憑依
意識が弾けとび、サヒの中に別の誰かが入ってくるのがわかった。
視界が、暗転する。
ドサリと音を立てて倒れ伏す身体。
「………………」
死肉を喰らう蛆虫が這い回るかすかな音だけが、底にひくく鳴り響いていた。
その不気味な静けさのあと。
サヒの肉体がむくりと起き上がる。
大義そうに身体をゆすり、ふらつきながら立ち上がった。
『……ツミハサマ、ノ、モトヘ…、カエル……』
手がサヒの胸元をまさぐり、鯨の喉骨を、男鹿の革紐でしばった古い首飾りをさがしだし、ぎゅっと握りしめる。
……――これは、その昔。
クマワニがツミハとともに、あらゆる国という国を巡っていたころのこと。
海道を経て、隠岐へと向かう途中、突如、潮に波涛がまきおこり、艇が大揺れにゆれたことがある。
「何事か!?」
海中を覗き込むと、艇の下に黒い大きな魚影が見えた。
「おおお!」
ゆうに舟底を覆いつくすほどの、巨大な鯨が海中にひそんでいた。
鯨は、舟上の人を嬲るように、尾で大波をつくっては、船をゆらして遊んだ。
「海神だ! 海神が鯨となってわれらの船を沈めようとしている!」
水夫らは真っ青になって、船板にはいつくばってしまった。
このままでは、全員が船から放りだされるは必至である。
クマワニはくるくると衣を脱いで褌となり、銛を手にとった。
ゆっくりと魚影を観察している。
(銛は、二本きりしかない……)
クマワニは、ここ、というときに、満身のちからをかけて振りかぶり、銛先を鯨の鼻先にむけて射ちこんだ。
「命中した!」
赤い血が波間に散った。
が、負傷した鯨はなおも激しく暴れまわり、波が山のようになって舟を翻弄した。舟は激しくゆさぶられ、ツミハも人々も放りだされぬよう舷に齧りつくのに必死だった。
(このままではツミハさまが……)
クマワニは残った銛を手にとるなり、ひとり、海へと飛びこんでいった。
波間に姿をけしたクマワニだったが、二度と浮かんでくることはなかった。
ツミハはクマワニの死を哀しみ、水夫らは海神の霊威に畏れおののいた。
ところが舟が岸についてみると、先にクマワニが待っているではないか。
褌もつけない真っ裸で。
「おまえ、喰われたのではなかったのか」
驚きあきれる一同。
「あれがまことに海神であったら、喰われる心づもりをしていた」
驚くべきことに、海辺には銛がささったままの鯨が仰向けになって死んでいた。
「褌はほどけて、喰われてしまった……」
そのせいでクマワニは真っ裸になってしまったのだ。
「なんてやつだ!」
一同、驚き呆れ、たまらず大声で笑った。
ツミハも大いに笑い、
「こんな益荒男は見たことがない。われが嘉しよう、熊のような図体をした、鰐(※サメの古名)のような勇敢な男だと」
といって、このとき初めてクマワニという名を授かったのだ。
仕留めた鯨は、佐渡の族人とともに食し、喉骨をもらって首飾りにした。
そのときの誇らしい気持ちがみずみずしく蘇り、サヒの身体にも喜びが染みだしてくるように感じた――……。
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殯の宮のなかは、臭いをかぎつけた羽虫がたくさん集まってきていた。
ぶんぶんと煩くまといつく虫たちを手で追い払い、サヒの身体を依り代としたクマワニがゆらりと立ち上がる。
『ツミハサマノ、モトヘ、カエル』
喉奥からは、低く、しゃがれた男の声が、枯れた風のように漏れた。
身体を取られたサヒは、もはや抵抗する術がない。
巫女が神降ろしをするときは、かならず審神者を伴うのが鉄則だ。
なぜなら、神降ろしをしている巫女は抜け殻のようになってしまうため、巫女の口を介して語られる神託を受け取るには、審神者がいなくては意味をなさないからだ。
また巫女は、憑いた神をその身から自力で引き剥がすことができない。
遊離した魂はそのまま黄泉国へと引き込まれてしまうこともある。
だからこそ巫女のほかに、憑いた神を祓うため、審神者が同伴しなければならないのは自明であった。
神降ろしとはそれほど危険な神事であり、軽々しくやってはいけないことなのだ。
「クマワニ……」
現身から追い出されたサヒの魂は、黄泉国との境目にとどまってた。
彼に対する負い目もあって、サヒにはクマワニの狼藉を責めることができない。
ただ黄泉国との道股で、地に這いつくばってでも生きようとする彼の姿をみつめていた。
しかしそこに佇んでいると、サヒは自らの肉体を通じてクマワニの魂にふれることができた。
形があるようでないものや、においや、味のようなもの。
人の声や、音や、記憶のようなもの。
クマワニのなかの雑多な思念が、浮かんでは消えていった。
サヒはある声を聞いた。
「わたし、殺されるかもしれない」
怯えたような女の声だった。
「どうして、そんなことを思うんだい?」
これは、クマワニの声。
「だって、何人も……わたしが知るかぎりでも三人もいなくなった」
「いなくなった?」
「おそらく殺されたんだわ」
「なぜそう思うんだ?」
「だってみな神託をきく審神者だから。みな正しく神託を宣ったから。だって正しく宣らなければ、わたしたちは霊力を失ってしまう。だから正しく神託した。だが正しい神託を宣れば、あの人たちに消されてしまう。それはあの人たちにとって知られたくない真実だから……」
「あの人たちとは?」
女はぶるぶると震え、何も言わなかった。
「次に審神者になるのは、このわたしなのよ……」
「……ムメどの」
「わたしは屠られるのだろう、この邪悪なマキムクに。オヅノどの(※クマワニの別名)、あなたには良くしてもらった。わたしのことを忘れないでおくれね……」
「!!」
そのあと耳を塞ぎたくなるような、なんともいえぬ気持ちの悪い感覚に、サヒは包まれ、声にならない声をあげた。
(これはなに? こんな……)
苦しい。
息ができない。
引き裂かれるような、苦しみ。憎らしい……、哀しみ、もう戻らない。暗闇。どこまでも続く、奈落。
落ちていく感覚。
そのころサヒの肉体に憑いたクマワニは、みずから殯の宮に火をつけ、蛆虫だらけの遺骸ごとすべてを燃やしつくした。
火を吹いて燃えさかる宮と、天へと登っていく黒煙を見送り、そして自分は川のほうへと歩いていった。
「おい。……だれだお前」
不審そうに、サヒもとい、クマワニを呼び止める声。
ゆっくりと、声の主をふりかえるクマワニ。
そこには一人の男が佇んでいた。
「サヒ、じゃないな?」
サヒの姿かたちをしているが、肩を怒らせ、外股で、のしのしと大熊のように歩く姿はとても女の仕草とは思われない。
「お前、だれだ」
澄んだサヒの眼差しとは似てもにつかない、ドロリと粘りつくような目の色に、おもわず怯む男。……無理もない、クマワニはすでに黄泉平坂へ向かうべき死者なのだから。
『ワガ名ハ、クマワニ。ツミハサマ、ノ……モトヘ、カエル……』