最大級の分水嶺?
江戸時代前期、人口増加に伴い江戸の町は飲み水が不足していました。
これを解消するため、長大な用水路が作られました。
玉川上水です。
武蔵野台地を東西に横切る用水路は、台地の高いところを通しており、用水路の両側に均等に水を分配できます。
40キロメートルもの連続した分水嶺は、世界最大級と言えるかもしれません。
これは玉川上水を題材にした小説を書こうとする青年のお話です。
公式企画『秋の歴史2024 テーマ:分水嶺』参加作品です。
「イタルって、また転生物の歴史小説を書くのね。今度は戦国時代? 『本能寺の変』を止めるとか」
図書館で歴史の本を僕が読み漁っているときに、幼なじみのユズナが話しかけてきた。
僕はときたまインターネットの小説投稿サイト『小説を書こう』で自作小説を出している。
最近は歴史ものの話を何度か投稿していた。
現代の人間が過去の日本に転生して、現代人の知識を活用して歴史的な事件を解決する話にしていた。
「『本能寺の変』がなくなると、日本の歴史がだいぶ違ったものになりそうだね。いやいや、ユズナ。今考えているのは江戸時代のもう少しマイナーな出来事だよ。今回は江戸時代の初期に作られた玉川上水のことを書こうと思う」
僕は机の上に置いていた資料から玉川上水の本を取り出した。
玉川上水は、江戸の町に飲料水のための真水を引き込むものだ。
用水路が東西に約四十キロメールにわたって掘られ、多摩川の水を江戸の町に届けた。
(地形の色分けはイメージであり、実際の等高線とは異なります)
江戸の町は十六世紀に徳川家康が入ってきたことで造られた。
ここは海が近いため、真水が不足していた。井戸を掘っても塩水がでてくるのだ。
家康は家臣に命じて、江戸城の北西部にある小石川目白台の湧き水を取り入れる上水を作らせた。
これが小石川上水だ。
上水とは、飲料水をとりこむ水道のこと。
水道管だけではなく、上に覆いのない用水路も含まれている。
逆に、人間が使い終わった水を川などに流すものを下水と呼ぶ。
小石川上水は三代将軍家光の頃に拡張され、さらに西方にある井の頭池から水を引き込む神田上水となった。
しかし、江戸が日本の中心となり、参勤交代制度の影響もあって人口が激増した。
こうなると水が足りなくなってくる。
十七世紀、江戸幕府は四代将軍家綱の施政のもと、多摩川の水を利用することが計画された。
ただし、江戸の南側を流れる多摩川下流部は、江戸より低地だ。ここから江戸へは水をひけない。
江戸までの水路をつくるには、もっと上流から水を取り入れる必要があるのだ。
多摩川の上流部は江戸から見て西方にある。江戸から西に行くにしたがって標高が高くなっていく。
ちなみに多摩川は江戸時代には『玉川』と書かれることもあった。
幕府から工事を請けたのが、土木工事を営む庄衛門と清右衛門の兄弟だ。
承応二年、西暦一六五三年に工事が始まった。彼らは多摩川の上流部にある羽村という場所に取水口を作った。現在の東京都羽村市だ。
そこから現在の新宿区にある四谷まで用水路を掘った。
この功績で、兄弟は玉川という姓と武士の資格をもらったのだ。
「ちょっと待って、イタル。あなたがこれまで書いていた小説って、歴史的に不幸な事件を解決する話だったでしょ。今回は違うの?」
「うん。たしかに玉川兄弟は用水路の掘削に成功した。武士になって、玉川上水を管理する仕事にもついた。でも、彼らがちゃんと報われたかが怪しいんだ」
玉川上水は大勢の人が雇われて、わずか八か月で開通させたという。
ただし八割ほど掘ったところで、江戸幕府の用意していた資金を使い切った。
「そうなの? でも、お金が足りないなら幕府に追加で出してもらうしかないよね」
「うん。兄弟たちも幕府に追加のお金を要請したけど断られたんだ。まぁ、元から予算が決められてたから、幕府も簡単には出せないかもね」
