26.楡と長椅子亭(前編)
ウルバンは気を失ったコリーナを抱えて、進路をさらに北にとった。
ウルバンがこの北側のルートを選んだのは、このような事態に陥った時に逃げ込む先として、チネンタル侯爵領が適していると思ったからだった。
かつてディートマーはウルバンに『チネンタル侯爵はいろいろユルいけど、チネンタル男爵は真面目らしい』と語っていた。ウルバンはなにがどう『いろいろユルい』のかまでは聞いていなかったが、真面目な者の領地よりはユルい者の領地の方が、訳ありの者が入りこんだ時に動きやすいはずだ。
日が暮れる頃になって、ウルバンはチネンタル侯爵領のベヤマメンヒの町に到着した。表通りは避けて、いかにも訳ありな者が泊まりそうな裏路地にある宿屋の前で馬を止めた。
ウルバンが荒くれ者らしく乱暴に『楡と長椅子亭』の扉を足蹴にすると、ウルバンより少し背の低い、細身で妙に顔の良い中年男が扉を開けた。
「おい、泊まれるか」
ウルバンは茶色の髪の中年男を見下すように、唇の端を片方引き上げた。
今のウルバンは、ジュストコールの内側のシャツの襟元を肌蹴て、だらしなく気崩していた。中年男からは、どこかの金持ちか貴族の不良息子に見えているはずだった。
「これはこれは、もちろんでございますよ」
長袖シャツに茶色のパンツ姿の中年男は、媚びるように菫色の目を細めた。
「女連れだ。一番良い部屋にしろ。先客がいたら空けさせろ」
ウルバンは背後の馬に向かって、あごをしゃくった。
「一番綺麗なお部屋と、一番広いお部屋と、一番景色の良いお部屋、どちらが……」
「景色はどうでもいい。一番広くて綺麗な部屋だ」
ウルバンは中年男が言い終わらないうちに、言葉をかぶせた。それは、せっかちで傲慢で、平民の言うことなどろくに聞かない、ろくでもない貴族にありがちな癖だった。
「その火傷みたいな手首はどうした。訳ありでは困るぞ」
ウルバンは中年男の長袖シャツからのぞいている左手首をにらんだ。
傍から見たら、馬の背でぐったりしている女を連れて、こんな宿に泊まろうとしているウルバンの方がよほど訳ありだ。客観性のまるでない発言は、中年男にウルバンがとんだ阿呆だと思わせられるはずだ。
「こいつは昔、酒場でトロい半獣半人にスープをぶっかけられたんでさ。まわりの平民連中と寄ってたかって殴る蹴るして、川に放り込んでやりやした」
中年男は腕を曲げて、力自慢でもするようにウルバンに見せつけた。
ウルバンは男の話など興味がないと言うように、鼻で笑ってやった。
ウルバンはレネーという名であるらしい中年男に連れられて、貧相な厩に二頭の馬を連れて行った。厩でコリーナを馬の背から降ろし、抱きかかえて宿屋に入った。
「他の客は何組くらいいる?」
「へえ、こんな時期なんで、二組でさ」
「人数は?」
「そらぁ、連れ込み宿ですぜ、旦那。今回はタチのいい客みたいでね、男女二人が二組なんで、四人お泊り中でさ」
レネーは下卑た笑い声をあげた。
ウルバンは普通の宿に泊まるつもりだったが、日頃の素行の良さ故に、普通の宿と連れ込み宿の見分けがつかなかったのだ。
「旦那は運がいいやね。女一人に野郎が五人とかだと、女も野郎どもも、うるさくてかなわねえ。死人が出た日にゃあ、こっちも片付けるのが大変でかなわねえ」
レネーはちらりと、ウルバンの腕の中でぐったりしているコリーナを見た。
「こいつは死なせないから安心しろ。俺は三男だってのに、ババアが身分のある女を娶れとかうるせえんだ。こいつより美人を連れて来いと言ってやったら、このザマだ。美人が台無しだろ?」
「へえ、こちらのお嬢様は、どういったお方なので?」
「よく見ろ、お嬢様なものかよ。俺の家の下女の娘だ。半獣半人にお坊ちゃまが手を出して、なにが悪いってんだ!」
ウルバンは近くの壁を蹴りつけた。レネーが大げさに驚いて、なにも悪いことなどしていないのに大げさに謝った。
