まかたち
はっと目を開けると、そこはどこか知らないところだった。
(わたし、気を失って……)
記憶の糸をたぐりよせるように、サヒはまだすこしぼうっとする頭をふった。
スメラギはどこへいったのか姿は見えなかった。そこはやわらかな光が窓から差しこみ、これまでの喧騒が嘘のようにさえ思える静かな空間だった。
サヒの身体にしみついた死臭と、垢じみた汗の匂いをかき消すように香木が焚かれ、周囲はかぐわしい匂いのする煙がたなびいていた。
(ここはどこ?)
ぼうっとする意識のままそっと腕をもちあげると、土や泥が拭いとられていつのまにかきれいになっていることがわかった。
気を失っている間に、だれかが身体を拭いてくれたようだった。
しかしこびりついたクマワニの返り血だけはさすがに拭いきれなかったのか、血の跡がうっすら残っており、それはこれまでの出来事は夢ではないことをサヒに知らしめていた。
「目が醒めましたか」
ふいに話しかけられて、サヒはどきりとした。
ふと見ると、部屋のすみに知らない老婆が背中を丸めて座っている。
「なかなかお目覚めにならないので案じておりました」
老婆は歯のない口でモソモソと話した。そして身体を折り曲げるように深く平伏し、
「今宵、饗宴がございます。饗宴にお出ましになるのにお支度なさいますようお願い申し上げます」
……と言った。
老婆はそう言うなり、すみやかに下がっていった。
「支度といったって……」
サヒは、ひとりごとをいった。
ここまで身一つでやってきたのに、支度するような衣服も首珠ももっていない。
せいぜい顔を洗うくらいか、と思った。
しかし饗宴とはありがたい、ここ何日かなにも口にしていなかったために、腹がへって目がまわりそうだったのだ。ようやく食事にありつけるとおもうと少し嬉しかった。
しかしほっとしたのもつかの間、サヒはやにわに入ってきた女に両腕をつかまれ、うむをいわせず褥から引き剥がされた。
「なんだ、どこへ連れていくのだ」
サヒが尋ねても、女たちは何も言わない。
身なりからすると、中の下くらいの侍女だろうか。ひょっとしたら「なにも言うな、話すな」と命じられているのか、もしくはそういう掟なのか……とにかく何も話そうとしなかった。
サヒが連れてこられたのは湯殿であった。
桶には清らかな湯がたっぷり沸きたち、もうもうと湯気があがっている。サヒは何ヶ月ぶりかに使う湯に嬉しくなった。もうじき春とはいえ、まだまだ暖かくなるには遠く、足袋の中の足先は凍えきっていたのだ。
しかし喜びを噛みしめる間もなく、サヒは侍女にあれよあれよという間に衣をはぎとられ、あっという間に裸にされた。
そして、芋の皮を剥くように荒縄でごしごしとこすられ、垢が徹底的にこそぎ落とされる。
何日も櫛さえ通すことができなかった髪も、丁寧に梳きこまれ、油を塗られてつやつやになった。
侍女たちは普段からこういった湯殿の世話をしているのか、一切言葉を交わさずともそれぞれの役割に無駄がなく、お互いがぶつかりあったりすることもなかった。
湯の中ですっかりきれいに洗われたサヒは、湯がいた大根のごとく美しい、透きとおった肌の色になった。
侍女たちは、サヒを湯上がりの単に着替えさせると、湯殿を出て別の部屋へと連れていった。
次の間に通されると、また別の侍女がサヒを待っていた。
ついいましがた着たばかりの白い単を脱がされ、また別の衣を頭から被せられる。
頬に触れたその衣の触りごこちは柔らかく、いつものごわごわした苧麻の衣とちがい、素肌に吸いつくようにしっとりと、それでいて柔らかく、軽かった。表面には、わずかに黄みがかった白繭の糸で縁起のよい橘の葉の模様が浮きだすように施されており、ひとめで高価な織物だとわかる。
さらに春らしい淡桃色の裳に、倭文の帯を締められ、華やかな装束になった。
これで終わりではない。また侍女が入れ替わって、次は化粧箱をもった別の女が入ってくる。
サヒを座らせ顔におしろいを塗り、まなじりに墨を入れ、唇に赤い紅を塗った。
さいごに髪結いがやってきて、洗い上がった髪の毛を梳きあげ、油をつけて髷を結い、花のかざりがついた髻華(※かんざし)をさした。
すこし派手すぎやしないか、と思うほどの豪奢な装束だったが、きれいな衣を着られるのは嬉しく、サヒも気持ちが浮き立ってくる。
それにしても広い宮殿だった。それにまだ新しい。
各々の部屋に置かれた調度も、ひとめで高価なものだとわかる。
(ここはマキムクの宮ではないことだけは確かね)
古えから三諸山のふもとに建つマキムクの斎宮は、顔が映るほど磨きあげた柱や床がえんえんと連なる荘厳な宮だ。柱は、黒光りしこそすれ真新しさなどはなく、華美な調度はいっさい置かれないので派手やかさも、ない。
この宮殿の柱など、鼻をくっつけてにおえば、まだ木の香が薫ってきそうな新しさだ。
(まさか、スメラギの宮……?)
