5.コリーナの幕舎(前編)
ウルバンはコリーナの幕舎に入ると、目を見張った。
鎖帷子に使われる編まれた鎖が、天蓋のように吊るされて、簡素な寝台を囲んでいた。
幕舎の隅には、小ぶりな鉄製の衣装箱が一つ。上には火の灯ったランプが置かれていた。
床に目をやると、敷物も鎖で編まれていた。
公爵令嬢が自ら用意させた幕舎とは思えない、華やかさの欠片もない室内だった。
ウルバンは寝台にコリーナを横たわらせた。
さすがに寝具は上質な絹製で、厚手の上掛けには、深紅の布に金糸で大きく辺境王の紋章が入れられていた。
「婚礼用か……?」
ウルバンは不思議そうにつぶやいた。貴族の女が好むのは、白やピンクや黄色の布地に、草花や蝶や果物の刺繍の入った華やかなものだと相場が決まっていた。
「ウルバン将軍、入ってもかまいませんか?」
幕舎の外で男の声がした。
「フォルカーか。入れ」
入ってきたのは、ウルバンと同じくらいの年齢の、少し垂れ目な馬の半獣半人だった。彼の背中に垂らされた太い三つ編みの髪は、葦毛と呼ばれる白と灰色の混じった色をしていた。
「妃殿下のご様子はいかがですか?」
「気を失ったままだ」
「そこまで恐ろしかったんですかね?」
フォルカーは疑わしそうに青い目を細めた。
「半狂乱だった」
「本当にお相手をしたんですか?」
フォルカーは軽い調子で訊ねた。
「妃殿下はずっと、まともに会話もできない有様だった。そんなことをするどころではなかった」
「そこまで……」
フォルカーは考え込んだ。
「フォルカー……。妃殿下は、以前どこかで俺と会ったことがあるのだろうか? パンデアージェン男爵領で傭兵をしていた時か?」
「なにを言ってるんです!? そんなわけないでしょう! 妃殿下がウルバン将軍と一緒に、北方の山奥で山賊狩りをしていたとでも? 妃殿下は皇太子の許嫁だったんですから、パンデアージェン男爵領どころか、カーマレッキスまでだって来ないでしょう。逆に、ウルバン将軍が皇都方面に来たのは、軍法会議で呼ばれた今回が初めてですよね。接点なんてありませんよ」
「妃殿下は『俺が心の奥底で望んでいたもの』を知っているらしいのだ。どこでなにを知ったのだろうと思ってな」
ウルバンの言葉を聞いたフォルカーは、盛大に顔をしかめた。
「いったいどうしちゃったんですか……。そんなのは貴族の女が、半獣半人を寝所に召す時の決まり文句じゃないですか」
「やはり俺を誘惑していただけなのだろうか……」
「それ以外になにがあるって言うんです? そんなことも知らないような方ではなかったはずですよ」
「俺が妃殿下だけに教えたんだそうだが……」
「どうかしてますよ。どう考えたって、ウルバン将軍を口説いているだけでしょうが」
フォルカーは呆れたように言った。
「真面目に考えてみてくれないか。大事なことだ」
「やめてくださいよ。ウルバン将軍は誠実な方だから、真剣に考えてやっているんでしょうが……。だいたい、妃殿下の言う『ウルバン将軍が望んでいたもの』というのは、なんだったんです?」
「それを言う前に、妃殿下は気を失われた。俺にも、なにのことなのかわからん。お前に心当たりはあるか?」
「そんなものないですよ。俺はウルバン将軍が傭兵をしに行った時以外はずっと一緒だったんですよ。その俺も、ウルバン将軍ご自身にもわからないようなことを、いつ、どうやって、妃殿下が知るんです? 汚らわしい貴族の女が使う、品のない口説き文句に決まってます」
ウルバンは黙ってコリーナの顔を見下ろした。
フォルカーもウルバンの横に立った。
「ウルバン将軍、『清純そうな女の方が逆に遊んでる』ってディートマーが言っていたじゃないですか」
フォルカーが彼の弟である辺境軍の兵士の名を挙げた。
「そのディートマーが話を盛っていたのではないか!? あいつを信用して良いのか!? 俺は大変なことをしでかしかけているのではないか!?」
「その話をしだしたらきりがないですよね。俺はもう行きますよ。妃殿下が半獣半人と遊ぶ悪癖をお持ちで、ウルバン将軍はそんな妃殿下にご執心……。見目の良い半獣半人の男は、妃殿下から遠ざけないと!」
フォルカーは幕舎を出て行った。
フォルカーと入れ替わりで、ギーゼラとシシーが幕舎に飛び込んできた。
「妃殿下、到着が遅れて申し訳ありません!」
ギーゼラが詫びながら、寝台の横でひざまずいた。
「妃殿下はどうされたのですか!?」
シシーがウルバンに訊いた。
二人の着ている乗馬服は、所々が焼け焦げ、砂ぼこりや草がついていた。
「気を失っておられます。お怪我は……なさっていないはずです」
「シシー、医師を! 早く! わたくしは……、わたくしは……、妃殿下の命に従い、この本陣を守る準備に入らなければ……!」
「お待ちください! お二人は妃殿下のお側仕えなのでは!?」
ウルバンが呼び止めるのも聞かず、シシーとギーゼラもすぐに幕舎を出て行った。
「妃殿下のお世話は誰がするのだ……」
ウルバンは小さくため息をついてから、コリーナの寝台の横にひざまずいた。
「妃殿下……」
呼んで、深紅の上掛けの上にあるコリーナの手をとり、甲にそっと口づけた。
「俺を口説いていただけなのか? そうは思えなかったが……。俺がおかしいのか……?」
ウルバンは一人つぶやいた。
シシーが連れてきたザーランド公爵家の医師は、コリーナは気を失っているだけで、怪我もないため、このまま休ませておくようにと言ってから、他の怪我人の治療をするために戻って行った。
シシーもまた、コリーナの密命を帯びているらしく、ウルバンを残して医師と共に幕舎を出て行った。