「医者は呼べるか?」
「旦那、どちらの都会から逃げて来なさったので? こんなクソ田舎に、半獣半人まで診察してくれるお医者なんぞ、いませんぜ?」
「金は積んでやるよ。こんなところでカロリーネに死なれたら、この俺様がババアに負けたみたいだろ?」
ウルバンはコリーナの身体を抱き寄せて、唇の端に口づけを落とした。娼館で用心棒をしていたイグナーツから聞いた、自分勝手な貴族の子息がやりがちなことの一つが、娼婦に残っているささやかな体面など考えず、『個室にしけこむ』前から女性に触り始めることだった。
「へへっ、旦那も気がお早い」
「少し触った程度では、さすがにこいつも死なないだろ?」
ウルバンは待ちきれないとでも言うように、コリーナの香りをかいでみせた。コリーナからは、鉄錆のような血と、汗と、砂ぼこりの香りがした。コリーナならばうっとりしながら、『わたくしのウルバン』に思いを馳せたことだろう。
「……三の、若様……、申し訳……ありません……」
少し前から意識を取り戻していたコリーナが、声を絞り出した。コリーナなりに考えたウルバンへの援護射撃だった。
ウルバンは一瞬だけ驚きの表情を浮かべてから、すぐにまた唇の端を片方引き上げた。
「医者を呼べ」
ウルバンはレネーを睨みつけた。
「そんなおっかねえ顔したって無駄ですぜ。ここはチネンタル侯爵領でも外れの方だ。まともなお医者なんぞ、領主館のある方まで行かなきゃあ、いやしませんぜ? こんなに弱ってるんじゃあ、そこいらのクソ医者どもじゃあ役に立たないでしょうしねぇ」
ウルバンはこんな時にならず者たちがよくやるように、「クソッ!」と吐き捨てた。
レネーはウルバンを二階の階段を上がってすぐの部屋に案内した。この宿屋の一番広くて綺麗な部屋のはずだったが、広くもないし清潔感も感じられない。窓もない粗末な部屋で、寝台の横には空き瓶が転がっていた。
ウルバンは広さだけが取り柄の粗末な寝台にコリーナを横たわらせた。
「スープを出せ。カロリーネに食わせる。俺にもまともな料理を持ってこい」
「へえ、旦那。酒はどうしやすか?」
「俺はこれでも用心深いんだ。酔ってちゃ、ババアの私兵どもとまともに戦えないだろうが」
ウルバンは一言「いらない」と言えば済むところを、長々と話してやった。これもまた自己顕示欲の強い貴族のやりがちなことだった。
「こいつは失礼しやした。さっそく作ってお持ちしやすがね」
レネーが部屋のドアに寄りかかり、腕を組んだ。
「なんのつもりだ?」
「おやおや、こういった場所の流儀をご存知ねえとでも? さっさと脱いでくだせえよ。あんたが本当に人間なのか、こっちは確認させてもらわねえとな。逃亡奴隷を泊めたとあっちゃあ、ご主人様方がこの宿に火を放ちかねねえでしょうが」
ウルバンは舌打ちをすると、羽織っていたジュストコールを脱いで床に落とした。シャツとパンツ、下着まで脱ぎ捨てて、コリーナにもらったネックレスだけを身につけた姿になり、レネーの前で回って見せた。
「ご立派な体つきに、高価なネックレスをお持ちなのは結構ですがね、手のひらと足の裏も拝見しておきやしょう」
「手のひらだけでなく、足の裏だと?」
「ええ、旦那。足の裏でさ」
ウルバンはレネーに背を向けて、片足ずつ足の裏まで見せてやった。
「足の裏に『獣の名残』のあるような高価な半獣半人は、このような場所には来ないと思うがな」
「へっ、ばかにしてくれますがね! 来やすよ! 足の裏に馬蹄の『獣の名残』のある、とびっきりの美形がね!」
レネーは寝台の脇に転がっていた空き瓶を拾い、ウルバンの後頭部を打とうとした。ウルバンは瓶をつかんでいたレネーの手を殴り、緩んだ指の間から瓶を奪い取った。
レネーはどこからか取り出した短剣を両手に構えた。




