8.辺境王妃の初勝利(後編)
「この機会だから話しておくけれど、皇都の貴族や皇族は、軍事に興味がないわ。辺境の前線は半獣半人に守らせているし、その後ろには、辺境の周辺に領地を持ち、武芸に長けた、『辺境の砦』と呼ばれているチネンタル一族が控えている」
「はい」
とだけ、ウルバンは答えた。
「皇都には武芸を好む金杯王殿下と彼を慕う『金杯軍』。彼らを牽制するために皇都に呼ばれた『辺境の砦』の長、チネンタル公爵と彼の私兵がいる。この国の守りは、それで万全だと思っているのよ」
「興味がないのに、辺境王殿下に無理な進軍を命じた上に、軍法会議までしたのですか?」
ウルバンの声には、不快感がにじみ出ていた。
「無理な進軍を命じたのは、皇帝陛下や側近たちが、戦をわかっていないからだと思うの。軍法会議をしたのは、一介の軍人が自分たちに逆らったのが気にくわなかったからではないかしら?」
「……」
「兵権ですら、この国の皇族や貴族は欲していないわ。今はわたくしが辺境王殿下と婚姻することで、ザーランド公爵家が大きな兵力を手にするようなかたちになったから、脅威を感じている者もいるでしょうけれど……。皇帝陛下のお側にあって、皇都で権力を握ることがすべてなの。わたくしの両親にとって、わたくしにはもう価値がない。こうしている間にも、ザーランド一族から選んだ美しい娘を養女にして、皇太子殿下の新しい許嫁にしようとしているでしょうね。わたくしが今どうしているかなんて、考えている暇もないくらい忙しいはずだわ」
「妃殿下にとって……、辺境王殿下の美しさは、ご両親すら捨てるほどの価値あるものだったのですか?」
ウルバンの問いに、コリーナは困ったようにほほ笑んだ。
「辺境王殿下が処刑されることになったら、きっとあなた方は併合国家ウッタイと組んで皇都に攻め込むわ。この国が滅びてしまう……」
ウルバンは肯定も否定もしなかった。
(前世でウルバンは、ホーラン男爵が処刑され、六つに切断された遺体が皇都の外壁から吊るされたのを見て、辺境に戻って併合国家ウッタイと手を組む決意をしたと言っていたわ。併合国家ウッタイの軍の先頭に立って、この国を攻め滅ぼしたのは、『怒れる魔獣』ウルバン・レミッシュ。……辺境軍の兵士のために、併合国家ウッタイの兵士の憎しみを一人で背負い、自ら火炙りになることを選ぶほど、高潔で信念のあった方。わたくしの、たった一人の、『悲しい魔獣』……)
コリーナは泣きそうになるのを必死でこらえた。
「妃殿下には、この国が滅びる未来が見えているようですね。それは聖女の力なのでしょうか……?」
ウルバンにかけられた言葉によって、コリーナは前世から今へと引き戻された。
「聖女の力も、魔法も、この世に存在しないわ……。ただ、きっと、あなた方はそうすると、わたくしは思うの」
「それは……、どうでしょうか……」
ウルバンは認めなかった。
「いいのよ。この国を滅ぼすなんて、認められるわけないもの」
「まあ……そうですね。妃殿下は聡くていらっしゃる」
コリーナは足を止めると、ウルバンの腕から手を離した。
「どうかなさいましたか?」
と問うウルバンの横で、コリーナは両手を合わせると、指を前に伸ばした。
「このくらいだったかしら? もっと細かった?」
コリーナは両手を離したり近づけたりしてみていた。
「なにがでしょうか?」
「幅はそんなに重要じゃないわね。この両手が崖で、この指の少し先に川が流れていたのよね?」
「なんのお話でしょうか……?」
ウルバンは困惑していた。
「辺境王殿下が軍法会議に呼ばれることになった、皇帝陛下の勅命についてよ」
コリーナは両手の指先を少しだけ上げた。
「崖の下は、川に向かって上り坂」
コリーナが言うと、ウルバンは軽く目を見開いた。
「辺境王殿下やあなたは、崖の上でウッタイの兵士が坂道を通るのを待ちかまえていた。逆に、ウッタイの兵士は川を背にして、辺境王殿下たちが坂道を上がってくるのを待ちかまえていた」
「なぜ、それを……。辺境王殿下は軍法会議で説明しようとしたのに、話を遮られてほとんどなにも聞いてもらえなかったと言っていました」
「そうよ。軍法会議に出た皇族や貴族は、そんな話はどうでもいいと思っていたはずだわ」
コリーナも前世では、アロイスがただ言い訳をしようとしているのだと勘違いしてしまった。まわりの貴族たちが口々に、「言い逃れできると思っているのか!」などと怒鳴っていたから……。
「そんな話……? どうでもいい……? こちらは命がかかっていたというのに……!」
ウルバンは声を荒げた。
(そうよ。あなたたちは、この国のために命をかけて戦っていたのよ。わたくしは、そんなことすらわからなかった。それなのに、わたくしはこの国の皇后、聖女とも呼ばれる身分になるところだった……)
コリーナは内心でウルバンたちに詫びながら、話を続けた。
「ウッタイの兵士は川をせき止めて、いつでも坂道に水を流し込めるようにしていた。……辺境軍の兵士たちが水に押し流されたら、坂の下にある崖から谷底へ真っ逆さま」
「その通りです」
「この前、わたくしたちが火矢で攻められたのを火計と呼ぶとしたら、この時にウッタイがやろうとしていたのは水計ね」
