12.レミアムアウトの一の尾根(前編)
レミアムアウトの峡谷に、ゆっくりと太陽が沈んでゆく。
コリーナたちはザーランド伯爵領から最も近い尾根を登り、その頂上を今夜の野営地とすることに決めた。
すでにザーランド伯爵領を出ており、もう『目』の監視の心配をする必要もなかった。
一行はこの尾根の中腹で金杯軍のマントを脱いでいた。どこでなにが起きるかわからない旅である。脱いだマントは、各自が荷物袋に入れて持ち歩くことにした。
コリーナは一人、『レミアムアウトの一の尾根』の崖から、眼下に広がるいくつもの貴族領や皇帝領、その彼方へと沈みゆく太陽を見ていた。
他の者たちは、幕舎を建てたり、夕食の支度をしたり。馬の世話をしている者もあれば、偵察に出ている者もあり。それぞれができることをして、忙しくしていた。
コリーナも手伝おうとしたのだが、どれも不慣れなことばかり。まわりに気を遣わせるばかりで、なんの役にも立てなかった。
(あのまま迷惑をかけ続けるよりは良いわよね……)
コリーナは自分が恥ずかしかった。みんなはそれぞれなにかができるのに、一人だけなにもできずにいた。
未来の皇后となるために覚えたことは、ここではどれも必要とされていないことばかりだった。
美しく歩き、お辞儀をして、優雅に笑う。淑やかに紳士に手をとられ、誰もが見惚れるダンスを踊る。異国の知識や言葉。皇族の序列。貴族の序列。
皇太子妃として、皇后として、どう考え、振る舞うのが最良か――。
そんなことを知っていても、もはや無意味なのだと、コリーナは痛感していた。
(ウルバン……、わたくしは、それでもカーマレッキスに行くわ)
コリーナは心の内で語りかけた。
「お呼びですか? ……自分の勘違いでしょうか?」
ウルバンに背後から話しかけられて、コリーナは驚きながらふり返った。
「わたくし、声を出していた……?」
コリーナは慌てて片手で口を押えた。
「呼ばれたような気がしたのですが……」
ウルバンはコリーナの隣までやって来た。
「忙しいのではなくて?」
コリーナはウルバンを見上げた。夕日に染まった横顔は、無精ひげがあっても端正さを隠しきれていなかった。
(ウルバンもこんなに背が高かったのかしら……? ウルバンはあの牢で、震えるわたくしの隣に座ってくれて、泣いたら抱きしめてくれて……。身体の大きな方だとは思ったけれど、背の高さのことなんて考えなかったわ。……ああ、わたくしったら、どうかしているわね。同じ方なのですもの、背の高さも一緒に決まっているわ)
コリーナはウルバンから夕日へと目を移した。
「あまり見つめられると、声も出せません」
ウルバンに言われて、コリーナは「あっ」と小さく叫んだ。
「わたくし、はしたなかったわね……。ごめんなさい」
コリーナは口を押さえていた手で、今度は胸を押さえた。コリーナの心には、ウルバンの言葉がとても甘やか響いていた。
危険なことなどなにもないのに、鼓動がなぜこんなにも早くなるのか、コリーナにはわからなかった。
「責めたつもりはありません」
という声音はやさしく、コリーナの耳には、どこか労わられているように聞こえた。
「わたくし……、ずっと皇太子殿下の許嫁だったから、決まった方としか口をきいたことがなかったの。わたくしと話をしていると、おかしなところも多いでしょう……?」
コリーナは自分が、皇太子の許嫁という、いずれは皇后にまでなる尊い身分でありながら、陰では無知だと嘲笑われていることを知っていた。知っていながらずっと、なにも気づかないふりをして、人々の前で優雅にほほ笑んできた。
「そんな……、おかしなところなどありません」
「そうよね……。あなたの立場なら、そう答えるしかないわよね。わたくしったら、本当にだめね……」
コリーナは顔を伏せた。半獣半人が人間に向かって、正面から「たしかにだいぶおかしいですね」などと言えるわけがなかった。
ウルバンはコリーナに向かってひざまずき、片手をとった。
「誓って、妃殿下にはだめなところなどありません」
