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3.前世の記憶

 馬車に戻る直前、コリーナはウルバンとツァハリアスに、ここからは自分と侍女と乳母も乗馬服に着替えるということを伝えておいた。

 ここまでは特に大きな問題もなく進んで来ることができたが、それは運が良かったというだけのこと。ここから先はそうはいかないだろう。


(動きやすくて馬にも乗れる服装になったわ。髪も一つに結んである。これでほんの少しでも、わたくしを守ってくれているウルバン将軍たちの負担が減るとよいのだけれど……)


 コリーナはウルバンの姿を思い出した。前世で出会った時とほとんど変わらない、見た目は粗暴な印象の男。


(牢の中でわたくしを辱めることなく、むしろ労わり守ってくれた、本当はやさしくて誇り高い方……)


 今と前世のウルバンの違いといったら、軍服の着こなしくらいだろう。今のウルバンは任務の最中であるためか、軍服をきっちり着ていた。前世のウルバンは牢に入っていたからだろう、襟元をくつろげるなど全体的にゆるく着こなしていた。


 コリーナたちの乗っている馬車の屋根に何かが落ちた音が、物思いに沈んでいたコリーナを現実に引き戻した。

「敵襲だ! 妃殿下をお守りしろっ!」

 ウルバンの声がした。

「妃殿下を守れ!」

 他の兵士たちの声も、馬車の中まで聞こえてきた。


「山道はまだ先のはずよ! こんな田園地帯で襲ってくるというの!?」

 というコリーナの叫びを打ち消すように、再び何かが馬車の屋根に落ちた。

 馬の悲鳴のようないななきが聞こえ、コリーナの乗る馬車が大きく揺れながら止まった。

「妃殿下、馬車馬が一頭やられました!」

 御者が報告してきた。


 外からは、金属と金属を打ち合わせる音がした。


「お嬢様、上、上が……!」

 シシーが馬車の天井を指さした。

「あああ、なんということでしょう! お嬢様!」

 ギーゼラも上を見て叫んだ。

「上?」

 コリーナが見上げると、馬車の天井が燃えていた。

「あ……、あ……っ!」

 コリーナの心臓が恐怖で早鐘を打つ。

「ここを開けてっ! 開けるのよ!」

 コリーナは言いながら、自らの手で馬車の扉を開いた。

 田園の背の高い草が燃えているのが、コリーナの目に飛び込んできた。

「あっ、あああ!」

 コリーナの脳裏に、火炙りに処された時の記憶がよみがえった。


 熱さ、苦しさ、痛み。

 併合国家ウッタイの者たちの、憎悪に満ちた罵声。

 火力が落ちないように薪と燃料の足される音。

 自らの肉が焼けていく嫌な臭い。


(嫌よっ! もう嫌なのっ! あんな死に方だけは嫌!)

