ。妃殿下に失礼だ」
ウルバンがたしなめた。
「いいのよ。わたくしもフォルカーと話してみたかったの」
コリーナはフォルカーを見上げてほほ笑んだ。コリーナと目があったフォルカーは、思わずといった感じでほほ笑み返し、頬を染めた。
「……あああ、いけない! 俺もけっこう見目良い半獣半人だ! 後は任せましたよ、ウルバン将軍!」
フォルカーは取り乱した様子でコリーナから顔を背け、手のひらを見せて左右にふった。その右の手のひらには、馬蹄の形をした、彼が馬の半獣半人であることを示す『獣の名残』があった。
フォルカーは数歩後ずさってから、コリーナたちに背を向けて走り去った。
「フォルカー、どこへ行ってしまうの!?」
コリーナはその背中に呼びかけたが、フォルカーの姿は霧と兵士に紛れて見えなくなった。
(ウルバンからは『気さくな男だから、きっとすぐ仲良くなれる』と聞いていたけれど……。さすがに初対面ですものね……。わたくしが馴れ馴れしすぎたのだわ)
コリーナは小さくため息をついた。
「妃殿下、フォルカーがお気に召しましたか?」
ウルバンが遠慮がちに訊いた。
「ええ、いずれお茶会に招待するわ」
コリーナはウルバンを安心させるように笑ってみせた。
(親しくなるには、まずはお茶会に招待しなければいけなかったわ。何事にも順番があるのに、わたくしったら急ぎすぎたのよ)
ウルバンは「心得ました」とだけ答えた。
「ウルバン将軍、あれは半獣半人に罰を与えようとしているのではないの。きちんと説明しなかったために、みんなに怖い思いをさせてしまったわね。わたくしの落ち度よ。謝ります」
コリーナは優美な動作で公爵令嬢らしく頭を下げた。
陣営内の兵士たちから「おお……!」や「ああ……!」といった声が聞こえた。
コリーナはなにも言わないウルバンを見上げた。
「心から申し訳なかったと思っているわ」
険しい表情のウルバンに向かい、コリーナはもう一度、同じ動作を繰り返した。
「あれはなにをさせているのですか?」
ウルバンは許すとも許さないとも言わなかった。
「本を魔導書に見えるように加工してもらっているの。紅茶に浸けてから火で炙ることで、古い本に見えるようになるの。絵の贋作などにも使われる手法だそうよ。兵法書に書いてあったわ」
「魔導書……? 魔導書とは……?」
「絵本などに出てくる魔女が、魔法を使う時に持っている本のことよ。ここは『白い魔女』が住むと言われるレアイヒロ峠。――わたくしは魔女を作っているの」
コリーナの眼差しは強く、冷たく見下ろしているウルバンにまっすぐ向けられていた。
「『白い魔女』とは霧のことだということくらい、半獣半人でも知っています」
「そうよ、霧のことと言われているわ。けれど、本当にこの峠に『白い魔女』はいないのかしら? 誰も見たことがないからといって、なぜいないと言い切れるの? もしかしたら、いるかもしれないわ」
ウルバンは両腕を組んで考え込んだ。
コリーナはウルバンの返事をしばらく待ってから、言葉を続けた。
「わたくしに一人、辺境軍の兵士を貸してほしいの。危険なことはさせないわ。『白い魔女』の後方で手伝ってくれるだけでいいの」
「手伝うとは? 内容によります」
コリーナは満足げに笑った。
(あなたはわたくしの不興を買うことも恐れず、辺境軍の兵士のために必要なことを訊いてくる。辺境王殿下はきっとあなたのそんなところを信頼して、わたくしを護衛する兵士たちをあなたに託したのね)
コリーナの胸の奥が小さく痛んだ。辺境王もウルバンも、コリーナよりも辺境軍の兵士たちの方を大切に思っていた。それは彼らの立場ならば当然だと、コリーナにもわかっていた。それでも、コリーナはなんだか少し寂しく感じた。
「グリゼルダに一曲歌ってほしいの。『レアイヒロ峠の白い魔女』よ。彼女が知らないなら教えるわ。敵の前に出る必要はないの。むしろ姿を見られないようにして、雰囲気を出してほしいのよ」
「グリゼルダがハミングバードだと名乗ったからでしょうが、だからといって、必ずしも彼女が歌を上手に歌えるとは限りません」
ウルバンの言葉に、コリーナは少し困った顔をした。