玉川上水の工事は複数の業者に計画書と見積り金額を出させて、妥当な内容で安い価格をつけた庄衛門・清右衛門兄弟が選ばれたのだ。
今でいう『競争入札』だ。
「うわぁ……。それでどうしたの? お金がなければ人も雇えないよね」
「兄弟は自分たちの貯金を使って、さらには家を売って金策し、それでなんとか玉川上水を開通させたんだ。いちおう幕府から褒美のお金がでたけど、兄弟たちにとっては大赤字だったみたいだ」
「ふんふん。じゃあ、イタルが書く小説では、転生した主人公をお金持ちにするのかな。で、工事の資金援助をするとか」
「いや、どっちかというと技術の方だな。もっと低コストで作れば、玉川兄弟は家を売らずに済んだかも」
江戸の西側は武蔵野台地が広がっている。現地でぱっと見ただけだと高低差は感じないが、地形図で見ると多摩川の北側は東西に延びる丘のようになっているのだ。
玉川上水は、まるで馬の背を通すように、台地の一番高いところをつなぐようにして作られた。
水は高いところから低いところに流れる。
用水路の途中で低すぎる場所に水路を作ってしまうと、そこから高いところには通せないのだ。
水を取り入れる羽村から、ゴール地点の四谷までは約四十キロメートル。
羽村と四谷の標高差は約百メートルだ。
平均すると、東西に百メートル進むごとに約二十センチの高低差となる。
ただし、地面の傾きは一定ではなくでこぼこであるため、水を通すには工夫が必要だ。
標高の高いところを選びつつ、なるべく最短距離で用水路を通したい。
用水路の大きさは場所によって異なるが、江戸に近づくにつれて深さも幅も小さくなっていく。
「ユズナ。ちょっと想像してほしいんだ。植木鉢の底に石をつめて、その上に土を敷き詰めたのを考えてみて」
「ふつうの植木鉢の中はそうするでしょ。土だけだと水捌けが悪くなるよ」
「武蔵野台地の地層は植木鉢みたいになっているんだ」
武蔵野台地の地表部分は赤土の層がある。水を通しやすい土で、厚さは五メートルから十メートルほど。これは富士山や箱根山の火山灰が積もった関東ローム層である。
その下には礫層という砂や小石の混じった層がある。ここはさらに水を通しやすい。
用水路の途中で赤土が薄い部分があると、お風呂の栓を抜いたように水が地中に吸い込まれるそうだ。そこは水喰土と呼ばれている。
これは、用水路を『深く掘りすぎてもいけない』ということでもある。
「武蔵野台地では、それまで見えていた水が消える『逃げ水』という伝承があるんだ。逃げ水の正体には二つの説がある。そのうちの一つは水が地面に吸い取られてしまう水喰土のこと。もう一つは温まった地面で水が屈折して、地面に水があるように見える現象だ」
「イタル。逃げ水って、蜃気楼に似たやつだと思うけど」
「うん。蜃気楼も空気の濃いところと薄いところで光が屈折して、幻影が見える現象だよ」
「玉川兄弟が用水路を掘るとき、水喰土にぶちあたって工事を二回やり直しているんだ。それがなければ出費も抑えられると思う」
最初の失敗は、地面の高さの調査不足によるものだ。現在の取水口の羽村より下流で、日野……今の国立市の青柳というあたりから用水路を掘り始めた。
しかしここからだと、土地の低いところから高いところをつなぐ経路になった。
そこを切り通すために深く掘りすぎて、水が地面に抜けるようになったのだ。
現在の府中市で『かなしい坂』という伝承が残っている。工事の担当者たちが嘆いたことでその名ができたようだ。
工事をはじめからやり直すことになり、次は多摩川からの取水口を上流側に設定し、今の福生市のあたりから掘り始めた。
しかし、掘っている途中でまた水が地下に抜ける水喰土にぶつかった。
途中まで掘った水路跡が『水くらいど公園』として現在も残っている。
ここでの失敗は、土の固い箇所か岩盤に当たって掘れなくなった、という説もある。
