土(はに)のひとがた
逃げてください、ここから。
でなければ次はあなたが、死ぬことになるかもしれない。
激しく降りしきる雨は夜明けとともに止み、朝もやのなかに光をつつみサヒの足元を照らしていた。
トマノヒメは光の中にたつその姿を、すがるような目でただ見ていた。
しかしすぐに我に返り、あわてて首を横に振った。
「なにを出し抜けに、逃げるなんて。なぜ逃げたりするんですか。そもそもあなたは巫女頭じゃありませんか。罪になるようなことをやすやすと口にするなんて……!」
トマノヒメの声は弱々しかったが、その眼差しは鋭かった。
サヒだってわかっている。
でも、黙ってはいられなかった。
サヒは背後をふりかえり誰もいないことを確かめつつ、
「ムメどのと呼ばれていた巫女が、マキムクにいたのではありませんか?」
とだけ、いった。
トマノヒメはさっと顔色を変え、「なぜそれを?」と言いたげにまじまじとサヒの顔を見返した。
ムメという名は、クマワニから流れこんできた記憶の断片から拾いあげた名であった。
サヒは、さらにたたみかける。
「ムメどのとは、神の声を媒する審神者だったそうです。その人はもうここにはいない。殺されたのではないですか?」
その声はトマノヒメにだけ聞こえるほどの小声だったが、一語一語、トマノヒメの心に刺さっていくのが手にとるようにわかった。
「あなたはまだここに来て間もないはず………、ムメノトメのことなぞ知るはずもない。それなのに、なぜそれを知っているの?」
その目はこぼれ落ちそうなほど大きく見開かれ、驚きと慄れに満ちていた。
「あなたは、だれがムメどのを殺したのか知っているのではないですか?」
サヒは尋ねた。しかし、トマノヒメは震える指先で口元を覆ったまま、
「………私にはなにも、わかりません。なにも知らない。なにもわからない………」
そう、青い顔でつぶやくだけだった。
「あなたはなにを隠しているの?」
トマノヒメはとんでもない、といったふうに首を振った。
「隠しているなんてことありません。わたしは本当に何も知らない!」
その表情を見る限り、嘘をついているようには見えなかった。
「でも、ムメどのが死ぬ前にも………」
サヒは手に持った青竹の咬ませ棒を、トマノヒメの目のたかさに持っていきつつ、
「あなたがこうやって局の一つに閉じこめ、弱らせてから殺したのではないのですか?」
「それは私じゃないわ! 私は回し文をもらって………命じられたとおりにしただけ! あなた……イスズヒメのときだけよ!」
なるほど、回し文でだれが犯人かわからないようにしているというわけか。
しかし「だれが」ということはわからないにしても、弱らせて殺すというのはあながち嘘ではないにちがいなかった。
……それなら次に殺されるのは、誰か?
「次に殺されるのは、あなたか私のどちらかということになるわね」
ひょっとしたら、その両方かもしれないが。
「………いいわもう私なんて。どうなってもいいの」
ところが、トマノヒメの口から漏れたのはひどく投げやりな言葉だった。
「別に、殺されたってかまうもんか……」
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トマノヒメ………いまでこそ巫女を気取った名をもらい、マキムクで暮らしているが、もとをたどればここよりずっと北方にある「トマ」という邑からきた、身分もなにもない娘だった。
トマノヒメというのは、マキムクに来てから冠した名で、もとの名は違っていた。
邑は貧しく、族人らは食っていくのさえやっと。
収穫が近くなると決まって大水がきて邑が沈み、せっかく実ったムギもヒエも、みなだめになってしまう。
そんな調子だから、族人はいつしか一人、また一人と邑を捨て、若い者から順番にこの土地を捨てどこかに逃げていってしまうのだ。
働き手を失い、邑はますます病み衰えていくばかりだった。
あるときトマに放浪人がやってきて、どこの邑でも新嘗の祭りで浮足立つこの季節に、カビの生えた芋を食っているこの邑の惨状をまのあたりにして、こういった。
「ここは呪われた邑だ」と。
見よ、この川を。
悪しき神の力によりて赤黒く色をかえ、さらに干萎びかけている。
しかしひとたび雨が降りはじむれば止めどもなく、天が干萎びるほどに底なしに降りくだり、家も人も草木もすべて押し流し、命を喰って吠えたける荒神となる。
大八洲国広しといえど、これほどの放埒な神も珍しい。
このままでは天地の遊びに翻弄され、里人は最後のひとりになるまで飢え、牛も鳥も病み衰え、ただ葦の穂だけが水面に揺れる不毛の捨て地となるだけであろう。
わずかに残ったトマの里人は、放浪人が滔々と話すこの恐ろしい話を、かたずを飲んで聞いていた。
口に出すのは憚られ、だれもなにもいいはしないが、全くその通りだと誰もが思っていた。
