火の祭祀(まつり)
それは、月ものぼらない漆黒の暗闇。
地にくいこむように打ち下ろされた矛。そのさきに下げられた鉄鐸の音が、五臓六腑を震わせた。
暗闇に火がともる。
火の神殿へと続く山道のわきに、あまたの篝火が置かれており、そこに松脂がほおりこまれるや、火は勢いよく燃えさかりはじめた。
まっくらな山道が、燃えるように明るく照らされる。
これより始まるは、タタラ炉に初火をいれる火の祭祀。
篝火に照らされた道を、伴人を引きつれ、白栲の被き物をした女がいく。
マキムクの巫女王、タタラヒメである。
被き物にかくれ、顔は見えない……―
その代わり樫の木でできた面を首から下げ、それが顔としての役割をしていた。
やがて木々の間から人がひとり、またひとりと姿を現し、タタラヒメの後に続く。
タタラ炉ではたらく火守人たち。
その下で雑用をする犬(※奴隷)ども。
そして、それらを束ねる火守長老ヤマヒコ。
みな上衣を脱ぎすて、その盛り上がった逞しい胸板からもうもうたる湯気を噴きあげていた。
火守人たちはそれぞれ、ひとりずつ燃えさかる巨大な松明をかつぎあげる。
ヒノキの割板を束ね、そこに持ち手を差しこんだ巨大な松明で、一本で大人の女ひとり分ほどには重みがある。
火守人らは活火と燃えたぎるそれを肩にかつぎ上げ、軽々とふりまわし、夜闇に火の粉を振りまいた。
ただ、だれひとりとして口をきかない。
軍人のように、勇壮な雄叫びもない。
掛け声ひとつ、咳払いひとつ、聞こえない。
太鼓も、笛の音もない。
ただ、一団がならす鉄鐸のさざめきが風にのって聞こえてくる。
そのほかには、益荒男の息遣いのみ………
秘された祭祀だった。
この祭祀は他所者はもちろん、近隣の村人や里人の目にさえ、触れさせてはならない。
このタタラ炉の神事は、神々と工人との秘めた誓い。
よそから来た者が踏みあらせば、神域は穢され、大いなる災いを招くと畏れられていた。
金屋のタタラ炉に火がはいる。
初火入りのこの瞬間。
ここに集うだれもが息を詰め、神々の機嫌をうかがう。
このとき火口にうまく火が移らなければ、火の神々の御気色は芳しくない。
しかしこの日は、喰いつくように火がつき、炉内に一気に火が回った。
「おおっ」とほうぼうから歓声が上がり、
「神々が言祝いでおる。きっとすばらしい鉄が生るにちがいない」
と、長老の顔にも喜色が浮かんだ。
山を切り崩し、苦労して採った砂鉄、その砂鉄を火に焚べる。
焼きしめた炭をどんどん放りこみ、千人鞴でどんどん風を送る。
しかしこれだけでは鉄は生まれない。
鉄を生むには、神が降りなねばならない。
カグツチとサヒモチの神を呼び、二神が宥和せずばよき鉄にはならない。
そこでマキムクの火の巫女、タタラヒメがその一つ身に二神を下ろすのだ。
タタラヒメは唯一無二。
生まれながらに、火の神に愛でられた巫女。
タタラヒメが一舞いするだけで神々が喜び、『火の緒』はより強く結びつき、粘りのつよい鉄が生まれる。
だからタタラヒメでなくばならぬ。
マキムクの王にはタタラヒメこそふさわしい。
山の土を火に喰わせ、無から有を、土から鉄を生み、奇しき霊力でヤマトのクニを豊かに栄えさせた偉大な巫女。
ほかの、歴代の男王では成し遂げられなかった偉業である。
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「わたし知りませんでした。母のこと」
サヒは俯きかげんにいった。
母がなにを成した巫女だったのか。
偉大なマキムクの巫女王だったいう言い伝えだけで、なにが偉大だったのか。
姉巫女も、わたしに何も言ってくれなかった。
「そうでしょうとも。火の祭祀は秘された神事。もし広く知りわたれば火の神の機嫌を損なうことになる。だから巫女王と、そのごく側近の巫女しか知らなかったはずでございます」
ヤマヒコは、遠いむかしに思いをはせる如く、見えない目を細めてみせた。
「わしは、タタラヒメさまに御子がおいでになることすら存じ上げなかった。おそらく尊き命を狙われることを恐れてのことだとは思うが……、なにせ秘密の多いところでございますな、マキムクというところは」
「命を狙われる」という言葉の刃のするどさに、サヒは内心どきりとした。
トミノフツクミの禍々しい顔と、中つ湖に突き落とされたときの恐怖を一瞬、思いだしたのだ。
「タタラヒメさまは用心深いお方でしたよ。身につけるもの口にするものだけでなく、伴人に至るまで、非常に気をつけておいでのようでした」
「だれかに、命を狙われていたということ?」
ヤマヒコは曖昧に首をかしげ、
「とにかく、素顔を決して晒さぬ方でございました」
と、答えた。
『おおいなる巫女王の尊顔を直に拝すれば最期、目が潰れる』
『タタラヒメは、目も鼻もとけおちる悪疾もちで、顔も身体も瘤だらけ。とても見られたものじゃない』
みな、そんな噂話を信じていたから、タタラヒメを見ようとする物好きなどいなかった。
巫女王の素顔を知る者はごく限られていた。
王の身の回りの世話をする、ほんの一握りの従婢と、王の腹心の巫女が、幾人か。
それ以外には、背(※夫)である事代主ツミハだけだったのではあるまいか。
タタラヒメの世話をする従婢らは、喉笛が切り取られていた。
ヒメの身の回りに関して、外に余計な流言ができぬようにである。
それほどまでに、マキムクの宮は徹底してこの巫女王を秘匿したのだ。
「わしにはわかるよ。いや、わしにしかわからぬ。タタラヒメは美しいお方であった。悪疾など、とんでもない」
ヤマヒコは微笑んだ。
「美しすぎるゆえ、人目を忍んだのでございましょう。端麗しき面貌など見せびらかしてもロクなことがない………」
マキムクの環濠のそとには、好色な土豪や、荒くれた土蜘蛛、得体のしれぬ流れ者どもが掃いてすてるほどいたからだ。
そう思えば、ツミハと出会ったのは三諸山の禁足地で、だれも知らぬ、ふたりきりが知るできごと……ほんとうに奇跡のようなできごとであった。
そうでもなければ、絶対に出逢うはずのない二人だったのである。




