30.時と距離を越えて(3)
ウルバンの身体を放したイェンスはひざまずき、ウルバンの少しざらついた肉球のある手をとった。
「君を我が正妻に迎えたいのだ。変な人間を二人も娶らねばならんが、そこは許してほしい。捨て置いて老嬢にするのも忍びないからだ。私の愛はいつも、君と我が友の上でだけ輝くと誓うよ」
妻となった女性の元婚約者から求婚されたウルバンは、「ハフッ」と驚きの声を漏らした。
「レネーの姐御、今の鳴き声は『結婚してやる』ってぇ意味ですかい?」
「そんなわけないだろ! バカ言ってんじゃないよ!」
「へ、へぇ……。すんません……」
ノルベルトが大きな身体を縮こまらせた。
「この子は男の子ですし、わたくしともう婚姻してしまいましたわ」
「男の子……! そうなのか……! 言われてみると凛々しくも見えるな」
イェンスはウルバンの手を放して、立ち上がった。
「コリーナ、君の夫に姉か妹か従姉妹などはいるだろうか? 紹介してくれたまえ」
「いないはずですわね……」
「一頭くらいいるのではないか!? 多少年嵩でも幼くても、私は構わんぞ!」
「ワ、ワフ……ッ」
「ああ、すまない……。君を娶れないんだよ……」
イェンスは切なそうな目をして、ウルバンの額を撫でた。まるで今生の別れのような抱擁をしてから、再びウルバンの目を見つめた。
「私はこれからパンデアージェン男爵領に行って、君のようにかわいい橇引き神狼の女の子を探そうと思う。あちらに着いたら、君にぴったりの橇を探して、君に贈ろう。我が友よ、女の子と勘違いしたことは、その橇に免じて許してほしい」
イェンスはウルバンから離れると、ディートマーの前に立った。
ディートマーは引きつった笑いを浮かべた。
イェンスは軽やかにディートマーを抱き上げて笑いかけた。
「私が元皇太子だからと、そう緊張することはない。……ああ、それとも、私が父である皇帝を討ったことを聞いたのかな? そう怯えることはない。君が我が友を『皇帝に友など必要ない』と言って次々と射たりしない限り、我が魂が、君への復讐の炎で燃え盛ることはないからな」
ディートマーはイェンスの腕の中で完全に動きを止めた。
あちらこちらで交わされていたささやきが止み、重い沈黙が大ホールを覆った。
「チネンタル公爵が玉座の間に踏み込んだ時、兄上はもういなかったと聞いたが、すでにイェンスが討っていたということなのか?」
エクベルトの問いに、イェンスがうなずいた。
「ええ、私です。私の幼き頃、父によって死を賜った、我が罪なき六頭の友の墓前に、六つに刻んで供えました」
「六つ……」
コリーナはイェンスの腕の中でおとなしくしているディートマーを見た。コリーナの前世で六つに切り刻まれたのは、女性と勘違いされて連れ去られかかっている彼だった。
「帝位は私が継いでしまったが、良かったのかね?」
エクベルトの声にはかすかな怯えがあった。
『武人の頂』とまで呼ばれるエクベルトが、イェンスに簡単に負けることはないだろう。だが、父親を討って刻んだ男の狂気を前にしては、恐怖にかられるようだった。
「『皇帝に友など必要ない』らしいのでね、私には帝位など不要です。ああ、でも、叔父上が先帝殺しの罪を問うて挑んでくるならば、受けて立ちましょう」
イェンスは薄く笑って、腰から下げているファルシオンと呼ばれる剣を見た。優美な曲線を描きながら、先端にいくにしたがって幅が広くなっているその剣は、切れ味の鋭さで有名だった。
「皇后……、お前の母はどうしたのだ?」
「あの方は『鋼鉄の白百合』のパウリーネだけは討たせられないと言って、グンドゥラと『鋼鉄の白百合』と共に武装して、どこかに行きました」
「パウリーネ!? まさか『勇ましきビットラン一族』をお書きになった!? 殿下、そのパウリーネという方は、どちらに行かれたのです!? 方角だけでもわからないのですか!?」
