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タマとシヰ



 ぎゃああぁぁ——………


 山腹にはねかえってこだまするような悲鳴をききつけたタケヒトは、思わず剣を引きよせ、腰を浮かせた。

「なんだ?」

 耳をすます。

 しかしそれっきり何も聞こえない。



「おいおいおい………」

 いまのは間違いなくサヒの声だった。

 矢で射抜かれたような痛みが、タケヒトの胸を貫いた。

 もはや、考えている余裕はなかった。

 竹のムチのようなしなやかさで、足裏は地面を蹴った。



 ……だが。

 さっき聞いたばかりのサヒの声が蘇る。

『あなたはここにいて、トマノヒメを守って』

 後ろをふりむくと、つげの木を背もたれにして弱り果てたトマノヒメが座っているのが見えた。



 そんな約束守れるか!

 とにもかくにも、サヒが無事であることをまず確かめなければ。

 そのほかのことなど、どうだっていい。

「いいか、そこを動くなよ!」

 トマノヒメに命じ、タケヒトは全力で駆けだした。






 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−






「いっちゃったね………」

 残されたトマノヒメにそっと声をかけたのは、ミオツヒメだった。

 たぬきのような愛嬌のある目元は、こんな状況に場違いなほほえみをたたえていた。


 ミオツヒメはそっと手を差しだした。

 別段、なんのことはない、人を助け起こすためのごくありふれた仕草であった。

 しかしトマノヒメは、その手をとらなかった。

 固く握りしめた手を、袖のなかに隠した。

 なぜか。

 トマノヒメにすらよくわからない。

 本能的に感じとった、危うさ。



「なぜ避ける? かわいくないね」

 ミオツヒメは手に巻いた白い布をするすると外し、手の甲についた醜い傷をあらわにした。

「これ、何だと思う?」

 皮膚かわが引き攣れ、大きなかさぶたに覆われた傷。

 その傷を見せつけるように、トマノヒメの眼前に近づけた。



「………………」

 トマノヒメは答えない。答えられない。

 声は喉元でわだかまり、一言も発することができない。

 ……なにかを恐れるあまり。

 まるで背後にやじりの気配を感じとり、動くことができない野鹿のごとく。



「かわいそうだね、かわいそうだね」

 ミオツヒメはいった。

「でも仕方がないんだ、私だって………」

 いいかけて、唇をつぼめ……やっぱり言うのをやめた。

 憐憫など必要ないのだ。




 ……やがて、

『ハヤカレ、ナミカレ、オソカレ、シツカレ、ナカカレ、ホツカレ......』

 低く、細く、舌の上でころがるとごいの言葉ことのは

 ミオツヒメが唱えるは、夭折わかくしてしぬみたま強引しいて肉体から引き剥がすためのとごい。

 押しては返す波のごとく、死肉に喰いつく虫の羽音のごとく。

 低く、細く、紡いでいく。




「ねえ、どうやって死にたい?」

 優しい声と裏腹に、トマノヒメの細い首に絡ませた指に容赦なくちからを込め、ミオツヒメはそういった。






 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−






 どれくらい経っただろうか……サヒにはよくわからなかった。

 体ごと麻袋に突っこまれ、そのまま馬の背にくくりつけられて、どれほど来たかも……。

 頭を殴られたせいか、なにもかもが朦朧としていた。


(おかしいわ……)


 朦朧としながらも、うっすらと何かが違うと感じた。

 ただ、なにがおかしいのか。

 はっきりしない頭では考えがまとまらなかった。

 そのまま、ふたたび意識が遠のいていく………



「う、うわ! や、ヤメロ! ぐっ……ぐふうっ………!」



 はっと、意識が戻った。

 いまの異様な叫び声は、あの兵士のものだ。

 私を拐かしたギョロ目の男……

 あの男が、敵に襲われている。

 タケヒトかしら? それとも別の、誰か……?



(わからない………)

 サヒには、外の景色がどうなっているのかさえわからないのだ。

 麻袋の口はがっちり閉ざされ、わずかも外を窺い見ることすらできない。

 ただ暗闇のなかに、五感を研ぎ澄ました。



 乱れた息遣い、草を踏みしだく音。

 馬はいななき、後ろ足で立ち上がった。

 麻袋の中にいるサヒは、舌を噛まないように必死で奥歯を噛みしめる。

 どさりと、何かが倒れる音。

 そして。

 血の匂い!