コリーナは兵法書から学んだことを思い出しながら言葉を紡いだ。
「その通りですが……。どれだけ兵法書を読まれたのですか」
ウルバンの声は真剣そのものだった。
「まだまだ読み足りないわ。皇帝陛下の勅命は、この坂道を通って、速やかにウッタイの兵士を攻めろというものだった。辺境王殿下やあなたは、こんな勅命に従うことは、絶対にできなかったわよね。従ったら、大事な仲間たちが、みんな死んでしまうもの」
「すべておっしゃる通りです、妃殿下」
ウルバンはひざまずいた。片手に持っているランプの火が大きく揺れた。
「辺境王殿下は崖上から少しずつ兵を動かして、川辺にいるウッタイの兵士を挟み撃ちにする用意をしていたのよね? ウッタイ側もまた、少しずつ兵を動かして、崖上の辺境王殿下たちを討つ準備をしていた。双方の動かしている兵同士があちらこちらで戦って、勝ったり負けたりしている状況。――手詰まりだったのよね?」
「そこまでご存知だったのですか……。どなたが妃殿下にお教えになったのですか? 金杯王殿下でしょうか? それともツァハリアス護衛兵長……?」
「どちらも違うわ。あなたに教えることのできない方よ」
「皇帝陛下……? いや、皇后陛下……?」
「ああ、いけない! そう聞こえてしまうわよね! 皇帝陛下でも皇后陛下でもないわ!」
コリーナは慌てて言った。
「それほど戦をご存知でいながら、勅命が下されるのを止められないお立場の方……。どなたかわかりませんが、その方を辺境へお連れすることはできないのですか? 辺境王殿下のお力になれる方だと思います」
「それはできないわ……。もう亡くなっているもの」
コリーナにこの話をした『ウルバン・レミッシュ』は、たしかに亡くなっていた。コリーナと共に、火炙りの刑に処されて――。
「どちらの重鎮かわかりませんが、残念なことです」
「重鎮……? まるで貴族のような言葉を使うのね」
言ってから、コリーナは小さく息を呑んだ。
(わたくしは本当にだめだわ……。なんで思っていることが上手に言えないのかしら……。これではウルバン将軍を見下しているようにしか聞こえないわ)
考えながらも、コリーナはこの失態をどうしたらよいのか、すぐには思いつけずにいた。
「辺境王殿下は金で爵位を買った方です。勤勉な辺境王殿下は、貴族について学ばれている時、我々にもいろいろと貴族についてお話してくださいました。……重鎮など、自分のような『卑しい半獣半人』の使う言葉ではありませんでした。お許しください」
「責めているのではなくて、教養の高さに驚いたの……。許してほしいのは、わたくしの方よ。どうしたらあなたたちに、思ったことを思ったとおりに伝えられるのかしら……。わたくしにはもっと努力が必要だわ」
コリーナはウルバンに近づき、彼の二の腕に触れることで、立つように促した。ウルバンは黙って立ち上がった。
「ウルバン将軍は本当に辺境王殿下の信頼が厚いのね。それに、とても聡明だわ。わたくしももっと学ぶわ。あなた方と並び立っても恥ずかしくないように」
コリーナの言葉には、ウルバンや辺境王、辺境軍の兵士たちへの尊敬の念こそあれ、一つの嘘偽りもなかった。
「ウルバン将軍にもう質問がないようなら、散策はそろそろ終わりにしましょう」
コリーナが言うと、ウルバンはまた腕を差し出した。コリーナはその腕に触れた。
ウルバンは歩き出した。
コリーナも、ウルバンも、口を開かなかった。
ウルバンは少しだけ遠回りをして、コリーナを彼女の幕舎に送り届けた。
去り際に、ウルバンは言った。
「貴族のご令嬢は、友と思った相手にお茶をふるまうというのは本当でしょうか? 貴族のことを学ばれた辺境王殿下が、そうお話されていましたが……」
「ええ、本当よ……」
コリーナは気まずげに顔を伏せた。
「それを聞いて安心しました。辺境軍の兵士は、みんなこの話を知っていますので」
ウルバンはまだ宴会を続けている者たちの方に向き直ると、「おい、本当だったぞ!」と叫んだ。さらに、片手をあげて、大きく振り始めた。
「え……?」
コリーナは驚いてウルバンを見上げた。
「ほら、やっぱりそうだったじゃないか!」
辺境軍の兵士の一人が叫び返してきた。
「妃殿下、将軍が『他に飲み物がないからじゃないのか?』なんて言ってましたよ!」
笑いながら大声で言ったのは、フォルカーだった。
「ウルバン将軍は慎重なお方だ! だから辺境王殿下も信じて、こうして妃殿下を託しておられるんだろうて!」
ボドがわめいた。
「単純で気のいい連中です。仲良くしてやってください」
ウルバンがコリーナに笑いかけた。
コリーナは両手で自分の真っ赤になった頬を押さえた。
「わたくし、恥ずかしいわ!」
コリーナはウルバンの手からランプをもぎ取ると、幕舎の内に逃げ込んだ。
「妃殿下は恥ずかしいそうだぞ!」
どこか困惑したようなウルバンの声がした。
「そりゃそうさ!」
気風の良い中年の女の声が返事をした。
「まだ若いんだよ! かわいいじゃないか!」
別な中年の女の声もした。
幕舎の内に聞こえてきた大きな笑い声は、コリーナの胸の内を少しだけ温かくした。