結局、さらに上流の羽村に取水口を作ることにした。北西から南東に流れる多摩川が、この箇所では南方に折れている。
ここは東方向への用水路を作るのに適していた。現在の地形図を見ても、武蔵野台地の尾根に上げるのはここから掘るのが最適解なのだ。
玉川用水の通過点の多くは川越藩の領地である。工事の総奉行も川越藩主・松平伊豆守信綱が担当している。
玉川兄弟が二度失敗した後、川越藩の侍で土木工事に詳しい安松金右衛が測量と用水路の再設計を手伝っている。
僕の書こうとする小説では、現代人の主人公が川越藩の住民に転生し、安松金右衛の補助をする町民という話にする。
玉川用水のことをよく知っていて、現代の川べりをウォーキングしたことのある人という設定だ。
で、主人公は安松金右衛の指示で最初から玉川兄弟をサポートする展開にしよう。
「イタル。そもそも玉川兄弟ってどういう人なの? ものすごい大工事の責任者になったってことは、有名人だったのかな」
「玉川兄弟の出自については、はっきりした資料が残っていないんだ。江戸の町人だったという説や、多摩川の流域に住んでいた農民だった説もある。羽村出身という説もあるけど、これは後世の創作みたいだ」
記録は残っていないが、土木工事などで当時の江戸では知られていた人物なのかもしれない。
玉川上水を作るのは江戸幕府主導の大事業だったはずだ。民間人に指揮をとらせたからには、それなりに実績もあったのだろう。
まぁ、失敗したときに責任を取らせるつもりもあったかも。
兄弟は二度の失敗で資金が枯渇した後、自力でお金を調達している。それなりにお金持ちだったと思われる。
取水口を変えた場合、単に水路を掘りなおすだけでは済まない。
用水路に水を潤沢に流すため、多摩川をせきとめてダムにする必要があるのだ。
このダムは、ただ水をせきとめるだけではない。大雨の時には水量を調整できるようにしないといけない。
できないと用水路がこわれるかもしれないし、洪水のリスクも高まるのだ。
さらに、多摩川は上流で伐った木材を筏にして、河口付近まで送られている。
この木材は江戸の建築資材になっている。せきとめたダムはこの筏を通せるようにしないといけない。
さらに、多摩川の名物のアユが川を遡上できる構造にする必要もあるのだ。
取水口を変えるということは、ダムも作り直しになる。
資金がつきた要因の一つだろう。
羽村から取水する玉川用水は、そこからしばらく多摩川に並走するように南東向きに掘られ、現在の福生市でゆっくり東に折れるコースを取る。
そこからの用水路は五日市街道にそって東に進む。
東に掘り進んで、現在の三鷹市にある井の頭池の南方まで伸ばす。
井の頭池からは、すでに作られている神田上水があり、江戸まで用水路が伸びている。
「イタル。そこで神田上水につなげれば完成じゃないの?」
「いや、ユズナ。そういうわけにもいかないんだ」
神田上水は江戸の北側の水道橋につながっている。そこは標高が海抜五メートルほどで、江戸北部にしか
水を行き渡らせることができない。
それに対して四谷は海抜四十メートルほどで、ここから江戸南部に水を供給できるのだ。
井の頭池の南、現在の井の頭公園の中を玉川上水が通過している。
井の頭池は谷間になっており、周囲より十メートル程度低くなっていて、そこから神田上水……神田川が伸びているのだ。
玉川上水は井の頭付近からは、神田上水に並走するように南東方向に掘られている。
そこからは甲州街道近くまで掘り進み、尾根筋をたくみに通して、現在の新宿区の四谷大木戸まで掘るのだ。
「ねえ、イタル。四谷の先はどうなっているの?」
「石や木で作った水道管を通して、江戸の西部と南部の井戸に分配されているよ。末端の井戸では竹の水道管が使われた。玉川上水ができる前は、近場の溜め池から水を引いていたらしい。その水道管を一部流用したみたいだ」