 という思いだけが、コリーナの思考を占領した。

 コリーナは馬車から飛び降りた。


「コリーナ!?」

「お嬢様!」

 ツァハリアスとギーゼラが呼ぶが、コリーナの耳には届かなかった。

 コリーナは少しでも炎から遠ざかろうと、まだ燃えていない方に向かって無我夢中で走った。


「辺境王妃がいたぞ! あの金髪だ!」

「あそこだ! 射殺せ!」

 殺意に満ちた敵兵の声も、コリーナには聞こえていなかった。

 ただここから逃げ出したい、その思い一つを胸に、コリーナは震える足を必死で動かしていた。


 無防備なコリーナの背中に向けて、火矢が放たれた。

 なにかを感じ取ったコリーナが振り向いた。

 コリーナの目には、火矢は大きな赤い火の塊が近づいてくるように見えた。


「きゃあああああ――!」

 コリーナは絶叫した。

 ジタルクッキングス皇国では、死神の姿は人によって見え方が違うと言われていた。コリーナにとっては、飛んでくる火の塊こそ、死神そのものだった。


 コリーナと火矢の間に、黒い影が飛び込んできた。

 サーベルの一閃により、火矢が地に落ちた。

 次々と飛来する火矢はすべて、サーベルによって薙ぎ払われた。

「妃殿下!」

 呼びながら、ウルバンがサーベルを鞘に戻し、馬上からコリーナに片手を伸ばした。コリーナは必死でその手をつかんだ。

 ウルバンはコリーナを馬上に引き上げると、再びサーベルを抜き、火矢を防いだ。


「妃殿下!」

 ウルバンに呼ばれたが、コリーナには聞こえていなかった。コリーナは震えながらウルバンにしがみつき、厚い胸板に顔を押しつけた。コリーナの頬を幾筋もの涙が滑り落ちた。

 再びサーベルをしまったウルバンは、片手でしっかりとコリーナを抱え、馬の腹を蹴った。


「辺境王妃が逃げるぞ!」

「逃がすな! 追え!」

「必ず殺すのだ!」

 という敵兵の声もまた、コリーナの耳に届かなかったのは、幸運だったのかもしれない。


「コリーナとウルバン将軍を守れ!」

 ツァハリアスが命じ、自らもまた馬を進めて、コリーナを追おうとしている敵兵を阻んだ。

「ウルバン将軍、コリーナを守ってくれ!」

 というツァハリアスの声を背に受けながら、ウルバンは馬を繰り、レアイヒロ峠へと続く森へと駆け込んだ。



 辺境軍の軍馬は、大人二人を乗せているというのに、疲れを見せることなく森の中を疾走した。

 走りに走って、軍馬は小さな泉のほとりへと二人を運んだ。


 ウルバンはコリーナを抱きかかえて馬を下りた。震えの止まらないコリーナを、木の幹に寄りかからせて座らせた。

「妃殿下」

 ウルバンに呼ばれても、コリーナは返事すらできなかった。

 ウルバンは馬の鞍に付けられた荷物袋から、水の入った革袋を出して、コリーナの手に持たせた。

 コリーナは少しうつむいて革袋を見つめ、ただ涙を流していた。


「妃殿下……、飲めませんか」

 ウルバンは革袋をコリーナの手から取ると、コルク栓を抜いて水を飲んだ。

「深窓のご令嬢には、さぞ恐ろしかったでしょう」

 と言う声には、皮肉などは一切なかった。


「泉の水なら飲めそうですか? 飲めそうなら、あちらにお連れします」

 ウルバンのやさしい問いかけに、コリーナはさらに涙を流した。ウルバンはコリーナに『半獣半人が口を付けた革袋の水を、無理して飲むことはない』と伝えようとしているのがわかったからだ。

 ウルバンはコリーナの返事を待ったが、コリーナはまだ声を出すことも動くこともできずにいた。


「こういうこともあろうかと、新品の革袋も用意してあります。しばしお待ちを。泉の水をお持ちします」

 ウルバンはまた馬のところに戻ると、新品の革袋を出した。大股で泉に近づき、自ら泉の水を飲んでみた。しばらく待って水に問題のないことを確かめてから、新品の革袋に水を詰めた。


 コリーナはそんなウルバンの姿を、涙を流しながらぼんやりと見ていた。


「こちらをどうぞ。よく冷えております」

 ウルバンはコリーナに新品の革袋を渡した。指と指が触れあい、コリーナとウルバンは見つめあった。

「ウルバン……」

 コリーナは思わず呼んでいた。もはや前世での記憶の中にしかいない、一夜限りの夫だった男の名を。目の前にいる『ウルバン』は、同一人物でありながら、彼ではないと知りつつも。


「妃殿下……」

 ウルバンは少し困ったように笑ってから、コリーナの手を握った。

「妃殿下が少しでもお楽になるのなら……、自分はこの身で妃殿下にお仕えすることもできます」

 ウルバンは、ぐったりと木の幹にもたれかかっていたコリーナをそっと抱き寄せた。

 コリーナは懐かしい温もりを感じて目を閉じた。

 あの恐ろしい牢の中でコリーナを安心させてくれたのと同じ、やさしい抱擁だった。

「ここには媚薬や催淫香はありませんが、妃殿下は残忍な女主人でも、醜悪な老嬢でもありません。そんなもの使わなくとも……」

 ウルバンの唇が、コリーナの額に触れた。



 この国の半獣半人の多くは、奴隷にされた獣人が、主人である人間に寝所で仕えさせられた結果として生まれてきた者たちの末裔である。女の獣人の多くは暴力によって、男の獣人はウルバンの言葉にあるような薬物を使って、人間たちに蹂躙されてきた。


 この国の獣人は、二足歩行で人間の言葉を話すことができるが、頭部は獣そのものだ。首から下も、体格が少し人間寄りながら、獣が後足で立ったような感じで、獣の毛に覆われてもふもふである。

 半獣半人ではなく獣人を寝所に招く人間は、その獣人を心から愛してしまったか、あるいは特殊な趣味かのどちらか。どちらもごく少数ではあったが、特殊な趣味の者たちの方が、圧倒的に数が多かった。


 今では獣人よりも、『獣の名残』がある以外はほぼ人間の姿で生まれてくる半獣半人たちの方が数も多く、人間にとっていろいろな意味で使いやすい奴隷となっていた。



「ウルバン将軍、ごめんなさい……」

 コリーナは弱り切っていた。ウルバンのやさしさに甘えてしまうほどに。

 ウルバンは片手で革袋を持つと、口を使ってコルク栓を開け、コリーナに水を口移しで飲ませた。飲ませ終えると、用済みになった革袋を少し離れたところに放った。


「ああ、ウルバン……、来てくれたのね……」

 コリーナは震える手でウルバンの顔に触れた。

 水を飲ませてもらったことで、コリーナの張りつめていた緊張の糸がゆるみ、意識がさらに混濁してきていた。

「妃殿下……?」

 ウルバンが困惑した声で訊いた。


「わたくし……、あなたの望みを叶えるわ……」

「ああ……、そういうことでしたか。そういうところは、貴族らしくなさるのですね」

 ウルバンは納得したというようにうなずいた。

 コリーナの返答は、貴族の女が、『自分から半獣半人を誘ったのではない』という体裁を整えようとしている時に言うセリフそのものだったからだ。

「そうです、妃殿下……。自分が妃殿下を欲したのです」

 ウルバンはコリーナの耳元でささやいた。


「あなたがわたくしだけに教えてくれた……。あなたがずっと……、心の奥底で望んでいたもの……」

「ええ、自分は……、ずっと妃殿下を望んでおりました」

 ウルバンは苦笑した。コリーナの言葉はどれも、貴族の女たちが半獣半人の男を寝所に召す時に口にするものに、あまりにもよく似ていたからだ。


「わたくしが持っていく……。カーマレッキスへ……、辺境王殿下の元へ……」

「なにを……、なにをおっしゃっているのですか、妃殿下!?」

 ウルバンは、話が噛み合っていないことに気づいた。その声には動揺がにじみ出ていた。

「皇帝陛下から……、結婚祝いとして……、もらった……」

「いったい、なにを――」

 と問うウルバンの声を聞きながら、コリーナは気を失った。

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