(ウルバンはグリゼルダを『稀代の歌姫』だと言っていたわ。わたくしは彼女が歌が上手なことを知っているのよ。……ああ、ウルバン将軍はグリゼルダを歌わせたくないのね)
コリーナは小さくうなずいた。
「そうよね。わたくしの考えが足りなかったわ……」
コリーナは本を炙っている女たちに目をやった。全員が似たような体格で、栗色の髪を同じように結い上げていた。
「彼女たちは……。なにの半獣半人かわかりませんが、同腹の姉妹ですね。敵前に立たせて、捨て駒になさるのでしょうか?」
「『白い魔女』に死なれたら策は失敗だわ。敵を殺させるのではなく、この本陣に近づけないのが目的よ。怪我人や疲弊した兵士たちが回復するのを待つ時間を作るのよ」
「そうでしたか」
ウルバンの声は冷たかった。
「敵を多少は殺すつもりだけれど、それは彼女たちの役目ではないわ」
「では、誰に殺させるおつもりなのですか?」
「ザーランド公爵家が育てた『暗器』と呼んでいる暗殺者の一人よ。お父様はわたくしに、最強の者を付けてくださっている。霧に紛れて、魔女に殺されたと見せかけるようにするくらい、その『暗器』ならたやすいと言っていたわ」
「本人がたやすいと言ったのですか?」
「そうよ。できるか訊いてみたら、『余裕です』と答えていたわ」
「貴族が刺客などという汚い仕事をさせるのは、『卑しい半獣半人』に決まっています。妃殿下は『卑しい半獣半人』の刺客にできるかと問い、できると答えさせたのですか」
ひどく硬い声だった。
コリーナは間髪入れずにウルバンの頬を打った。
ウルバンは軽く目を見開いて、コリーナを睨んだ。
「今、わたくしが罰を与えたわ! 彼を傷つけることは、このわたくしが許さない!」
コリーナはどこか焦った表情で左右を見た。
「ウルバン将軍、『暗器』のことで、わたくしを責めてはならないわ! 『暗器』の機嫌を損ねると、殺されてしまうわよ!」
「そうなのですか……」
ウルバンは困ったように言った。
「わたくしに付けられている『暗器』は、『考える刃』という暗号名で呼ばれているの。『考える刃』が殺すと決めたら、わたくしには止められない……。あなたがどれだけ強かろうと、『考える刃』は、たとえ相打ちに持ち込んでででも、殺すと決めたら殺すわ」
コリーナはウルバンに背を向けた。
「ツァハリアス護衛兵長はいる?」
コリーナが呼びかけると、大剣を背負ったツァハリアスが駆け寄ってきた。
「呼んだかい?」
ツァハリアスはコリーナに明るく笑いかけた。
「ツァハリアス護衛兵長、ウルバン将軍はどのくらい強いのかしら?」
「どのくらいかぁ……。うーん、金杯王殿下とどっちが強いのかな? ウルバン将軍の方が若いし、実戦経験も豊富だろうから、金杯王殿下が相手でも、そう簡単には負けないだろうし……。どうなんだろう?」
「比べる相手があの『武人の頂』の金杯王殿下。それでは、ここにいる誰にも負けないのね」
「うん、負けないよ」
「それほどに強いなら、大丈夫なのかしら……?」
コリーナは不安そうに言った。
(たしかに前世では、金杯王殿下と一騎打ちをして、勝ったのはウルバンだったと聞いたわ。彼は強い。彼なら『考える刃』を殺してしまうことだってできるかもしれないわ……)
コリーナは心の内で、ウルバンを襲わないよう、自分に付けられた暗殺者に命じていた。コリーナは『考える刃』にも死んでほしくなかった。
「暗殺されないかって話だよね。それは刺客の腕によるから、必ずしも安心できないんじゃないかな? 刺客に狙われて生き残れるかは、単純な強さだけの問題じゃないって、金杯王殿下が言ってたよ」
「そうなのよね……。わたくしもそこが心配なのよ」
「こんなことを言っておいてなんだけど、コリーナはウルバン将軍のこと心配しすぎだよ! ここまで強いんだから、刺客にだって、そう簡単にやられやしないって!」
ツァハリアスは楽し気に笑ってから、腰に下げていた金のレイピアをベルトごと外した。
「僕はコリーナの方がよっぽど心配だよ。こんな強い人を叩くなんて危ないじゃないか。彼がその気になったら、いつでもコリーナのこと殺せるよ。ここで彼の次に強いのは僕だけど、僕の腕前じゃ、彼から君を守れないよ」