「四十キロメートルの用水路ってすごいよね。もしかして世界で一番だったりするかな?」
「いや、玉川用水より三十年ぐらい前にイギリスでニュー・リバーっていう用水路が掘られた。ロンドンまで、北方の川から水路が引かれたんだ。こちらは直線距離では三十キロメートルだけど、実際の水路の総延長は六十キロメートルぐらいだ。取水口から出口までの高低差が6メートル程度、1キロメートルで十センチしか変わらないから、大変だったみだいだね。玉川上水と違って水喰土はなさそうだけど」
「そうなんだ。それで、玉川上水ができたことで、江戸の飲み水の問題が解決したわけだね」
「ユズナ。玉川用水で使われたのは、江戸の飲料水だけじゃないんだ。玉川用水できる前の武蔵野台地は、水が不足していて田んぼが作れなかったんだ。雨が降っても赤土が水を吸い込んでしまうからね。玉川用水ができた後、余った水を丘の南北に分水した、それでこのあたりで稲作ができるようになったんだ」
玉川用水が丘の尾根を通っているせいで、途中の経路が分水嶺になっているのだ。
用水路の北側にも南側にも水を送ることができる。
玉川用水は江戸の飲料水のために掘られたもので、当初は分水する予定はなかった。
例外は川越藩の使う野火止用水だ。この分水路だけはいち早く幕府から許可がでた。
野火止用水は今の立川市と小平市、東大和市の境になる箇所から北方に延びており、玉川用水の北側が潤うことになった。
これは玉川上水を通るルートの大部分が川越藩の領であり、工事に多大な協力をしたことによるものだろう。
そもそも玉川用水をつくる総奉行が川越藩主なのだ。
初めから他への分水も視野にいれておけば、費用負担をもっと抑えられたのではないだろうか。
用水路の掘削は近隣住民も駆り出された。しかし、基本的に分水はしない予定だったので、ほとんどの人は自分たちが使えない用水路を掘らされた。
協力した住民に分水を約束できればいいんだけど、難しいかな。
分水の方針が変わったのは、玉川上水ができてから約七十年後だ。幕府が日本全国に新田開発の命令を出したのだ。
当然、新田には大量の水が必要で、玉川上水でも分水路を作る許可が出はじめたのだ。
玉川上水が十分な水量を持っていて、分水が問題ないことがわかったからであろう。
さて、玉川上水の開削後、玉川兄弟は玉川を管理する仕事について、子孫もそれを継続していた。
が、分水が増え始めて約十年後、兄弟の子孫は管理能力不足でその役割を下ろされ、その後は幕府の管理となった。
さすがに分水路が増えたら、兄弟の子孫には管理しきれなかったんだろうね。
「玉川兄弟も川越藩も『分水嶺に水路を通す』という意識はなかったかもね。結果として、赤土の層が一番厚い経路を通すことになったんだ」
「ねぇイタル。この当時って、現代のような正確な地図がなかったんでしょ。小説の主人公が過去に転生した場合って、完成形の正確なルートとか、過去に失敗した場所とかってわかるのかな?」
「うん。だから、最初に正確な地形図を描くんだ」
高低差を書き込んだ地形図を最初に作っておけば、問題のある個所があらかじめ予想できる。
大勢の人を動かすのにも役立つだろう。
実際に掘り始めるより、調査に時間をかけるべきだ。できれば武蔵野台地の模型を作りたいね。
「土地の高さってどうやって測るの?」
「玉川兄弟は、夜に提灯を持った人を一列に並ばせたみたいだね。明かりの高さで高低がわかるんだ」
「それって、逆に言うと夜にしかできないよね。それぞれの明かりがどの地点かもわかりにくいかも」
「うん。だから、昼間に土地の高さを測る方法を考えてみた。水準器を使うんだよ」
木の角材の一面に細長い溝を彫る。ここに水を満タンに入れ、こぼれないように保てば水平にすることができる。
ある場所で角材を目の高さに置くと、その先に見えるものが『同じ高さ』となる。