どこの馬の骨ともわからない汚い旅人の話を信じてしまうほど、トマの里人は心身ともに疲弊しきっていた。
「それを避くるには、どうすればよいか」
もっともてっとり早い方法がある。
まず土で人形を作れ。
九つ作れ。
それぞれに悪しき神の好む、臭いの強い獣の血を練りこめ。
するとそこに、腐りおちる肉に群がる蝿のごとく、邑にはびこる悪しき神がむらがり宿るだろう。
そして七歳になるまでの子どもを九人集めよ。
その子らに、それぞれにひとつずつ持たせてほうぼうに追い払え。
二度と、邑に戻ってくることがないよう強くいい含め、はるか遠い国へ追い払え。
そうすればこの邑に巣食う災いの神も、この子らとともに他の土地へと去るだろう………。
そのとき土饅頭を持たされ、わけもわからず邑から連れだされ、どこともわからぬ深い森においていかれた九人の子どものうちの一人が、トマノヒメだ。
幼いトマノヒメ………もとい、その頃は「タマモ」という両親からもらった名があった。
置いていかれたことを知ると、タマモは大事な土の人形も放りだして泣きいさち、どこをどう歩いたのかわからぬままマキムクにたどりついた。
「なかなかいい子じゃないか、いまは目鼻がついただけでも、舞でも教えたら見栄えがするよ。なにせマキムクは新しい巫女をいくら迎えても足りないくらいなんだ」
そう、もとからいたマキムクの巫女が追放された(そのときサヒの同胞も追い出された)ため巫女が足りなかった。
巫女としての心得がなくても、故郷で食い詰めた流れ者であったとしても、女であればだれかれかまわず、いくらでも雇いいれたかったのだ。
そうやってタマモはトマから来たトマノヒメとして、マキムクに居着くことになった。
「だから私にはもう帰る故郷も、逃げるところもどこにもない。父母は私を死んだものと……いや土の人形とともに死んでいてくれとさえ思っているにちがいない。ここよりほかに帰るところはなく、逃げるというなら黄泉国よりほかにないのです」
「ひどいわ。子どもを依代にして自分たちだけ助かろうとするなんて………」
サヒは、そんなデタラメな呪いを勧める者がいることが許せなかった。
いやむしろ、デタラメだからこそ恐ろしいと思った。
呪いは一歩間違えば神々の激しい怒りを買い、さらなる災いがどこに飛び火するか知れたものじゃない。
「トマノヒメの立場はわかったわ。でも、黄泉国に行くのはもっと足掻いてからにしましょう」
黄泉国へといざなうのが神々だというなら、死をも甘んじて受け入れるが、サヒの見立てるところマキムクで巫女を殺している者は少なくとも「神」ではない。
神は、そんな人の殺し方をしない。
「ねえ、あなたの国でこの人を匿えるでしょう」
サヒはさっきから戸口に凭れて二人の話を聞いていたタケヒトに視線を転じ、冗談めかして笑っていった。
「磐余邑のイワレビコどの」
タケヒトは、いつもは無駄に笑顔をつくらないサヒがにわかに不敵に笑んでみせたので、驚いて目をしばしばさせている。
「クマワニを殺されたとき、もうこんな思いは絶対にしたくないと思った」
もう、仲間を殺されたくない。
殺されるかもしれないと知っていながら、トマノヒメをこのまま放っておくことなんてできない。
「磐余邑へトマノヒメを連れていき、匿ってやってほしい」
「それは構わないが、しかしそれでは………」
タケヒトは口ごもり、「それではお前を守る者がいないではないか」と、消えいりそうな小さな声でいった。
「案ずるな。私もここを離れるから」
マキムクに母はいなかった。
サヒとしても、いつまでもここにいる理由はなかった。
「ではここを離れてどこへいく?」
「………………」
サヒは答えない。
「俺は許さないぞ! ………俺は」
俺の目の届くところから離れるなんて許さない!
俺は、こんな女はどうなってもいいんだ!
お前以外の女を守るつもりなんてないんだ!
タケヒトがそう叫ぶのは目に見えていた。
サヒは自分の口に手を当て、タケヒトの次の言葉を制した。
サヒの視線の先に、人が立っている。
「あなたは………ミオツヒメ?」
廊下のさきの暗がりにぼうっと立っているのは、いつだったか言葉を交わしたことがあるミオツヒメであった。
しばらく見なかったが、どこでなにをしていたのだろう。
サヒの局に青竹を咬ませたのがトマノヒメだったように、次にトマノヒメの局に青竹を咬ませるよう命じられたのはミオツヒメだったのだろうか。
ミオツヒメは咬ませたはずの青竹がサヒの手にあることを目の当たりにして、呆然としているようだった。
「あら、あなた手をどうしたの?」
ふと気がついて、サヒが尋ねた。
怪我でもしているのか、ミオツヒメは手にぐるぐると白い布をまきつけていた。
するとミオツヒメはその手をそっと胸に抱きしめ、「少し痛めたのよ」と、伏し目がちに答えた。