「本当にごめんなさい……。立ってちょうだい。もう困らせないわ」
コリーナは、ウルバンの二の腕に触れて、立つように促した。
「妃殿下は素晴らしい方です」
ウルバンは眩しいものでも見るように目を細めてから、ゆっくりと立ち上がった。
「決まった方としか口をきかなかったというのは、どのようだったのですか?」
ウルバンが気遣わしげに訊ねた。
「例えば……、わたくしには弟がいるのだけれど、『同腹の兄や弟といえど、年齢の近い異性と会話してはならない』という掟に従って、一緒に住めなかったわ。弟は幼い頃に皇都から領地に移されて、たまに両親が会いに行っていたの。わたくしのせいで、ずっとさみしい思いをさせてしまったわ……」
コリーナは幼かった弟の姿を思い出す。弟はお気に入りの半獣半人のヨストという男に抱えられ、涙をこらえて皇都から領地へと旅立って行った。
コリーナはヨストの足にしがみついて、「ザロモンを連れて行かないで!」と泣いた。弟が旅立ってからしばらくは、ヨストを恨めしく思ったものだった。
今ならばコリーナにもわかる。私兵としてザーランド公爵家に仕えていたヨストは、主人の命令に従うしかなく、親子を、姉弟を引き離す、残酷な役回りを押しつけられただけなのだと。
「それはまた……。ずいぶんと徹底されていたのですね」
「ええ、そうなのよ。後は……、わたくしが剣技を金杯王殿下に習ったことは知っているわよね。わたくしが金杯王城で剣の稽古をする時には、みんな声を出さないの。挨拶すらしてもらえないのよ。しかも、わたくしに手紙などを渡さないよう、ずっと見張られていたの。ツァハリアス護衛兵長とだって、話をしたのはこの旅に出てからなのよ」
「ツァハリアス護衛兵長も、というのは意外です」
「金杯王殿下は皇族で叔父上でもあるから、少しはお話したのよ。それに、おしゃべりはできなかったけれど、ツァハリアス護衛兵長とは幼い頃から、一緒に過ごすことはあったわ。追いかけっこをしたり、花冠を作ったりして遊んだのよ」
「そうなのですね」
ウルバンが相槌を打った。
「辺境王殿下の軍法会議の時も、参加者は余計なことを言いそうになったら、警備兵に切り捨てられることになっていたのよ」
「それは……」
とウルバンはなにかを言いかけて、しばし躊躇した。
「……妃殿下はなぜ軍法会議をご見学なさったのですか?」
「皇帝陛下から『未来の皇太子妃として、勉強になることもあるだろう』とお招きいただいたのよ」
「そうでしたか……」
ウルバンは少し考えてから、遠慮がちに言葉を続けた。
「皇帝陛下が妃殿下を招いたのは、誰か切り捨てたい相手がいたからかもしれません」
「そんな……、そんなことが……」
コリーナの鼓動が、先ほどとは違った理由で早くなった。自分がそんな残酷なことに利用されようとしていたなど、考えるだけで恐ろしかった。
「辺境王殿下に無理な進軍の勅命を下したのも、軍法会議を開いて妃殿下を呼ぶためだったと考えると納得がいきます。皇帝陛下と対立しているような者に心当たりはありませんか?」
「皇帝陛下と対立している者……」
今度はコリーナが少し考えてから、ツァハリアスを呼んだ。金杯王城に住んでいるツァハリアスならば、皇宮や宮廷のことにも詳しいだろうと思ったのだ。
コリーナから皇帝と対立している者に心当たりがあるか問われたツァハリアスは、シシーを呼ぶように勧めた。
「シシー? あの子は皇宮とも宮廷とも無関係なわたくしの侍女よ。そのシシーが皇帝陛下と対立している者を知っているというの?」
「そうだよ。僕が説明するより、シシーの方がずっと詳しいと思うよ」
コリーナは納得のいかないままシシーを呼び、シシーがギーゼラと共にやって来た。
「まあ! 妃殿下と『ビットラン侯爵と野に咲く薔薇』のお話ができるなんて!」
コリーナは皇帝と対立する者について問うたはずなのに、シシーはなにか物語の話だと勘違いしたようだった。
「わたくしが訊ねたのは、皇帝陛下と対立している者がいるかということよ?」
コリーナは困惑して言った。今は物語の話などしている場合ではない。