「用水路のルートではこんな感じで測ればいいと思う」
1)スタート地点に腰の高さでの旗を立てる。
2)そこより東の位置で旗を立てる。水準器を使って同じ高さにする。旗の高さを地図に記録する。
3)用水路の予定ルートが複数の候補がある場合は、それぞれに旗を立てて高さを地図に記録する。
4)旗の高さが人の目の高さを超えた場合は、腰の高さに別の色の旗を立てる。
「こうしていけば、土地の高さの差を地図に描けると思う」
「それって、旗の位置が見通せる場合だよね。高い草むらとか林があって、視界が遮られたら測れないよね」
「うん。この時代の武蔵野台地はあまり人が住んでいなくて、雑木林も多かったと思う。だから用水路を掘るときに立ち退きとか、用地買収とかを気にせずに済んだみたいだね。で、玉川用水の大部分は五日市街道と甲州街道の近くを通っている。街道の進む方向はある程度見通せるから、まずは街道とその周辺の高さを測ればいいよ」
「イタル。今の話って、正確な地図がある前提だよね。地図はどうするの?」
「方位磁石や星の位置で方角を確認してつくるんだよ。ユズナは伊能図って知ってる?」
「たしか……。かなり正確な日本地図だっけ?」
玉川上水ができてから百五十年後、伊能忠敬が日本全国の海岸線を調べて正確な日本地図を作った。
主人公がそのやりかたを知っていることにする。
縄や歩測で直線の距離を記録し、曲がり角になるたびに方角を記録する。
そうすると折れ線のつながりができる。
各所で遠くに見える山の方角を記録しておいて、角度のずれを補正する。
武蔵野台地では富士山が基準になるだろう。
「じゃあ、その主人公は伊能忠敬より百年以上も早く、同じぐらい正確な地図を描くってことかな?」
「いや、伊能忠敬より正確な地図を簡単に描く方法もあるんだ。三角測量っていうんだけどね」
三角測量の主なやりかたは二通りある。
・基準となる二カ所から目標の場所への角度を測る。
地図上で、基準の二カ所からの線を引き、交差する場所が目標の地点となる。
・ある地点から二カ所の目印への角度を測る。
地図上で、目印の二カ所からの線を引き、交差する場所が目標の地点となる。
僕が説明すると、なぜかユズナはあきれたような声で言った。
「なんか、伊能図よりすごい地図ができそうね。ところでイタル。史実と違う掘り方をするとね。水喰土だっけ、これまで知られてなかった薄い箇所にぶつかるリスクもあるんじゃない?」
「大丈夫。それも考えているさ。多摩川の上流部でとれる石灰を使うんだ。赤土に石灰をまぜると固まるんだよ。二和土っていうんだけど、これがあれば防水にできるよ。用水路に水を流して水喰土が見つかったら、一度せき止めてそこを防水加工するんだ」
「そうなんだ、ところでイタル。玉川上水の水って今でも水道水に使われているの?」
「うん。現在の東京都で使われている水道水の三分の一は玉川上水からきている。立川市あたりで取水されて浄水場に送られているんだ。そこより下流部分は、下水を高度処理した水が流れているんだ。玉川兄弟の作った用水路は今でも現役で使われているんだね」
「すごいものを作ったんだね。ところで当時の幕府は四代将軍って言ったよね。あまり名前は聞かないけど。たしか三代将軍は家光で、五代将軍は犬公方で有名な綱吉だよね。四代目って誰だっけ?」
「三代将軍家光の長男で、徳川家綱だよ。自分自身ではあまり行動しないで、政治運営は優秀な家臣に任せていた」
「そうなんだ。あまり将軍様としては、ぱっとしない人だったのかな」
「下の意見を承認するだけのことが多くて、『左様せい様』と揶揄されることもあったみたいだ。でもね。世の中は戦国から治世に変化していた。家綱にも思うところはあっただろうけど、影に徹することを選んだんだ。彼の決断が江戸時代に長い平和をもたらす分水嶺になったのかもね」