ギーゼラに問われ、イェンスは勢いに押され気味になりながら、「国内にはいると思いますよ」と教えた。
「ギーゼラ様、ご安心を。私にも動かせる者がいるので、そのパウリーネの行方を探します」
「ありがとう、シシー。わたくしも手を尽くします」
ギーゼラとシシーは手を握りあった。万能薬であったユニコーンの角は、瀕死だったギーゼラとシシーのことも、すっかり元気にしていた。
「コリーナ、君のかわいい夫に、また会いに来ても良いだろうか?」
「もちろんですわ」
イェンスとコリーナはほほ笑みを交わした。
イェンスが口笛を吹くと、彼の猟犬たちがイェンスの元に集まってきた。
「よう、兄弟!」
ノルベルトがイェンスに呼びかけた。
「兄弟……? 私のことか……?」
「俺はパンデアージェンのノルベルトだ! 俺も親父をぶっ殺してパンデアージェンに流れたクチよ! 俺の親父は皇帝なんてしゃれたもんじゃなく、俺の母親と妹を殴り殺した飲んだくれだがな! 仲良くしようや! 歓迎するぜぇ!」
「あ、ああ……。よろしく頼む。歓迎されるとは思わなかった」
イェンスは戸惑いがちにほほ笑んだ。
「へっ、まったく。アタイの領地に来るのはね、アンタみたいな荒くればかりだよ。アンタ、騒ぎだけは起こさないでおくれよ!」
「パンデアージェン男爵か。気を付けるつもりだが、自分と友の身は守らせてもらうぞ」
イェンスはどこかほっとしたような顔をした。
「俺は男好きってのだけはよくわからねえがな! どれだけお綺麗なツラしてても、男だけはどうも……。まっ、好き好きだよな!」
ノルベルトは豪快に笑った。
イェンスは腕の中にいるディートマーを見た。
「……男なのか?」
ディートマーは引きつった笑いを浮かべた。
「その者は私の二の従僕のディートマーです。男なので殿下の嫁にはできません」
耳としっぽ以外は人間の姿に戻ったウルバンが、イェンスに走り寄ってディートマーを取り返した。
「ウルバン、ごめん……! こいつ、目の奥が怖い!」
ディートマーはウルバンの腕から降りると、ウルバンの背後に回った。
イェンスはウルバンの頭に生えた耳と、背後に見えているふさふさのしっぽを見た。
「辺境王アロイス・ホーランは私です」
ウルバンが名乗ると、イェンスはウルバンの頭を撫でた。
「かわいいお利口さん、お前のご主人は連れて行かないから安心しろ」
「殿下、ディートマーは私のご主人ではありません!」
イェンスはディートマーと、その後ろに見えるコリーナへと目をやった。
「コリーナ、私のような『荒くれ』は、君のような清らかな乙女にはふさわしくない」
イェンスはコリーナに片手を上げることで別れを告げ、猟犬たちを連れて颯爽と大ホールを出て行った。
コリーナは、前世での出来事について考えた。
皇帝エアハルトは前世でもイェンスに討たれて、『イェンスの友』の墓前に供えられたのだろう。
皇后アンゲラもまた、前世でもパウリーネという者を守るために、いずこかへ去っていったのだろう。
イェンスはおそらく、コリーナが皇宮に呼び出されていたことを知らなかった。前世のイェンスも、今世のイェンスも、友の敵討ちをした後、父を殺した罪を一人で背負い、猟犬たちと共に皇宮を去ったのだ。
イェンスはコリーナを敵国への供物にして逃げたりなどは、決してしなかったはずだ。
イェンスはこうしてコリーナに会いに来たではないか。先帝殺しの罪で処刑される危険を冒してまで。
「イェンス殿下……」
コリーナはイェンスからも愛されていたことを、ようやく知った。
あの的外れなところのある男は、またなにか勘違いをした様子だったが……。
コリーナは内心でイェンスに謝り、前世でも今世でも果たされることのなかった結婚の約束のために、一粒の涙をこぼした。