ふと頭のなかをよぎった考えを、サヒはすぐさま否定した。
スメラギは南から来た外国人だ。ここにやってきたのもまだ最近のことだ。ヤマトに宮殿があろうはずがない。
それともスメラギはいまは磐余の邑に駐屯しているというから、気を失ったサヒを馬に乗せて磐余邑に戻り、そこの土着豪族の屋敷にでもつれてきたのか……? それならまだ辻褄があう。土着豪族のなかには羽振りのよい暮らしをしている者も少なくなかった。
いずれにしてもスメラギのやつめ、サヒが目を醒ましたのを知ってるだろうに、顔も見せないとはどうしたことだろう。
(あのおせっかいな男のことだから、わたしだけ知らない豪族の屋敷に置きざりにして、自分は仲間のもとに帰ったとは思えないしな……)
しかしその疑問は、ほどなく解けることとなる。
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身支度ができたサヒの部屋に入ってきたのは、サヒが目覚めたときに座っていたあの老婆であった。
「よきお姿です」
歯のない口でモゴモゴ喋るのはあいかわらずであったが、この老婆も宴にでるためか先ほどとは服装も違っていた。
派手さはないが、折り目正しく清潔な麻衣を着ており、サヒが思うよりずっと身分のある人物なのかもしれなかった。
(褌……?)
褌は男の装いである。とするとこの仁は老婆でなく、老翁だったのかもしれない。老いると、男女の見分けが難しくなるものだ。
「なんとお美しい。まるで伝えきくセオリツヒメもかくやという美しさですな。巫女にするなどもったいない。朝廷の女官にさえこれほどのおなごはおりますまい」
老翁は歯のない口で笑いながら、サヒの容姿を褒めそやした。
「申し遅れました。わたくしはマキムクの王、ウマシマジノミコトさまの側仕えをしておりますアキツノという老僕でございます」
そういってアキツノは深くぬかづいた。
(ウマシマジ……?)
その名を聞いたとき、サヒはどきりと胸が高鳴った。
まさかここが、マキムクの今王の宮殿だとは……。マキムクの今王ならば、前巫女王たる母のことをなにか知っているかもしれない、という考えが脳裏をよぎった。
「ウマシマジさまは、前巫女王の血をひくあなたさまにいたく心ひかれております。ぜひ、饗宴の席にて巫女舞など一手、ごひろうくだされたいとのことでございます」
アキツノは、そういってもう一度深々とあたまをさげた。
ウマシマジは自分が前巫女王の娘だと知っていることに、サヒは内心驚いた。
以前、カギロイオキミに煽られて、自分の素性をおもわず絶叫したことはあったが(※1話参照)それがウマシマジ王の耳まで伝わっているとは到底考えにくい。
そもそも鄙びた山娘が前巫女王の娘だと言い張ったからといって、いったい誰が信じるというのか。狂女のたわごとだと笑われこそすれ、信じる者のほうが少ないというものだ。
それにしてもなぜ、ウマシマジはサヒのことを知っているのだろう?
「アキツノどの、ひとつお聞きしたい。なぜウマシマジ王は、わたしが前巫女王の娘であると知っているのですか?」
「……………?」
アキツノは予想外のことを訊かれたというように、一瞬ぽかんとした顔をした。
「………それは、イワレビコ王がそうおっしゃいました」
(イワレビコ………?)
サヒは頭の中で反芻し、すぐにピンときた。
イワレビコとは、つまりあの男のことだ。
磐余邑を制圧し、手中におさめたためにイワレビコ王を名乗るとは……安直で笑わせるじゃないか。
「つかぬことをお聞きしますが、そのイワレビコ王は、私の知らぬところでウマシマジ王になんと言って引き合わせようとしたのですか?」
鳥の目のように目のまわりにきっかり引いた墨のせいもあり、サヒの眼光は鋭い。
「それは………」
なにやら不穏な空気を察知して、口ごもるアキツノ。
「若い女に舞でも舞わせてともに興じようとでもいうたか?」
サヒの言葉には針がある。
いいえ、めっそうもございません、と、アキツノはひれ伏した。
「そのような無礼なことは。ただ、イワレビコ王は気を失われたあなたさまを抱えてとつぜんお越しになり、このヒメは前巫女王の貴重な血脈をつぐ娘だから、かならずマキムクの巫女の頂点につけよ、と。いまどのような女がマキムクで力を持っているか知らぬが、このイスズヒメより他に適任者はおらぬから、かならず頂点につけよ、いますぐにそうせよ、とそう仰せになられました」
「…………………」
アキツノがいうところにはこの宴は、イスズヒメが巫女頭となることを披露するための饗宴だというのだ。
「……よく、それでウマシマジ王は諾うたな。これまでマキムクの巫女頭だった者もいただろう。その者どもは納得できぬだろうに、よく納得させたな」
「さあ、そこまでは。ウマシマジ王さまとイワレビコ王との間でどのようなお話をなさったのか、ウマシマジ王さまがどのように巫女さまがたを説き伏せなさったのか、この老いぼれには伺い知れぬことでございます」
これ以上、年老いたアキツノを責め問うのは見当違いだった。
「わかった」
サヒは、震える声を押し殺すようにして、そう答えた。裳裾を蹴立てて立ち上がり、アキツノの制止する声も聞かず、すばやく部屋を出た。
サヒはそのまま太鼓と笛の音が賑やかしい、奥まった宮殿の奥庭へと、白き足袋の音も荒らかに、足早にかけていった。