 喉の奥に吐き気をもよおす、生臭いにおいが辺り一帯に立ちこめていた。

 



 しかし緊張は一気に緩んだ。

「サヒ!」

 懐かしい声に、名を呼ばれた。

 その声は、タケヒトのものではなかった。

 麻袋の口をほどかれるのももどかしく、サヒは大きな声でその人の名を呼んだ。

「フツ!」



 ………あ、と思ったときにはもう、サヒの体はフツの腕の中に包まれていた。

 血の匂い、土の匂い、そして獣の匂い。

 サヒはフツの匂いに包まれ、なにかホッとするような安堵を覚えた。

「フツ、助けにきてくれたの?」

 サヒは尋ねた。

「うん」

 フツは言葉少なく答えた。



 フツはどこにも隙間がないほどサヒの身体をぎゅっと抱きよせたまま、なかなか離そうとしなかった。

「もういいわ、離して」

 さすがに息苦しさを覚え、サヒはフツの腕をふりほどいた。

「フツ、なんだか大きくなった?」

 しばらく見ないうちに、フツの体格はなぜか格段によくなっていた。

 肩幅は広くなり、胸板は厚くなり、背丈が伸びて見上げるほどになっていた。

 最後に別れたのはまだついこの間だったはずなのだが、一回りほども体格がよくなっている。

「さては私がいないうちに美味しいものをたくさん食べたわね」

 サヒは冗談をいった。




(それにしてもころしたものだ……―)

 サヒは、周囲に広がる惨劇に眉をしかめた。

 サヒをかどわかした兵士の身体は、手といわず、足といわず、首といわず、こなたかなたに千切れとび、そびらからのみどにかけて、いまだ太刀が突きたてられたままになっていた。



 フツは顔色ひとつ変えず、死骸から太刀を抜きとり、流れ落ちる血をベロリと舐めた。

「まずいな」

 すぐに唾と一緒に吐き出す。

 フツは、千切れかけた男の腕を持ちあげ、枝かなにかをりはらうように太刀を振るった。

 そして「まずい」といったくせに、切った男の腕に齧りつく。

 フツの獣のような犬歯にちぎり取られる生肉。



「だめよ!」

 サヒはフツを制した。

「ヒトを食べてはいけない! 前にもそういったじゃない!」

「なぜ?」

 ただ純粋に、首をかしげるフツ。

「俺は、腹が減っている」

 そう言ってのけるフツの白い歯と唇が、生々しい真紅に染まっていた。




 それに対し、サヒは決然と言い返した。

「フツ、あなたのために言っているの」



 ヒトの命は「タマ」と「肉体シヰ」が「タマノオ」によって結いあわされてできている。

 ヒトは死ぬとタマとシヰが分離し、タマは黄泉国よもつくにへと翔け、シヰは土へと帰る。

 しかしたとえ死んだとしても、ただちに、きつく結われたタマノオがほどけるわけではないのだ。



「いま死んだこのヒトの魂は、まだタマノオがほどけきれていない。だからこのヒトの死肉を喰らえば、魂も喰らうことになってしまう。黄泉国へと翔り去ることを望んでいる魂をフツが食えば、フツは生きながら死した魂をもその身に取りこみ、生きているのに死んでいる”の者”となってしまう……。私は、フツがそうなることを望んでいないわ」



「………うん」

 フツは頷きつつも、どこか納得いかないという顔をしていた。

 


 サヒは、諭すように続けた。

 「……それに、ヒトの肉を食べるのは、一番好きなヒトが死んだときにすべきことよ。そのヒトの魂を取りこみ、自らが化の者になっても悔いがないほど好きなヒトの亡骸なきがらだけよ」



「そうか、わかった」

 とたんに、フツは物わかりがよくなって、手に持っていた血まみれの腕を躊躇なく草の中にほうり投げた。

「サヒがいうなら、もう食わない」

 そう言って、転がっていた生首を足先で弄び、あげくに思いっきり遠くに蹴とばした。

 男の生首は緩やかな半円を描き、沢むこうの茂みに落下した。


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