ツァハリアスはコリーナに金のレイピアを渡した。
「自分は妃殿下を殺したりなどは、絶対にいたしません」
というウルバンの言葉を聞きつつ、コリーナは受け取った金のレイピアのベルトを腰に巻いた。
「ザーランド公爵も、コリーナに直接レイピアをあげたらよかったのに。僕はレイピアなんか、ほぼ使わないの知ってるのにさ」
「……ツァハリアス護衛兵長は、大剣がお得意なのですか?」
「うん、僕の得物はこの背中の大剣さ! コリーナの得物はレイピアだよ。コリーナも金杯王殿下に剣を習ったから、普通の相手とならまあまあ戦えるよ」
「それは……、妃殿下がどのくらい戦えるということなのでしょうか……?」
「皇太子殿下の許嫁だったから、怪我させるといけないってことで、みんなあまり本気で戦ってなかったからなぁ……」
「まあ……そうでしょうね」
「そうだよ!」
ツァハリアスは笑いながら、ウルバンの肩を叩いた。
「コリーナに叩かれて災難だったね! コリーナを叩き返すわけにはいかないだろうから、代わりに僕のこと叩いていいよ!」
ツァハリアスは少し首を傾げて、ウルバンに頬を差し出した。
「いえ……、自分は……、そんなことは……」
「遠慮するなって! ほらほら! わだかまりが残る方が心配だよ」
あっけらかんとしたツァハリアスの物言いに、ウルバンは苦笑した。
「妃殿下は真剣に、自分のような者の命を案じてくださっていました。わかっておりますので、ご心配は不要です」
「コリーナ、いきなり叩くのはだめだよ」
「そうよね……。ウルバン将軍、ごめんなさい」
コリーナは今日三度目の優美な動きで頭を下げた。
「二人とも仲良くするんだよ!」
ツァハリアスは二人の顔を交互に見てから、茶目っ気たっぷりに片目を閉じてみせた。
「僕はこれでも忙しいんだよ! いかにもコリーナがいる風に、あのやたら豪華な幕舎を守らないといけないんだから!」
「ツァハリアス護衛兵長、あの豪華な幕舎の内には誰かいるのですか?」
ウルバンが立ち去ろうとしているツァハリアスを呼び止めた。
「ああ、重装兵が八人いるよ。甲冑を着て、大楯と片手剣を持って、円陣を組んでる。彼らときたら『いつ襲ってくるんだよ? 早く来てくれないかな!』とか、たまに退屈そうに言ってるよ」
「そんな感じなのですか……」
「みんな元は傭兵でお金をいっぱい持っているんだ。出発ぎりぎりまですごい甲冑とか楯とか買いまくって、活躍できるのをすごく楽しみにしていたよ」
「だいぶ気合が入っているようで……」
「うん、みんな戦うの大好きだからね! 武芸って楽しいよね!」
苦笑するウルバンにひらひらと手をふりながら、ツァハリアスは戻って行った。
「護衛兵たちは幸せそうですね。戦うことが楽しいなど……」
ウルバンはどこか切なそうに言った。
「そうよね……。辺境軍の兵士は、国策により定められた『半獣半人の居住区』に、無理矢理に移住させられた者たちなのでしょう? 兵士になどなりたくなかった者がほとんどだと聞いたわ」
「……それも『皇后の心得』全五巻に書いてあったのですか?」
「違うわ」
と答えたコリーナは、少し困ったように笑って見せた。
(ウルバンが話してくれたのよ。彼と出会わなければ、わたくしは辺境のことなど、何一つ知らないままだったわ)
カーマレッキスは別名『半獣半人の墓場』と呼ばれていた。
人間たちは、自分たちで始めた戦争なのに、身勝手にも自ら戦うことは嫌がった。
そこで考え出したのが、『半獣半人の居住区』だった。
人間たちは、かき集めた半獣半人を『半獣半人の居住区』と称したカーマレッキスに送り、兵士に仕立てて前線に立たせたのだ。
「妃殿下、ウルバン将軍、お話中に申し訳ないのですが……」
辺境軍の兵士が、二人に話しかけた。
「なんだ?」
「敵がこちらに近づいて来ています」
「そうか。グリゼルダ!」
ウルバンが呼んだ。グリゼルダが少し離れた場所から「ここに!」と返事をした。
「妃殿下がお前に歌ってほしいそうだ! できるな?」
「話は聞いてたわ! 任せておいて!」
「グリゼルダ、ウルバン将軍、感謝するわ!」
コリーナは礼を言うと、表情を引き締めた。