野望
そのころ皮肉にも、暗い岩山に身をよせるトミノフツクミも、このときのことを思い返していた。
(あの女のせいで、わしはこれほど老い衰えた! あの女のせいで! なんといまいましいことか……!)
トミノフツクミは太陽の光に当たらぬよう、分厚い衣に全身を包まれていたが、その隙間から覗く手や足は枯れ木のように細くやせ衰え、深い皺が刻まれていた。
そう、『あのとき』。
あのとき以来こんなみすぼらしい姿になってしまった……―
『あのとき』。
タタラヒメを殺せと、カギロイビコをけしかけたのはトミノフツクミであった。
カギロイビコ……―
あの気短な愚か者。
とりたてて聡明きわけでもなく、取り柄もなく。
ただ、目の中にぎらぎらとした野心を燃やしていた……―
だが、こちらにとってみれば好都合だ。
野心があればあるほど、いいように心を操りやすいのだから。
この男はタタラ屋の使い走りだった男で、斎垣の奥にひっこんだままめったに姿を現さないマキムクの巫女王がいつどこに姿を現し、いつどこで祭祀を行うか知っているというのである。
「マキムクのあの巫女王の命を奪うことができたら、おまえを将軍にしてやろう。そのように、アスカにいましますニギハヤヒさまが仰せであるぞ」
……そう吹き込んでやればいいだけであった。
「この詛い玉を投げるだけでよい。いいか、これについて多くは聞くな、そしてだれにも漏らすな。ただこれを投げるだけでよい」
そういって、トミノフツクミは赤子の頭ほどの大きさもある得体のしれぬ玉をカギロイビコにわたした。
中に、なにが入っているのか、ぬらぬらと内側から青い燐光をにじませている。
やわらかく、どこかなまあたたかい。
カギロイビコははじめ、受け取ることすら躊躇った。
それは、鼻が曲がるほどの異様な臭気をはなっていたからだ。
何か禍々《まがまが》しいものであることくらいは、容易に想像がついた。
この玉のなかには詛いの泥が入っていた。
恨みと憎しみに悶え死んだ者の生き血と生肝を混ぜてすりつぶし、さらには三年のあいだ壺にいれて寝かせ……
それを牝鹿の胞衣に包み、洩れでぬように口を縫いあわせたものだ。
「なにをしておるか、王の御心である。受け取れ!」
業を煮やしたトミノフツクミは、むりやりにカギロイビコの手にこの玉を握らせた。
そのとき……カギロイビコの顔つきが変わったのがわかった。
(うむ、見込んだ通り。こいつのタマシイに合わぬというわけでもないようだ)
これを手に取った瞬間、強い瘴気にやられ、気狂いになる者もいるからだ。
「よいか、この詛い玉を、あの忌々しい女に向かって投げよ! そしてヤツを穢すのだ!」
この泥で、あの巫女の身体を汚すことができたら。
火燼の燃えつきるごとく病み萎び、苦しみのたうちながら、やがては詛い死ぬる……。
この呪いは、身体を洗おうが禊ぎをしようが、皮膚を削り取ろうが、もう遅い。
一度でもその身に被ってしまえばそこから徐々に呪詛が浸潤み、もう死から逃れることはできない。
トミノフツクミは、その光景を思いうかべるにつけ湧きあがる笑みを抑えきれなかった。
あの忌々しい巫女が死ねば、マキムクが手に入り、マキムクが手に入れば、もはやヤマト国内が手に入ったも同然であった。
……ところが、誤算があった。
カギロイビコが思い違いをして、玉を投げる先を間違えたのだ。
タタラヒメの顔面に投げつけるはずの詛い玉を、よりにもよって、タタラ炉に投げ入れてしまった。
いままさに天から神々がくだりきて、融和のときを待つばかりになっていたタタラ炉に、である。
たとえ手塩にかけて育てた呪具といえど、神々の前にはひとたまりもない。
……いや。
それだけで済むはずがなかった。
神々が降りた炉が、汚泥で穢されたのだ。
神々の怒りを買わぬはずがなかった。
詛いの玉が爆ぜると同時、いや爆ぜる一歩手前で、すさまじい地鳴りと轟音がこだました。
閃光とともに、火柱があがった。
神の気を帯びた火柱は二つに裂け、あたかも火に化身した大蛇がごとく口を開け、火の粉を噴きあげつつ詛い玉ごとすべてを飲み込んだ。
トミノフツクミは一部始終を、この岩屋にいながらにして見ていた。
というのも、あらかじめカギロイビコには、九十九の魚から抉りとった目玉を聯ね頸玉にし、それをカギロイビコの首にかけさせ、タタラ屋によこしていた。
したがってカギロイビコの見る景色はそのまま、その魚の目玉を通じて水鏡に映るようになっているのだ。
むろん、これはカギロイビコが裏切らぬか、監視するつもりでそうしたのだが。
……これが仇となった。
火の大蛇は、カギロイビコの頸玉の魚の目をたどり、トミノフツクミのもとまで一気に伝い上ってきたのだ。
「ぎ、ぎ、ぎゃああああーッ!!」
水鏡を覗きこんでいたトミノフツクミは、まともに呪い返しを喰らい、あまりの衝撃と熱波のために弾けとんだ。
(なんということ、なんという、力……!)
立ち上がろうとしても、しばらく動くこともできなかった。
顔にはひどい火傷が残った。
トミノフツクミの顔いっぱいに彫られた、この大きな目玉の入れ墨が守っていなければ、頭ごと吹きとんでいたかもしれない。
そんなことがあって以来、なお一層トミノフツクミは老い衰え、醜く、その外貌のみならず心の内もより残忍になっていった。
(あの女め。黙って死ねばよかったものの……!)
長い爪が食いこむほど、強く拳をにぎりしめた。
(だが負けはせぬ、今度こそ。命が助かったのは幸いであった。我が望みはただひとつ)
とおい昔……、無念にも滅ぼされた『シムミチ』の再興。
ハタレ者と蔑まれ、討伐の憂き目にあったもっとも恐れられた巫王の血脈。
トミノフツクミの望みとはこのシムミチの血をいま一度よびさまし、ヤマトを拠点として大きなクニを作ることにあった。




