26.楡と長椅子亭(後編)
「レネー、大丈夫か?」
レネーはウルバンに呼びかけられて、遠い記憶の世界から舞い戻ったようだった。
「ああ、悪いな、旦那。ちょいとぼんやりしちまった……。その俺の女主人ってのが、毒殺された先の皇太子殿下のお妃様の、母方の実家の一族だったんでさ」
「ホーラン一族が、ルジアン一族と姻戚関係にあったというのか!」
皇帝であるエアハルトが、ホーラン男爵を処刑しようとした理由の一つに、この繋がりがあったかもしれない。
ウルバンは内心で、ディートマーの買ってきた……、実際には貰ってきた爵位など、素直に使ってはいけなかったのだと後悔した。
「おう、若いのによく知ってるな。俺の女主人は親戚から手紙をもらって、自分が粛清の対象になったと知ったんだろうぜ。俺を自分の母方の実家のパンデアージェン男爵家に使いに出してよ」
「パンデアージェン男爵領かっ!」
「旦那、なんなんだよ!? いちいちそんなに驚かれるとやりにくいぜ! 俺はこのチネンタル侯爵領まで来て、俺の女主人が処刑されちまったことを知ったんだ。俺は慌てて自分の持ってる手紙を読んでみたよ。俺の女主人はじいさんの名前を受け継いでいたらしくてな。そのアロイスじいさんの形見の王侯貴族認定証を俺に遺してくれたんだ」
「それが、アロイス・ホーランの男爵位だったのか」
「ああ。俺は粛清のほとぼりが冷めてから、執事服を着て戸籍管理局に行って、主人がメイドに手を出そうとして、服の胸ポケットに入れていた王侯貴族認定証に、飲みかけの紅茶をぶっかけられたって、大騒ぎしてやったんでさ。戸籍管理局の役人どもは、紅茶まみれの書類をやっとこさ開いてから、王侯貴族認定証を再発行してくれたぜ!」
レネーは得意げに言った。
ウルバンはコリーナがレアイヒロ峠で、『皇后の心得』全五巻に古さを出すために、紅茶に浸してから火で炙っていたのを思い出した。
レネーはその逆で、古いものを古いとわからせないために、紅茶を使ったのだ。
「俺の女主人は『王侯貴族認定証を売って楽に暮らせ』なんて書いて寄越したがな。俺にとっちゃ売れるわけがねえ品だからよ。俺は『獣の名残』を焼いて削ぎ落して、俺自身が人間のお貴族様になってやったのよ」
レネーは着ていたシャツを脱ぎ、左肩から左腕にかけての傷痕を見せた。よほどの覚悟がなければ、自分の腕と肩をこれほどまでに焼き、肉を削ぐことなどできないだろう。腕や指をまともに動かせているのが不思議なくらいの傷だった。
「ディートマーは俺がここで主人屋と立会人屋をやってると、どこかで聞きつけてやって来たのさ。あいつはお綺麗な顔をしたロクデナシだ! 俺の腕の傷を見るなり、人間様のふりをしている半獣半人だと見抜いて、金を脅し取ろうとしてきやがった!」
「兄がすまないことをした……」
ウルバンはうなだれて謝った。ディートマーのせいで謝ることになったのは、これで何回目だろうか。もはや数え切れなかった。
「あいつが爵位を買う金が要るってわめくからよ。なんで爵位がほしいのか訊いてやったら、『弟が人間だから爵位を買ってやって、いずれ半獣半人を奴隷から解放させる』なんてデッカイことを吹くじゃねえの。自分を半獣半人だと思っていた人間ってのも初めて聞いたし、人間の弟がいる半獣半人なんぞ初めて見た。俺はこいつはやる男だと思って、俺の宝物を託したのさ」
レネーは人を見る目があった。ディートマーはたしかに『やる男』だった。奴隷解放どころか、コリーナの前世で、この国を滅ぼす原因になった。
「奴隷解放までできるかわからんが……。この女性はこの国の『半獣半人の統治権』を持っている。辺境王である俺が娶り、たとえこのままこの女性が死したとしても、俺がその志を継がねばならん」
ウルバンはコリーナを見下ろした。
レネーもまた、信じられないものを見るような目でコリーナを見た。
「辺境王が娶る女性のことなら、ディートマーから『皇太子の許嫁だった公爵令嬢』だと聞いてるが、こいつは間違いないか?」
「ああ、その通りだ。法改正がどうのと言っていたが、お前では立会人ができなくなったのか?」
「この国の法ってのは、誰かの都合が良いように作られているんだ。カーマレッキスも突然、『半獣半人の居住区』にされただろ? 旦那は婚姻の登録についてどの程度知ってる?」
「貴族には貴族の立会人が必要なのだろう? なぜお前ではいけないのだ?」
「やっぱりそこまでしか知らないか。例えばな、男爵の立会人は男爵位以上、公爵の立会人は公爵位以上が必要なんだ。以前は貴族なら誰でも良かったんだが、一年だったかな、そのくらい前に同等以上の位が必要になったのよ」
「それならば、兵営に行けば、元皇太子妃がいる! 皇族から除名されていないはずだ!」
ギーゼラが無事に到着していたら、ギーゼラを立会人にすることができるはずだ。
「その元皇太子妃は何人いるんだ?」
「何人だと!?」
「婚姻する男女それぞれに立会人が必要になったんだよ。旦那が辺境王の位をもらった翌日付でな」
皇太子の元許嫁であった公爵令嬢のコリーナに対して、元皇太子妃であり公爵家の令嬢だったギーゼラは同等以上の立会人となれるだろう。
コリーナが旅の間ずっとギーゼラの身の安全を気にしていたのは、『この国の貴族すべての立会人になれる尊い皇族の身分を持ちながら、辺境まで来てくれる稀有な存在』だったからだったのだ。
では、辺境王の立会人はどうしたらよいのか。
「もう一人……! もう一人いるのか……! 王以上の者が!」
「このお嬢様も知らなかったはずだ。法改正が周知されるには時間がかかる。婚礼行列が出発してしばらくしてから、皇都から順に通知書が貼り出されただろうからな」
「だからお前は『探している最中だ』などと言っていたのか……!」
「そうだ。俺は立会人屋だからな。法改正があったら、その筋から情報が入るように手を回してある。ディートマーが辺境に戻ってきて、すぐに軍法会議の首尾を聞きに行って、焦ったぜ! 辺境なんぞに、ほぼ皇族の公爵令嬢と、王の立会人ができるヤツなんているもんかよ!」
ウルバンは寝台の横に両膝を突いた。ここまで来るのも、決して楽ではなかった。眉根を寄せ、歯ぎしりをながら、左手で拳を作り、額に押し当てた。
「妙だと思ったぜ。法改正した時には準備期間が設けられるものなんだけどよ、今回は半月で完全に新しいやり方に移行することになっててよ。やたら新制度の完全実施を急がせたのは、あんたらを婚姻させないためだったんだな」
「もう完全に、立会人が二人いないと婚姻できなくなったということか」
「一歩遅かった。あの皇帝の野郎、さすがに『簒奪皇帝の再来』と言われただけのことはあるな。……おっと、こいつは褒めちゃいないぜ? やることがえげつねえって意味よ」
こうしてウルバンとレネーが話をしている間も、コリーナは身動き一つしなかった。胸がかすかに上下していることから、まだ息をしていることが辛うじてわかった。
寝台の上に力なく落ちているコリーナの右手を、ウルバンは両手で握って額に押し当てた。
「俺はこの方を連れて兵営に行く」
「無茶だろ! 死んじまう!」
「ディートマーと共に半獣半人のために動いていると言うなら、こいつで馬車を用意してくれ。乗ってきた馬に引かせて、この方を兵営に連れて行く」
ウルバンはコリーナに渡されたネックレスを外してレネーに渡した。コリーナは『敵に渡せ』などと言っていたが、ここまで渡すべき敵とは遭遇していない。この高価なネックレスが活躍するとしたら、今だった。
「あんたは本当にディートマーが言ってたあの弟なのか!? 『半獣半人の統治権』のためになら、この女性が亡くなってもいいってのか!?」
レネーはウルバンの肩をつかんで、自分の方を向かせた。
ウルバンは泣き濡れた顔でレネーを見上げた。
「旦那……」
「この方は地位も名誉もなにもかもを捨てて、『半獣半人の統治権』をカーマレッキスに運ぼうとしていたんだ」
「俺の失言だ……。すまない……」
「俺は……この方の死体とでも婚姻する……。手伝ってくれ……」
ウルバンはレネーに力なく頭を下げた。
レネーは弾かれたように部屋を出て行った。
ウルバンは再び、コリーナの手を握り、自分の額に押し当てた。




